第2話 序章2
目線だけは少女から外さずにコウヤは己の深層に嵌っていった。
それは想い出というには余りに悲しく儚い物だった。記憶の中の母はいつも楽しそうだった。
彼女に叱られた事などないと思う。母は生まれたばかりの妹を抱き春の陽だまりの中で…花の様に微笑んでいる。
しかし、美しく輝く記憶はそこまでだった。
6歳のコウヤは何者かに誘拐され、1ヶ月後に無事救出されたが一緒に浚われたと思われた彼女は行方不明のまま姿を消した。
何度聞かれてもコウヤにはその時の記憶が無く、最後には何も分からないのかと周りから責められた。
小さな子供を攻め立てたのは母方の親戚で王族の流れを組む上級貴族達だった。
最愛の奥方を必死に探し続けていたミカミ将軍は信用して預けた妻の姉、正確にはその夫を生涯許す事はなかった。
それにはミカミ・セシリアが引き継いだ莫大な財産が関係していたのだ。
もし、彼女の死亡が確認されなければその財産は没収され王国の預かりとなってしまう。
手ががりも無く過ぎて行く日々にもう彼女は見つからないどころか生きてはいないのではないかと人々は思い始めていたのだった。
彼女が亡くなっていたのならばその財産は実家が相続するという契約に周りの守銭奴共は色めき立っていた。
領地の税収だけでは生活していけない無能な貴族達は身分の高い自分の娘達を軍人や裕福な商人に嫁がせるかわりに持参金その他を彼女らが鬼籍に入った時点で実家に返すと言う実にばかばかしい取り決めを作ったのだった。
困窮しているセシリアの実家がこの美味しい話を見逃すはずが無かった。
彼女の両親はもう亡くなっており姉が婿を取って家督を継いでいた。
彼女が死んだという証拠を捏造するべくセシリアの姉婿ネスターはコウヤに証言させようと部屋に閉じ込め、脅したのだった。
ネスターが少しやり過ぎたかと医師を呼ぶ頃には彼は怯え、憔悴し寝たきりになっていた。
これは普通の病気ではないと判断した医師の通報で将軍付きの兵隊達にコウヤは救い出されたのだった。
しかし、コウヤはその時のショックから大きな心の傷を負う事になる。彼は徹底して人を遠ざけたのだ。
友達など必要ない。コウヤの傍に居るのは護衛のリオンだけだった。コウヤは大人を信用するのを止めた。
そして自分をあの鬼畜貴族に預けたのが尊敬する父親だったと知った時、コウヤは彼をもすっぱりと切り捨てた。
屋敷の奥深くに部屋を構え、必要最低限の人にしか会わなくなり長い間引きこもった。
リオンという年上で秀麗な青年をただ一人コウヤは側に置いていた。
出自は孤児だとか遠縁の息子だとか聞いていたがコウヤにとってそんな事はどうでも良かった。
身元がはっきりしていれば信用できる人間なのか。答えは否だった。貴族だろうが平民だろうが何の関係も無い。
齢6歳にしてコウヤはまずはその事実に辿りついた。人を疑う事を知らなかった明るい性格の少年は変わった。変わらざるを得なかったのだ。醜い大人の間で自我を保つ為にはその柔らかく優しい心は奥底に仕舞われた。
ようやく自宅に戻れ、しかし腫れ物に触るように接する屋敷の人間の中で変わらなかったのは彼だけだった。
あの大人しいリオンがぼろぼろと泣きながらコウヤの体を抱きしめ、無事で良かったと号泣した日。
自分にはリオンだけでいいと思った。家族も親戚も召使も、皆いらない。
リオンさえ居れば生きていける、そうコウヤは悟った。その他の人間は皆、クズばかりだと。
リオンはコウヤに絶対の忠誠心で仕え、離れることもなかった。
屋敷の執事役に泣き付かれ父親である中央将軍ミカミ・トウマは初めて我が息子の状態に気付かされたのだ。
「どういう事だこれは。」トウマは怒りを持って篭城する息子とその従者を呼びつけた。
少なくとも愛する妻が居た頃は自分に逆らうような息子ではなかったはずだ。
妻は行方不明のまま、コウヤの誘拐事件も全く犯人の行方は掴めない。その上これはどういう惨状なんだ。
久しぶりに目の前にした大切な息子はまるで二重人格か別の人間に入れ関わってしまった様だった。
「どうもしねぇ。」この反抗的な態度は一体どうした事か。
「父親に向かってその態度か。」思わず腕を振り上げた男をコウヤは睨み付け笑った。
「アンタもあいつらと同じだ。殴っても脅かしても僕は何も覚えてない。」
トウマはぎくりと固まった。そして彼はようやく気付くのだ。
傷ついた息子を更に甚振った鬼畜貴族が息子の心を酷く歪ませてしまった事を。
腕を下ろしたトウマは彼の肩を優しく抱いた・・つもりだった。自分の後継者である息子は体を捩りその手を撥ねつけた。
そして吐き気を抑えるように口元を押さえこう言った。「大人に触られたくない。」
大声で部屋の外に控えるリオンを呼び、泣き出した。「気持ちが悪い」と。
コウヤが落ち着いた頃、リオンと中央将軍は暫く話をしていた。結局トウマは何もできずにリオンの意見を聞くしかなかったのだ。
「そっとしておいて欲しい。」リオンは小さな主の意思をそう伝えた。