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iドール  作者: OPQ
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第三章

 黒いワゴン車が発進して数分。尋常ではない焦りと恐怖が胸の中で渦巻いていた。乗せられる時にナンバーは見た。土田さんに連絡がとれれば何とかなりそうだけど、スマホは隣に座る男に没収されてしまった。どうすりゃいい。何か手はないのか。

 なにより、こいつらは一体何者なのか……。まあ、推測は簡単だ。オオハタさんを襲った二人組に違いない。しかし、今更何故俺を?

 男が俺の鞄を開けた。中からはクルミの能天気な挨拶と、青葉さんの威圧的な質問が飛び出した。

「こんにちはー」

「さらった子たちはどこ? あんたたちの雇い主は?」

「おい、どっちだ?」

 男は青葉さんの質問を無視して、運転席の相方に尋ねた。どっちってなんだ。

「青い方です」

 答えを聞いた男は、すぐさま青葉さんを掴んで取り出した。あぁ、モデルデータを戻すの忘れてた。青葉さんは水色の髪とヒラヒラ衣装のままだ。だから混乱したのか……ん? こいつらの目的は青葉さんか!?

「あっ、こらっ、離しなさい! このっ……!」

 青葉さんは必至で身をよじったが、どうすることもできない。自分の十倍以上ある巨人に握られては、文字通り手も足も出せるはずがない。

「おいっ、やめろ!」

 思わず叫んでしまった。直後に後悔した。何言ってんだ俺は。こんな怖い人相手に。

 案の定、鋭い破裂音と体が痺れるような強烈な痛みが俺の顔を襲い、あっけなく吹き飛ばされ、俺は前座席に頭をぶつけた。

「あぅっ……!」

 痛い。いってえ。ただ一発のビンタがこんなに痛いなんて。引っ叩かれた頬も、ぶつけた頭も死ぬほど痛い。

「やめなさい!」

 再び青葉さんが吠えた。俺よりも絶対に怖いはずなのに。自分が情けない……。

「暴力はダメで」

 クルミが言い終わるより先に男は鞄の口を閉じ、俺に投げ返した。

「さ、この人形のマスター権限を渡してくれるかな? そうすれば、すぐ車から降ろしてあげよう」

 なるほど……。青葉さんはアイドルじゃないけど、ドール化した人間を警察側に持たれていると生きた証拠になってしまうため都合が悪いのだろう。しかしなぜ俺が青葉さんの持ち主だとわかった? 警察以外は知らないはず……。待った。運転してる奴はさっき青い方が青葉さんだと知ってたな。もしかして、オオハタさんとのライブバトルをコッソリ見ていたのか。

 うん、段々わかってきたぞ。オオハタから俺のことを事前に聞いていたに違いない。黄木里奈を取り戻しにきた高校生がいる、と。こいつらは恐らく、「人間がiドールになる」という珍妙な言説をあっさりと信じたその高校生は、実例を見た可能性が高い……即ち、取り逃がした最後の一人、青葉さんの所有者かその知人だと推測して、オオハタの病室で張っていたのだろう。クルミを取り戻しにくるはずだと考えて……。

