第一話
「…………むにゃ」
午後六時。
普通の家庭では夕飯前の時間に、変な声で目を覚ました少女がいる。
銀色のショートヘアをした、小柄な体型の彼女。
その名は星宮英茉。高校を中退し、自室に引きこもって生活している十七歳の少女――所謂、ヒキニートだ。
「やばっ、もう夜じゃん……!」
英茉は『白色のクッション』から頭を離し、体を起こしてノートパソコンの前に座る。
「推しが配信する時間!」
彼女が見始めたのは、バーチャル男性配信者の生配信。
現代では、イラストのアバターを用いる配信スタイルが主流になっている。普通のアニメとは異なり、二次元と直接コミュニケーションが取れるような体験を味わえることから、中高生に人気が高い。
年頃の英茉も、その魅力に取り憑かれていた。
彼女はポテトチップスでも食べながら見ようと、辺りを手探る。
「……あれ?」
袋の感触を確かめられず、英茉は周囲を見渡す。
不運にも、部屋の中にポテトチップスが残ってなかった。
「んげ、昨日食べたやつで最後だったのか……」
英茉は困ったように頭を掻く。
――モゾ、モゾ――
すると、『白いクッション』が自らの意思で動き出し、彼女の太ももに『足』を乗せる。
「?」
その感触に反応した英茉が、右下を見る。
それは、『白いクッション』ではなかった。
白い体毛に覆われた――巨大なクモ。
ハエトリグモのような見た目で、大型犬ほどの体長をほこる、現実離れした生き物だ。
もはや化け物といっても過言ではないクモを前にした英茉は――
「おぉ、ヴァニラ! ちょうどいいタイミングで起きてくれた!」
驚かなかった。それどころか、ペットを愛でるようにクモの体を撫でる。
ヴァニラ――そう呼ばれたクモは嬉しそうに体を揺らす。
「近くのコンビニでポテト買ってきて。あとそれから……プリペも! 推しにスパチャしないとね!」
英茉はなんと、クモであるヴァニラにお遣いを頼んだ。
ポテトはともかく、推しに貢ぐためのプリペイドカードまで。
だがヴァニラは嫌がることなく頷くように頭を縦に振る。ヴァニラは慣れたように部屋の窓を開け、身を投げる。
二階の窓から跳んだヴァニラだが、胴体をぶつけることなく八本の足で着地。そのままコンビニがある方へ歩んでいく。
改めて、このクモの名はヴァニラ――オスである。
彼は身を隠すことなく街を平然と歩いている。すれ違う人々は巨大なクモである彼に驚く素振りを見せないが、「あれ、《アイソー》だよな?」「クモの《アイソー》もいるのかよ……気色悪い……」と、彼を軽蔑するような呟きをしていた。
ヴァニラのような、現実離れした肉体を持つ生物は、世間では当たり前の存在として認識されていた。
しかし当たり前と言っても、人間からすれば気味の悪い生物であることに変わりはない。普通の虫と同じように駆除したいという気持ちがあるのだが、人間でいう『人権』が彼らにも与えられているため、下手な理由で殺せば、犯罪となってしまうのだ。
このような生き物を、人々は《アイソー》と呼んでいる。
《アイソー》は五十年前、突如として世界に出没した。彼らは人並みの知性を持っており、それぞれが生きるために人間と戦っていた。
《アイソー》が現実離れしているのは見た目だけでなく、個々の能力も常識外れであった。科学では証明できない、超能力にあたる技で人間を翻弄していた。しかし人間が編み出した科学は異形の生物をも凌駕し、人間側が優勢となった。
そのまま人間と《アイソー》の戦争を続けていれば、《アイソー》は絶滅したであろう。現に他国では絶滅している地域もあれば、野生の動物のように身を潜めて生活せざるを得ない場所もある。だが日本では、《アイソー》が滅ぶどころか、人間と共存している。
その理由は――内閣総理大臣の娘が、《アイソー》を気に入っているから。
…………以上である。
たったそれだけの理由だが、《アイソー》は日本で生存することを許されたのだ。
当然、それに反対する者も少なくないが、次第に《アイソー》を受け入れている者も増えているのが、現状である。
「――ありがとうございました~!」
普通の人間と同じように買い物を済ませたヴァニラ。
彼は触角を器用に使って買い物袋の口を閉じ、上に投げる。宙に舞った袋は腹に目掛けて落下するが、腹に当たると同時に何処かに消えてしまう。
ヴァニラの腹は不思議なことに、四次元空間に通じており、買い物袋は別空間に移されたのだ。自由に出し入れできるので、家に帰ったら即座に英茉へ渡せる。とても便利な超能力だ。
「――レイ、大丈夫!?」
帰路を歩き始めたヴァニラだが、間もなくして建物の陰から、少女の声が聞こえてくる。気になったヴァニラは少女がいる物陰を覗く。
そこには、長い黒髪をした少女と、異形の生物が。
龍の頭をしているが、胴体から十本の触手を生やしている、この世のものとは思えない生き物――こちらもまた、《アイソー》である。
『ごめん……油断した……』
その《アイソー》から、人間の言葉が発された。目を閉じて聞けば、イケメン俳優を浮かべられるほどの、爽やかな男性ボイスだ。
「すぐに治療しないと! 家まで距離はあるけど、頑張って!」
『う、うん……』
少女は自身の倍はある体長をほこる、触手の《アイソー》の体を支えながら、この場を去ろうとする。
《アイソー》の胴体には大きな切り傷があり、そこから紫色の血を流している。最悪、家に着く前に失血死する可能性があった。
