兄貴の財布
「へえ、ああ、今日も払えない……。そうですか。分かりました……。ではまた今度お願いします。」
受話器を元へ置き、今日は終業となって、特にまとめる荷物もなく、そのまま席を立った。
「立田、ちょっと帰る前に送ってってくれるか。車運転できたよな。」
「はい、できます。」
「サクラダんとこの雀荘。場所分かるよな。」
「はい。」
事務所を後にし、高温高湿度、夏の車内はボクらの会話など上の空に、強冷房のごうごうという風ばかりうるさくて、そのくせ涼しくなるのには中々時間がかかるのだった。
「なあ、あの駅に、浜の岬って旅館あるだろ。」
「はい。」
「あそこの女将さん、知ってる?」
「はい。」
「女将さんがさ、メリファイン密売やってて、地下の状況なんてすごかったらしいんだ。」
「はい。」
「で、もうじき旅館も閉まるってさ。」
「はあ。大変ですね。」
「……お前、いつもそんな感じなのか。」
「はい。」
「そうか……。雀荘、もうそこ右だな。」
「みたいですね。」
「オレ一人でいいから。ちょっと待っててくれ。」
そう言って車から降りると、雑居ビルの階段を上って行った。道路へ面した看板はかろうじて灯っている。兄貴分、つまりは上司・先輩を送って、その仕事が終わるのを待つのはこれで何度目かになるが、これがまあ退屈な時間なのである。リクライニングを倒した。
「てめふざけてんのかごらあ!」
兄貴の怒声が外にまで漏れてきた。それに続いて情けない声も聞こえたが、その言っている内容までは判別できない。ドタバタ激しい音も少しして、しばらく経って、階段から兄貴が降りてきた。
「おいちょっと手伝え。」
「はい。」
階段へ駆け寄り、二人でサクラダの肩を支えて、無造作に後部座席へ投げ入れた。
「おい、出る前に燃やしとけ。」
そう言うと兄貴は自分の財布からライターをボクに差し出して、近く置いてあった自販機へ目線をやった。ボクは「はい」と返事をし、受け取ったライターを自販機の取り出し口の中へ黙々と仕込んだ。自販機と密着しての作業は、その内から発される熱のせいで、どうしても夏には向かないものだった。
「火が出たのを確認したら、すぐに逃げろ。逃げたら海に行って、そいつ沈めとけ。」
「はい。」
「大丈夫、ソイツもう動かないよ。オレは帰るから。お疲れ。」
「はい。お疲れ様です。」
兄貴の背を見送り、角を左に曲がったのが見えたところで運転席へと戻る。大した間も空かずに取り出し口から火が噴き出すと、炎が窓ガラスにかすった緊張と冷や汗のままボクは車を走らせた。
サクラダ雀荘から一番近いのは錠ヶ湾だった。到着したときにはもう暗く、辺りに誰もいないのを確認してから後部座席のドアを開けた。サクラダを外へ出して、一緒に積んであったロープも取り出す。うつ伏せのまま両手を縛ろうとしたとき、くたばっていたはずのサクラダが突然目を覚ました。
「見えない……海? おい! 近くに誰かいるのか⁉ もうやめてくれ!」
そうは言われるが、やめる訳にはいかない。「なんだ? やめてくれ、やめてくれ。」続いて両脚も縛り、足を持ったまま海の方へと引きずって行く。「熱い、やめてくれ。」そしてサクラダを落とそうと体勢を変えたとき、急にサクラダは、しなるように暴れ出した。頭や腰がコンクリートに打ち付けられるのもお構いなしにのたうち、ボクが力を加えるまでもなく跳ねながら海へ落っこちてしまった。
気がついたときには額から首まで汗をかいていた。早く涼しいところへ、そう乗ってきた車の方へ振り返ると、ひとりでにヘッドライトが点灯し、まっすぐボクの背後の海を睨んでいた。
海の底はよく晴れた原っぱであり、そして静まり返るほどの大きな海があった。
ボクはそのすこやかな野原に寝転び、妙に重たいまぶたの隙間から、海底に新しく広がるもう一つの海をただ眺めた。頬に当たるタンポポは、潮風を浴びるがそよぐだけ、海は一面の野草と向かい合うが、それを皆殺しに浜へ変えてしまうなんてことがない。不自然な均衡の上、ボクはとてもいい気分だった。
着ているシャツの、寝て生じた違和感をつまんで引っ張る。地面へ預けた背中が温まって、そこへ抜ける風の涼しさ。夜でもないのに月は浮かぶし、日なんてないのに昼みたいに明るい。幸せというのは、何故かふととしかやって来ないものなのだなあ。だなあ、だなあ、だなあ、言っちゃった照れを隠す試み。
反対の方角、海から風に従って寝返りを打つと、ここは随分高い場所なのだと分かった。真下から黒い煙が上がってきて、その元はある一つの街であり、紛れもないボクの住む街が、そこかしこから火を上げていたのだった。
兄貴の財布からライターを借りて、それを雀荘前の自販機に仕込んだ。あれ以降火の手がどんどん広まり、今でもずっと鎮火されていないらしい。
マズイことをした、では済まされないのを分かっているから、ボクは街に背を向け、また海へ居直ってしまった。ボクは気晴らしに、ポケットに入れていた小説を開いてみた。
第六章「プラトニックしない」ってナンパか