「私は人間よ! 人を人形扱いするとはいい度胸ね!」

 俺が思考を巡らせている間に、青葉さんが吠えていた。すごい胆力だ。巨人に胴体を握られているっていうのに。

 しかし、男はさげすむ様に鼻で笑い、

「君が人間だったのは先週までの話だろ? 今はただの着せ替え人形じゃないか。なんだいその格好は? ん?」

「……!」

 青葉さんが真っ赤になってプルプルと震えた。羞恥と怒りが混ざり合った表情で男を睨みつけたが、その眼力は弱っている。俺は我慢できなくなった。

「わ、渡さないって……言ったら?」

 あっ、また……つい、思わず挑発的な言動を。何やってんだ俺は。でも強く握りしめられて苦しんでいる青葉さんを見ていると、どうにもムカついて仕方がなかった。

「さっき見てきたろう?」

 男二人がクックッと笑った。俺は痛々しい姿になったオオハタさんを思い出した。クソ……。

「あんたたち、いい加減にしなさいよ! すぐに逮捕……」

 青葉さんが苦悶の叫びをあげた。男が強く体を握りしめたのだ。

「やめろって言ってるだろ!」

 俺はさっきの痛みも忘れて、反射的に腕を伸ばした。男は空いている腕で俺の手首をあっさりと掴み取り、握りつぶされるんじゃないかと思うほど強く握りしめた。

「いってててて!」

「やめなさい!」

「おい小僧! この人形を黙らせろ!」

 停止させろってことか。御免だな。と思ったのも束の間、男が俺の手首を捻りかけた。折られると直感し、思わず全身が縮み上がった。

「……私のことは気にしないでいいから」

 青葉さんがこっちを見ながらそう言った。俺は自分の無力さに苛立った。ちくしょう……。

 結局、俺は鞄からタブレットを取り出し、青葉さんを停止させられた。たった一回のタップで、巨人とも啖呵を切りあっていた彼女は、ピクリとも動かない人形と化してしまった。広がった水色の長髪も、時間が止まったかのように動かない。フィギュアの髪のようにカチカチに固まり、車が揺れても髪の先端は0.1ミリたりとも揺れることはない。

 困ったように眉を顰め、口を閉じ、両目の瞳はただ一点を見つめたまま静止している。ついさっきまで生きて動いていただなんて、事情をしらない人には到底信じられないだろう。

(すみません……)

 俺は心の中で涙を流しながら謝った。青葉さんは停止させても意識がある。ただひたすらに、恐怖と無力感を増大させるだけだ……。

「ふん」

 男は抵抗できなくなった青葉さんを座席に落とし、改めて俺に向き直った。

「俺たちのアカウントが検出されているはずだ。友達になろうじゃないか。ん?」

 画面を見ると、あからさまな捨てアカ「たまのえだ」があった。フレンド登録して青葉さんのマスター権限をよこせと言っている。そんなことはできない。しかし断れば右手首を折られてしまう……。青葉さんは停止して座席に転がったままだ。どうすりゃいい……。

 ピロン、と音が鳴った。フレンド依頼が届いている。当然、目の前でニヤニヤしているこの男から……ん? 待った、二件あるぞ。タップして確かめると、「たまのえだ」より先に、「つっちー1103」からフレンド依頼が来ている。土田さんか。気づかなかった。

 逆転の一手があるとすれば……フレンドになって土田さんにメッセージを送ることだ。やれるか? 目の前のコイツに気づかれずに。

 突然、男は俺のタブレットを掴み、グイっと水平になるまで引き下げた。画面を見せながら操作を進めろってことか……。クソっ。

 フレンド依頼の一覧を呼び出す。こいつらと土田さんのフレンド依頼が上下に並んでいる。俺はそっと指先を「たまのえだ」に、指の腹を「つっちー1103」の上に運んだ。ここで土田さんの方をタップすれば……いやバレるな。至近距離だ……。

「初めてのフレンドですね! おめでとうございますマスター!」

 男の注意が逸れた一瞬に、指の腹で画面を押した。やってしまった。後戻りはできないぞ。男はすぐに視線を戻したが、「登録完了しました!」のメッセージが画面中央を占領して、誰とフレンドになったかはこの画面からは読み取れない。しかし次のタップでフレンド一覧になる。「たまのえだ」がいないことがバレてしまう。ヤバい。心臓が段々うるさくなってきた。

 だが男は気分を害されたことの方が重大だったらしく、忌々しそうに舌打ちし、俺に命令した。

「おい、そいつも停止しろ」

「……はい」

「えー!?」

「我慢しろクルミ!」

 クルミのアホっぷりがここで役立つとは。俺はわざと大きめの声でクルミに言い聞かせた。

「ぶー」

「またすぐ解除してやるから!」

「早くしろ!」

 イライラした男が怒号を飛ばした。その視線は画面より上、俺の顔を捉えている。今! この瞬間!

 素早い連続タップでホーム画面に戻り、すぐにクルミの管理画面を呼び出した。……大丈夫か!? フレンド一覧バレなかったか!?

