外伝5 後編 紗絵の決断
動き出した「クマ」の右手がポケットに入れられたと思ったら、剥き出しのナイフを持っていた。刃渡りが15センチはありそうだ。
刺激したら不味い。
「そのナイフは持ってない方が良いと思うよ? ほら、今なら、見てなかったことにしてあげられるから」
抑えた声。努めて、いつもと同じトーンだ。
野生動物に対するときと同じ。急な動きで刺激してはいけない。
腰をそっと浮かせて、いつでも逃げられるようにする。しかし、出入り口はクマの後ろになる。教室の後ろ側の出入り口は机の間を通る間に、追いつかれてしまうだろう。
「堀内君? よく考えて。今なら、普通の生徒としてやり直せるよ?」
だが、クマの目は完全にイッちゃっていた。紗絵にとって、ありがたくない現実だ。
ゆらりと一歩、踏み出してきた。
「処女だと思ったのに! 付き合った男がいるなんて。そんなビッチ、オレが犯してやる。オレがわからせてやるんだ!」
呟くような声は、半ば独り言なのだろう。目の前の紗絵を見ているくせに、視点が合ってない。
『はぁ〜 しょせん、男か』
その瞬間、紗絵の目に冷たい光が差し込んだ。ともかく「こっち」の世界に引き戻さないと。それに、こんな身勝手な話を許す気になれなかった。
「あら? その言い分はヘンよ」
紗絵らしからぬキツイ口調で否定されたことに、クマは驚きの顔となった。
「だって、誰かと付き合った女性は、みんなビッチなんだ? だれかとエッチしたらダメ? そんなことはないわ。くだらない考えね。そんな程度にしか女性を見られないなんて。それ、人として間違ってるよ」
「なんだと!」
挑発に乗った。これなら、引き戻せるかも。
「それに、誰かとエッチをしたことがあるからって、その女性をあなたが犯す権利なんてないわ? 女性も相手を選ぶの。私は、あなたなんかとしたくないし、考えただけでも身の毛がよだつ…… 気持ち悪いわね。もうちょっと、自分を見つめなさい。自分が女性にどう思われるかくらい、考えても良いはずよ?」
冷たい言葉を一気に言い切られてたじろいだのだろう。クマの視線が泳いだ。
「なんで、そんなひどいことを言うんだよ、お前教師だろ!」
「そうよ。教師よ。でも、犯すと言ってる男に優しくしてやる義務なんてないの。どうする? 生徒に戻る? それとも犯罪者になりたい?」
それは、あからさまな挑発だ。「優しい紗絵先生」から信じられないほどに辛辣な言葉を聞かされて、クマは一瞬「堀内」を取り戻したのだ。
「せん、せ、い…… お、オレは」
「そうよ。堀内君? 今なら生徒として扱ってあげる。ナイフをそこに置くの。ね? 今なら、まだ間に合うから」
「ナイフを……」
手元のナイフにジッと目を落としてから、ゆっくりと上がってきた視線は、元の「クマ」だった。
ダメか、と絶望的な気持ちとなった紗絵は、ゆっくりとカバンを持ち上げる。
クマの視線は、そのカバンに向けられてゆっくりと動いた。
そのタイミングを見た紗絵が、突然「クマ」の後ろに目を向けると、パッと顔を輝かせた。
「あ、大島先生!」
「!!!」
パッと振り返って、そこに誰もいないのを確かめた。
クマは唖然とする。
そのスキを見て紗絵は机の間を脱兎のごとく走って行く。
「騙したな! 教師のくせに!」
ガガガンと机をひっくり返しながら追いかけるクマ。
出口のところで追いつかれた。
振り返った紗絵が逆に、身体をぶつけてきた。
「ぎゃああああ!」
断末魔の叫び。
バチバチバチ
小さな火花と弾ける音。焦げ臭い臭い。
女性教師が手に持っていたのはスタンガンだった。高電圧放出の小型強力タイプ。代わりに1回限りの使い捨てだ。
倒れたかどうかを確認する前に、紗絵はそのまま職員室まで駆け下りる。2階、1階、走る、走る、走る。
「先生方! 今、襲われました。犯人は3の2にいます!」
職員室に駆け込むなり、そう叫んだ紗絵に反応して、一斉に男性教師達が走り出す。その後ろを女性陣。
副校長と、そこにいた体育の教師は、立てかけてあるサスマタまで持ち出した。
そして、駆け上がった教師達は、教室に倒れている「男」を発見し、それが「生徒であることを確認したのである。
困惑が広がる。
「小仏先生。これは?」
少し遅れて入ってきた紗絵に、いつの間に来たのか、校長が咎める口調だ。
「犯人です」
素早く走り寄っていた養護の関内先生が「息はしています。意識も、少しあるみたいですね」と、誰に言うでもなく声を上げた。
ハア、ハア、ハアと、まだ荒い息をして到着したばかりの校長は青い顔だ。
養護の関内先生が「救急車を?」と言うのを手で止めた校長。
「小仏先生、これは、一体何を?」
「襲ってきたので、これを使いました。高電圧タイプなので、しばらく気を失っているかも」
そばに落ちているスタンガンを拾いあげて校長に差し出した。ギョッとした目で校長が紗絵を見た。
「小仏先生、いったい、なんと言うことをしてくれたんですか!」
「何がですか?」
紗絵の方はすでに平常モードの表情だ。
「相手は生徒ですよ! その生徒に、こんなひどいことをするなんて!」
「身を守っただけです」
「身を守るにしてもやり方があるはずです。それにやりすぎです。倒れてるじゃないですか!」
「私は黙って犯されろと? それに、ほら、ナイフを持っていましたよね? 刺されたかもしれません」