ヴァニラにとって、少女と触手の《アイソー》は赤の他人。
しかし――
「!?」
放っておけなかったヴァニラは、二人(厳密には一人と一体)の前に姿を見せる。
「敵なの!?」
少女は懐からナイフを取り出し、触手の《アイソー》を守ろうと構える。
『……待て、文香』
そんな彼女に対し、触手の《アイソー》は制止の声をあげた。
ヴァニラは人間の言葉を話せないが、《アイソー》同士で意思疎通を取ることができる。
『彼は……傷の応急処置を、してくれるみたい……』
その言葉と同時に、ヴァニラが尻から糸を出し、触手の《アイソー》の傷口を塞ぐように、正確に巻き付ける。
「! これならひとまず、家まで大丈夫ね! ありがとう!」
少女がお礼を告げると、ヴァニラは触角で敬礼をし、そのまま帰路に戻った。
約十分後、家に着いたヴァニラ。
家の外壁を登り、英茉がいる部屋の窓を足でノックする。それに気づいた英茉は窓を開けた。
「おかえり!」
英茉はヴァニラを抱き抱え、部屋の中に入れて窓を閉める。
「ちゃんと買えた?」
英茉に訊ねられると、ヴァニラは別次元に入れておいた買い物袋を、腹から出す。
彼女は床に放り出された袋を拾い中身を確認する。
「ポテトにプリペ一万円分……ちゃんとある! 流石だ~! ありがとう、ヴァニラ!」
英茉は嬉しそうに笑顔を浮かべ、ヴァニラを撫でると、すぐにノートパソコンの前に戻る。
ヴァニラが買ってきたプリペイドカードで配信サイトのポイントをチャージ。そのまま配信中のバーチャル男性――『タカユキ』にスパチャを送る。それも一万円、一気に。
すると、それにタカユキが反応する。
『エマさんスパチャありがとう! いつもおじさん構文なの気になるけど――というか、本当におじさんだったりするのかな!? 俺の配信、女性リスナーが九割だし、それはないか! あははっ!』
「タカユキさん、いい声だな~。中の人もイケメンに違いない!」
英茉がタカユキに夢中になっている中、ヴァニラは彼女の邪魔にならないよう、部屋の隅で身を縮込ませる。
〔――ボクの想いは、きっと叶うことはない〕
人並みの知性を持つヴァニラは、眠るように瞼を閉じ、思いふける。
〔ボクと英茉の関係は、ペットとその飼い主――その域を超えることはないだろう…………現に、英茉は男に夢中だ。バーチャルとはいえ、人間の――〕
「――よいしょ!」
〔!?〕
すると、英茉がヴァニラの体を抱き抱え、そのままパソコンの前に戻った。
ヴァニラは驚いて目を開ける。
「ヴァニラも食べる?」
英茉がポテトチップスを差し出す。
ヴァニラは頷き、それを口に運んだ。ヴァニラはクモの姿をしてはいるものの、食事に関しては人間と同じものを食べていた。
「……あーあ、私もイケメンな彼氏が欲しかったな~」
〔…………〕
「――でも、引きこもりの私が、そんな贅沢できないもんね」
英茉はヴァニラの体に頬を当てる。
「父さんと母さんも、こんな私を見捨てるように何処かに行ったし…………父さんたちが残していったお金も無くなれば、私の人生終わっちゃうね」
英茉の両親は、彼女が引きこもりになって半年後に、家に帰らなくなってしまった。
家のリビングに現金百万円がそのまま置かれていたため、英茉は自身が見捨てられたものだと考えている。
「――ヴァニラは、私が荒れてた時期も、ずっとそばにいてくれたよね。君が人間だったら、惚れてたよ」
〔――!?〕
ヴァニラにとって嬉しくも哀しい言葉。
自身が《アイソー》であるが故の、大きな壁だ。
「いつもありがとう。もしお金が尽きるようなら……私を売ってでも、ヴァニラを守るからね」
〔――それだけはダメだ〕
ヴァニラは人間の言葉を発することはできない。
彼は触角を使い、英茉の頭を優しく撫でる。
「……優しいね。ありがとう」
〔英茉がそれを選ぶくらいなら、ボクが何をしてでも稼ぐ。そう、何をしてでも――〕
――ピンポーン!
すると、家のチャイムが鳴る。
「? テレビ局の集金かな? 無視無視」
そう言って、英茉はパソコン画面の方に向き直る。
しかし、チャイムは連続で鳴らされ、五回ほど押されたところで、
「……ヴァニラ、出てくれる?」
英茉に言われ、ヴァニラは頷いた後部屋を出る。
廊下を伝って階段を降り、玄関に。その間も鳴り続けるチャイム。
ヴァニラはレバー式のドアノブに足をかけ、玄関の扉を開けた。
「――はぁ、《アイソー》が出るなんて、この家はどうなってるのかしら」
扉の先には、中年の女性が立っていた。
ヴァニラの姿を見た彼女は、溜め息を吐く。
「家に住んでる人間を連れてきてもらえる?」
女性の言葉に対し、ヴァニラは頭を横に振る。
「居留守なのはわかってるわよ。ちょっと前に、二階の窓からあなたを入れる人影が見えたもの。あなたの主人に酷いことはしないから、呼んできてちょうだい」
〔……それを見ていたってことは、家を張っていた可能性が高い。嫌な予感はするけど、言葉を話せないボクじゃ、これ以上は何もできない…………〕
ヴァニラはやむを得ず、英茉を部屋から連れ出す。
「……えっと、どちら様ですか?」
玄関で女性と顔を合わせた英茉。
英茉は女性のことを知らなかった。
「私は、大里幸子。ここの大家よ」
「大家……大家!? えっ、ここ持ち家じゃないの!?」
幸子と名乗った女性の正体を聞いた英茉は、顔色を青くする。
この後の展開を読めてしまったからだ。
「単刀直入に言うわ…………この家を出て行ってちょうだい」