 俺は男の顔色を伺いながら、恐る恐るクルミを停止した。男は吐き捨てるように「ケッ」と言った後、

「よし。俺たちにお巡りさんのマスター権限を譲渡しろ」

 と指示した。……やった! やり過ごしたぞ! 一瞬だったし、何より、元々のフレンドがゼロだったのが功を奏したかもな。二十三人から二十四人だったら念入りにスクロールして確認したかもしれないが、ゼロが一になっていれば一目見て「登録した」のは確認できる。名前を見ずとも。

 しかし次が問題だ。フレンドを選択して譲渡する最中、フレンド名は表示され続けるぞ。どうする? もうクルミが気を逸らしてくれることもない。

 状況を整理しよう。右手は奴に掴まれていつでも折られかねない。左手でタブレット操作。タブレットは俺の膝とやつの右手でも支えられていて、座席と水平。つまりは丸見えだ。

 何もしないでいることは許されないので、とりあえず進めるしかなかった。青葉さんの設定画面を開き、マスター権限を選び、譲渡をタップ。次のタップで譲渡可能なアカウント一覧が表示される。要するにフレンド一覧だが……。男は画面を注視している。今度こそ、流石に名前が違うことに気づくはずだ。男の気を逸らすんだ。何でもいいから……。

 日光が何かに遮られ、辺りが暗くなった。俺はこれに賭けた。

「ここは……?」

 演技だったはずの質問は、言い終わるより先に本当の質問になった。車はいつの間にか、見慣れない大きな倉庫の中に入ろうとしていたのだ。男は俺の質問に答えず、手首を強く握ってきた。

「兄貴、着きました」

「よし」

 兄貴は運転席に……いや、その先の何かに顔を向けた。今だ。「つっちー1103」を選択!

『本当にメグミのマスター権限をつっちー1103に譲渡しますか?』だって? イエスイエス! 早くしろ!

 生体認証のステップに入った。よし! 譲渡先のアカ名は表示されていない! ここで兄貴が顔を戻した。

「そうだ。いいぞ。初めから素直にしておけば、誰も痛い思いはしなくてすんだのになァ」

 兄貴は停止して動かない青葉さんに、蔑むような眼差しを向けた。ふん。すぐに吠え面かかせてやるぜ。

 俺は画面の指示に従い、指紋と静脈認証を行った。続いて第二ステップ。顔の確認。あまりテキパキ進めても不審がられるだろうと、苦悩するフリをしながら、ゆっくりと進めていった。

 車は既にエンジンが止まり、運転席にいた弟分は外へ降りていた。兄貴は俺の作業を見届けるためか、降りようとはしない。画面は第二ステップが無事終了したことを示す確認メッセージが表示されている。タップ。最後の第三ステップの説明が表示された。声紋と意志の確認を行うらしい。それでようやく権限を譲渡できる。やれやれ、長い上に面倒くさい。もう心臓が一生分鼓動しきったような気がするぞ。

「まだすか?」

 弟分が車に寄りかかって煙草を吸いながら言った。向こうもずいぶんイラついているな。

「もう終わりだ。なァ?」

 兄貴分は俺に笑いかけた。圧がすごい。俺の額から滝のように汗を流れ落ちていく。全てが終わった時俺はどんな目に遭わされるのか……。だが青葉さんを見殺しにするよりはマシさ。

