第21話 イバネマ国2
昨夜の事は夢だったのではないかと目が覚めた瞬間、コウヤはそう思った。「夢じゃない…」隣には丸くなるリョウがすやすやと眠っている。暫く呆然としたが、この事態はどうしたものかとコウヤはぐるりと部屋を見回した。「まずいよな、これは。」
はたして言い訳が通用するのだろうかとコウヤは溜息をついた。理由はどうあれ貴族社会の常識では知りませんでしたでは済まない事態に陥っていると彼は冷静に考えていた。しかし、嫌がる様子はないリョウを眺め、その薄い色素の髪に手を伸ばした。
リョウの肌は抜けるような白さだ。不健康にも見えるのはあの命を糧とする魔法の核の所為なのだろうか。ふわふわと跳ねる髪はとても綺麗だった。母のセシリアは長い金髪をきちんと結いあげ隙のない姿が記憶に残っていた。「リョウは自然なのがいいな。」
コウヤはぽつりと零した。母親の呪縛から抜け出せるかもしれない。リョウの髪に触れ、その柔らかな手触りが胸に詰まる。
当然の様に手の中にあった幸せに突然裏切られた喪失感にコウヤは苦しんできた。
死んでしまったのならそれなりに区切りも付けられたのだろうが。理由のない失踪という事実はコウヤを縛り、忘れさせてはくれなかった。そして一部の人間はそれにコウヤが関わったと噂をする。皇族と貴族の子弟しか在籍しないモントール学院は皆ミカミ家の事情を知っている。個人情報などあって無きがごとし。表面は慇懃無礼に近寄り、裏では指を指し笑う彼らの内面が見える様だった。
それは強ちコウヤの被害妄想ではなく弱いものを論い、おとしめて自分が優位に立つという彼ら独特の精神構造にあったのだ。
一時的なものなら良いが、常に好奇の目に晒されるバカバカしい雰囲気にコウヤは心底うんざりしていた。
誰も知らないところで生きてみたい。いつしかコウヤはそんな風に考えるようになっていた。誰も自分をミカミの長子として色眼鏡で見ない場所で生活したい。そんな思いは膨れ上がり止められない所まで来ていた。
リョウの頭に触れる手が止まった。
コウヤの手を取り頬を摺りつける。そのリョウの仕草にコウヤの心臓がとくんと跳ねた。「やべ、可愛い。」
生れて初めてコウヤは自分から女性に触れたいと思った。でも恋愛感情のそれではなく小動物に向かうものであったのだが。
目を瞑ったままコウヤの手にふるふると頬を押しつける子猫に彼はじわりと心が温かくなるのを感じていた。
人肌が心地よい。こんな気持ちは知らなかった。コウヤは動物とも相性が悪かったのだ。犬には吠えられ猫には爪を立てられ馬には蹴られそうになった。「おは・よう?」「あ…おはよう、リョウ。よく覚えてないんだけど…どうして一緒に寝てるのかな。」
とりあえず此処は自分に宛がわれた部屋である。「コウヤの・気配が・外にあって・心配。」
そう言うとリョウは白い寝間着姿で部屋を出ていった。
「あの…質問の答えになってないんだけど。」
はぁと大きな溜息をついたコウヤは言葉の相互理解に程遠い彼女との距離に頭を悩ませていた。
支度を済ませ大部屋に行くとジル以外は全員集まっていた。その中に見知らぬ女性がひとり。
「コウヤ、です。」名前だけを名乗り頭を下げた。腕を組み、全く友好的な雰囲気ではない女性は挑戦的な笑いを浮かべ言った。
「イシュタール・アライア。ジルの妹です。盗み聞きはモントールでは普通なのかしら?貴族とは思えないやり方よねぇ?」
コウヤは身構えた。「それがアンタにどういう関係がある。望んで貴族に生れたわけじゃねぇ。」周りは二人を静観している。
「ふうん…その啖呵。純粋培養のおぼっちゃまってワケでもなさそうね。」「あんたは何が言いたい。」
コウヤは思い出していた。昨日の声の女だ。顔はぼんやりとしか浮かばないがこの女に間違いないだろう。
盗み聞きとはその事か。どうやってそこに行けたのは分からないが自分は了解もなくあの部屋に入り込んだのだろう。
大部屋の人々はふたりの舌戦をそれはとても楽しそうに見ている。止める気はないらしい。
それを敏感に嗅ぎ取ったコウヤは居直った。そっちがその気なら受けて立ってやる。
「別に何も。ま、得体の知れない貴族の息子もいるってことね。」ふん、とアライアは勝ち誇った。
コウヤは口角を片方くいと上げた。
「お言葉ですが、平民のお嬢様は理由も無くいきなり子供を怒鳴りつけるのが正しいと、大人の貴方は認識されておられるのか。」
アライアの形相が変わった。「その子供が随分偉そうね。理由ならあるに決まってるじゃないの!」
「では、是非、お聞かせ願いたい。」「………っ!それは…言えないわ。」「なぜですか。私には知る権利があると思いますが。」
「言えないって言ってるでしょ!男のクセに小うるさいっ!」誰かがくすりと笑った。
アライアは怒りで赤くなったり青くなったりしている
コウヤははぁ、と大仰に溜息をついた。「男のクセに、ですか。そういう括りで仰るのでしたら大人の女性の貴方は随分と無礼で理不尽だと思いますが如何でしょう。それでは貴族にはお嫁には行けませんよ?」誰かが完全に噴出した。
「なんですってぇ!!大きなお世話よっ!」「こちらにも大きなお世話です。同じ理由で貴族だからと文句を言われる筋合いもありませんし。」
もう論点がずれている。カルロスなどは腹を抱えて爆笑していた。「うぉ…やるなぁコウヤ!このお嬢様にお口で勝てる男はまず、居ないんだぜ?俺が褒めてやる。」嬉しくもないお褒めを頂きコウヤは椅子に腰掛けた。
眼の前にはふるふると体を凍りつかせるイシュタール・アライア。話はまだ終わってはいないのだ。
パンパンとジルが手を叩いた。「気が済んだかアライア。」「……済むわけないでしょうっ!何なのこの生意気な…」
「はい、お終い。それ以上は負け犬の遠吠えです。素直に認めましょう。」年下のスバルが元気よく仕切った。
全然話が進みません、困ったな。