まこと調子よく応じて、とたん、Q子は抱きついてきた。乳がんで右を除っている。「うれしい。」今日は海の日なのだそうだ。山の向こうの海に憧れるのは空想なのだろう。野菜スープ、レバーにカビ。夕刻、妻、関西へ。嫌酒薬飲み安らかに眠る。
これは一体なんなんだろう。五章まではちゃんと話があって、しかも結構よかったはずだ。たしか主人公がQ子と……さて、どうしたのだったか。今が楽しけりゃ精神もここまで来ると、ストーリーが楽しめなくなることの好例。我ながらどうしようもない。偏屈、野菜スープ。小説は海に投げ捨てた。安らかに眠れ。
読書で少し目を離していたその隙に、海には白い帆が無数に揺れていた。どの船も網を張って漁をしているらしい。海が空なら、この帆船は渡り鳥の群れみたいである。そのうちの一匹が、だんだん大きくなっていると見えると、ついにこちらへ着岸に至った。
「落としましたよ。」
帆船に乗っている男は日に焼けていた。その差し出してきた浅黒い手には、ずぶ濡れの小説があった。
「ああ、すみません。どうも。」
「ボクら海で仕事してますから、あまり汚されると困るんです、とはハッキリ物言えないから、今回は落とし物を届ける体でやって来ましたけど、あなたはあなたで、この本は捨てたものなんだとは、まあ正直には言えませんよね。」
「はあ。ええ、はあ。え?」
「If I was honesty, you will be honesty too?」
「Yes I am.」
「ばかじゃねえの。」
「No I am just a man. Your welcome.」
「あのなあ、日本語なまりなら英語やめちゃえよ。じゃあな。」
男は帆船のおしりに取り付けてあるエンジンモーターを点けた。
「ああそうだ。これやるよ。」
そう言って、船に乗っていたカニをボクめがけて投げつけると、こっちが文句を言う間もなくエンジンを震わせて帰っていった。海上には白い帆が無数に揺れている。もうボクの心には、渡り鳥を思い描く余地などなくなっていた。
一人残されたボクはカニと格闘して勝って、そいつを食っていた。実が詰まっているのはいいけれど、さてこの小説はどうしたものだろう。考えながら食っていると、海沿いを散歩か、向こうから一頭のラクダが近づいてきた。ボクはカニの足を目の前にやって「食うか」とぶら下げると、「よし食うか」とラクダは了解し、うまく動きを捉えてバリバリ殻ごと食ってしまった。
「危ないな。指ごとなくなるところだったよ。」
対しラクダは食べるだけだから呑気である。
「指の一、二本くらいどうでもいいけどね、ちょっと電話を受けてくれないか。あなた宛てに来てるよ。」
「ボクに?」
「人の耳には聞こえないだろうけどコブの方が鳴ってるよ。」
確かに背中のコブには受話器が取り付けてあった。二つのコブに一つずつ固定電話が、どういう訳か片方に着信があった。
「コブって脂肪の塊だろう。脂肪の通信技術なんて新しいね。」
「脂肪も何も、電話線が詰まってるんだよ。早く出てくれよ。切れちゃうよ。」
「はいはい。」
急かされ受話器を耳に当ててみるなり、衝撃音やら悲鳴やらサイレンが飛び込んでくる。聞こえる音だけでその惨状が掻き立てられる、とっさに遠ざけたくもなるほどの有様の中、ボクの名前を言う声が聞こえてきた。
「いやね立田さん、今日もダメですよ。返せませんよ。」
「返せませんよって、もう何ヶ月……それより後ろの音は、何があったんですか。」
「ああ、酷い火事でしてね。見渡す限り炎ですよ。今この電話を掛けましたのもね、燃えてもなお返したいという気持ちだけはある、これを示したかったんですが。」
「気持ちですか……。よくそんな冷静でいられる……。」
「昔先輩に三百万と彼女持ってかれたときも冷静でした。」
「はあ、それはいいんですが。それより返済も何も火事でしょう? お金が燃えちゃったら返せませんよ。」
「ん? お金って働けば貰えるもんじゃ?」
「その大元の金まで燃えたらいけませんよ。街ごとだから、銀行も何もかも燃えますよ。」
「街全部が燃えてるんですか?」
「丸ごとですよ。あれは酷い。」
電話を離さずに街の様子を覗いてみる。相変わらず太い煙が上って、舞った火の粉がここまで届いていた。
「何か見てるんですか。」「いや、何でもありません。」
一通り会話が終わって、何を考えるでもなく黙ったら、相手も一緒になって黙ってしまった。向こうの騒ぎがより際立った。
「で、とりあえず今は返せそうもないんですけど、どうしたらいいでしょう。ああ、足が燃えだしました。」
「どうしましょうと言われましても、もう仕方ないですよ。何度も言いますがお金が……」
「お金ならっ」
電話が切れた。こうも唐突に静かにされると、どこか耐えらなくなるものだった。とりあえず受話器をコブに戻してみるも、ラクダからは特に反応がない。ラクダが悪びれもなくタンポポを齧るが、海には帆船も何も現れることはない。ボクはその波の音に、途方もなく置いて行かれたような気がした。
途中の小説は、野坂昭如の「妄想老人日記」からです