 説明画面をタップして、第三ステップを開始した。その瞬間、俺と兄貴の動きが停止した。まるでiドールのように。

『「メグミのマスター権限をつっちー1103に譲渡する」と声に出して宣言してください』

 ここからは電光石火の攻防だった。俺は人生最速となる早口で言葉を叫んだ。

「メグミのマ」

 兄貴分は俺の手首を勢いよく引っ張ると同時に、右手をタブレットから離し、まっすぐに俺の首へ伸ばした。

「スター権」

 体勢を崩した俺の首をゴツイ右手が掴むと同時に、俺は右足を全力で天井へ向かって蹴り上げた。

「限を」

 あいつが俺の首を締めあげるより一瞬早く、俺の右足が奴の二の腕を直撃した。一瞬の怯みが拘束を緩める。

「つっちー」

 左手指を俺の首と奴の右手の僅かな隙間にねじ込む。同時に、ずっと掴まれていた俺の右手は、ついにやつの左手を振り払えた。

「1103」

 すぐに奴の右手は俺の首を全力で締め上げようとしてきたが、間に入った俺の左手指のおかげで、ギリギリ息が続けられた。

「に譲」

 奴の左手が俺の髪を掴んだ。頭の皮ごと引きちぎられるのではないかと思うほどの激痛が俺を襲う。それでも俺は早口言葉をまくし立てた。

「渡す」

 右手で奴の左手首を掴み、何とか髪を引っ張る力を抑えようとした。焼け石に水ではあったが。

「るうぅー!」

 口から泡を出しつつも、俺は言い切った! この間、二秒程度。その攻防を俺は制した。俺の頭にはアドレナリンが溢れ、死ぬほど苦しい二も関わらず、興奮が収まらなかった。やったーっ! 言ってやったぞざまあみろ!

(ていうか俺死ぬんじゃ……)

 と思った瞬間、首締めが少し和らぎ、兄貴は俺の髪から左手を離した。床に落ちたタブレットを拾い上げ、ジッと見つめている。次第に左手が震え、顔に血管が浮き出て、眼光に殺意が宿り始めた。成功だな。青葉さんのマスター権限は、無事土田さんに移ったらしい。もう俺は無関係だ。俺をどんなに痛めつけたって、奴らは青葉さんを手に入れることができない。

(ひぃ……いてえ……)

 髪の付け根がジンジン痛む。将来禿そう。

「何すか兄貴。どしたんすか」

 弟分が窓の外から声をかけた。それで幾分か冷静さを取り戻した……かどうかは不明だが、兄貴は俺の首をようやく離した。ふぃ……息が吸えるぞ……。その後、奴は俺にタブレットの画面を突き付け言った。土田さんも即刻了承してくれたようで、完了のメッセージが浮かんでいる。

「誰だ」

 ドスの効いた冷たい声。聞くだけで縮みあがりそうになる。だがもう仕様がない。俺は「つっちー1103」の正体を告げた。

「お巡りさん」

 あ、やべ。死ぬわ俺。目の前の男は血管が数本切れてそうだった。

「その子は無関係よ! 今すぐ離しなさい!」

 青葉さん!? えっ、どこ……あぁ、いた。いつの間にか俺の鞄に抱き着いている。土田さんが停止を解除したんだな。突然青葉さんを渡されたことで、異常事態であることに気づいてくれればいいが……。

 男は青葉さんにも氷点下まで冷め切った視線を送り、俺に向かって静かに告げた。

「降りろ」

「はい」

 俺の鞄……持ってっていいのかな? 恐る恐るつかんで、ゆっくりと後退した。二人とも何も言わない。オーケーっぽい? まあ、スマホもタブレットも取られてるから、連絡手段ないもんな。


 車から降りると、弟分からどつかれた。ヤバそうな雰囲気だ。

「痛かったでしょ。御免ね。巻き込んじゃって……」

 青葉さんは鞄の外ポケットに滑り込みながら、心底申し訳なさそうに謝罪した。聞いているこっちが辛くなるような震え声だった。

「いえ、まあ、でも……」

「助けてくれてありがとう。それはお礼を言っとくわ。でも、二度とやらないで」

「はい」

 とは答えたものの、きっと同じような状況に遭遇したら、俺はきっとまたやるだろうな、と思った。目の前で女性が酷い目に遭わされているのに何もしないってのは、どうにも。まあ、同じ状況になんて二度と遭いたくねーけど。というか、俺に明日は来るのか。

 俺は周囲を見回した。車が止まっているのは、閑散としたやや広い倉庫の中央。俺と弟分はその側に立っている。そこから少し離れたところに、作業机がポツンと設置してあるのを見つけた。兄貴分の方がその机に近づいていく。机上には細々とした機械の部品が無造作に転がっている。

 隙を見て逃げるのは無理そうだ。弟分が俺の後ろにピッタリ張り付いているし、出口までやや遠い。その間視界を遮る物もない。周囲はやたら静かだし、恐らく近くに人もいないんだろう。

「報告しなさい」

 その声は倉庫内によく通った。女性の声だが、青葉さんじゃない。クルミは停止している。一体誰だ!?