「それは脅しのためでしょ。本気で刺すつもりなんかじゃない」
「えっと、校長先生は、超能力者なんですか? 堀内君が何を考えていたかわかると?」
「そんなことは言ってません!」
「でも、今、脅しのためだって仰ってましたよ? 本当で刺すつもりじゃないとも。堀内君の頭の中身がわからないのに、なぜ、そんなことが言えるのです?」
「それは推測しただけです」
「校長先生が、そう推測された理由は?」
「この子が生徒だからです!」
「ナイフを持って、女性を犯そうとする凶悪な男ですよ? 生徒だから、というのは理由にならないと思います」
「先生、言葉はもっと慎重に」
「え? 私一応国語の教師のつもりですけど。相手がナイフまで持ってて、レイプの意図を顕にした場合、犯そうとしたという言葉は間違っていないと考えます」
「そういう問題ではなく!」
「どういう問題ですか? きちんと仰ってください」
「それは、その、えっと、とにかくですね、先生はやり過ぎたんです」
50代半ばの校長は、イライラを隠そうともしない。
「校長先生は、私に自己防衛の権利はないとおっしゃったと受け止めますが、よろしいですね」
「そんなことは言ってないでしょ」
「でも、ナイフを持った身長170センチの男が犯そうとしてきて、そこに女の私の力で、どうしろと?」
「大声を上げるなりすればいいじゃないですか」
「声を上げた刺激で、ナイフを振り回すかも知れませんよね? 私が刺されたらどうしますか? それに放課後の校内で声を上げて、どれだけの人がすぐに気付いてくれます? 現に、気絶する前に、この男はけっこう叫んでましたけど、誰も来ませんでしたよ?」
「それは結果論です」
「結果論ですか。それなら私が犯されても良いと?」
「そんなことは言ってません。ただ、他にやり方があったはずです」
「では、具体的に取り得る最適な手段を、今すぐ、お答えください」
「今すぐなんて無理です。考えないと」
「私も、とっさに判断しました。私の判断を責めるのであれば、それ以上の正解を今すぐお出しください。それともご自分でできない事を、私にお求めですか?」
「あー言えば、こう言うし。もうちょっと、反省はないんですか!」
「何を反省すべきか、具体的に仰っていただけますか?」
「生徒にやりすぎたと言うことです」
「でも、校長先生は具体的な正解となる対応を、今、仰れませんでしたね? 自分は言えないのに、私にばかり最高の行動を取れって不公平では?」
そこに養護教諭がイラだつように口を挟んだ。
「校長先生。救急車は?」
「ちょっと待ってください。今すぐ命に別状がないなら、誰かの車で「大丈夫ですよ」」
紗絵が校長の言葉を断ち切った。最高権力者である自分の言葉を遮る部下に校長は鼻白んだ。
「もう、警察を呼んでますので。救急車も手配してくれるそうです。ほら、サイレンが近づいてきましたよ」
聞こえてくるサイレンの音は、一台や二台ではない。平和なF市にはありえないほどの大騒動だと、はっきりしてきた。
「先生! 独断で警察を呼ぶなんてあり得ませんよ! これでは、事件になってしまう。こんな失態は処分モノです。教委に報告しますからね!」
「校長先生は、刃物を持った男に犯されそうになった私が警察を呼んだのを不適切だと言ったように聞こえますが」
「警察はダメに決まってるでしょ! ダメです。ダメに決まってます! 相手は生徒なんですよ! これでは事件になってしまうじゃないですか」
「れっきとした事件すが?」
「相手は生徒なんですよ? 将来のこともあります。我々教師は子ども達の未来を考えて行動しなくてはならないのです!」
「ナイフを持って、女性を犯そうとした男、ですよ? あ、ところで校長」
ずっと持っていたカバンから、小さな黒い物体を取り出した。
「なんですか!」
「あの男が口走った分も含めて、この会話は全て録音してあります。警察にも、そして後ほど、教育委員会へも提出させていただきます。事件を揉み消そうとなさったとも取れる校長先生の御主張がどこまで通るか、楽しみにさせていただきます」
「ちょ、ちょっと、勝手な! わ、私は、何も言ってませんからね! 何にも言ってませんから!」
紗絵は、集まっている他の先生を振り返った。
「さ、警察も到着したみたいですね。先生方は、他の生徒を落ち着かせて誘導をお願いします。校長先生は、マスコミになんて説明するか、お考えになった方がよろしいのでは?」
「マスコミ?」
「学校でナイフを持った男に襲われたと通報しましたので、当然、マスコミも来ると思います」
校長は、あわあわと、口を開いては閉じる繰り返し。
「くっ、これでは、この子の将来が……」
「この男の将来のことより、ナイフを持ったレイプ犯の事件をもみ消そうとなさった校長先生の今後をご心配なさった方がよろしいのでは?」
「私は揉み消そうだなんでしてませんよ!」
しかし、紗絵はもう校長を振り返らなかった。
重装備に身を固めた警官隊が一斉に流れ込んでくるまでに、それから、3分もなかった。
ちなみに、教師は個人のスマホを教室に持って行けないので
職員室に一度戻る必要がありました。
ボイスレコーダーを持っていたのも、
仕事中はスマホを持ち歩けず、録音機能が使えないためです。