「巻き込んだ警官は手に入れたの?」

「いえ、それが……」

 兄貴分は、誰もいない作業机に向かって話し始めた。しかも、妙に腰が低い。さっきまでの怒気はどこへやら。

「あっ、増田くん、あれ! 黄木さんじゃない!?」

「えっ!?」

 よく目を凝らしてみてみると、作業机の部品の影に、二人の小さな人影があった。そのうちの一人はブレザー……それも俺の高校の制服を着た、黒髪セミロングの女子だ。間違いない、黄木さんだ!

 思わず駆け寄ろうとしてしまい、弟分に肩を掴まれ軽く殴られた。蓄積した疲労とダメージも重なり、俺はあっけなく床に倒れた。

「だ、大丈夫!?」

 俺が冷たい床の感触を顔面と手のひらで味わっている間、青葉さんが弟分に抗議しているのが朧気に聞き取れた。今俺が崩れ落ちた時、青葉さんもジェットコースター以上の恐怖を味わったに違いないのに……。クソ。こんなところで倒れている場合かよ……。

 近くの柱に体重をかけながら、俺は何とか立ち上がった。黄木さんは定規程度の大きさで、台座上で気をつけの姿勢をとったまま動かない。iドールのまま停止させられているのか。

 もう片方の小さな人影が、台座ごとピョンピョン跳ねて、部品の影から姿を現した。艶のある白髪と、褐色の肌を持つ見知らぬiドールだった。露出の多い、ややパンク気味な黒い衣装を身にまとい、鋭い目つきで兄貴分を見上げている。

「はぁ……。何でちゃんと確認とらないわけ?」

「すみません……」

 それはとてもシュールな光景に見えた。大柄で屈強なヤクザ者が、小さなiドール相手に平身低頭なのは。だが当然、あの兄貴分は、本気で玩具のAI相手に頭を下げているわけではないだろう。あのiドールを介して指示を出している人間がいるのだ。無論、そいつはアイドル大量失踪事件の主犯格に違いない。

「すぐ警察が来ると考えるべきね。撤収よ」

「……はい」

 兄貴分も、人形相手に下手に出るのは内心不服なのだろう。苛立ちを隠しきれないでいる。しかしあのiドール、話し方といい、動作といい、恐ろしくレベルが高い。相当に調教されている。まるで人間だ。……ん、もしかして本当に人間か? 攫われたアイドルの一人だったりして……それはないか。俺は鞄のポケットから上半身だけ覗く青葉さんと見比べた。人間は「動いていない」時でも常に変化がある。呼吸だけでも肩や腹に変位があるし、黙って一点を見つめているだけでも、よく見れば表情筋には変化がある。あの褐色の子には無駄が足りない。人間ではなく純粋なiドールに違いなかった。

「でも、その前に警官は回収するわよ」

「どうするんで?」

「iステージを用意して」

「……は」

 兄貴分は数秒間、呆気にとられたような表情を見せた。その後、無言で奥へ消えていった。

「そこの君。こっちへ来なさい」

 褐色のiドールは、真っ直ぐこっちを見据えて言った。

「えっ、俺!?」

 俺は後ろを振り返った。弟分も眉間に皴を寄せ、今一つ納得しかねているようだったが、顎で俺に「行け」と指図した。

 何だ何だ。一体何が始まるんだ。

 おっかなびっくり作業机に近づくと、褐色のiドールが俺に会釈した。俺も軽くお辞儀して返した。その子の隣で、黄木さんが髪の毛一本たりとも揺れることなく、固定フィギュアのように固まっている。これが人に対する扱いだろうか。助けてやりたい。改めて強く思った。

「初めまして。私はリョーコ。よろしくね」

「あ、はい。俺は」

「ダメよ言っちゃ!」

 青葉さんが鞄から叫んで、言いかけた俺の本名をかき消した。仰る通りです。馬鹿か俺は。顔や頭を叩かれまくったせいかな。

 リョーコと名乗った褐色のiドールは、クスクスと笑って、俺に机上のタブレットを手に取るよう指示した。俺は周囲に気を配りながら、慎重にタブレットを拾い上げた。ホーム画面が表示されている。……って、これは俺のじゃないか。青葉さんは土田さんに譲ったので、登録されているのはクルミだけだ。俺は何か言われる前に、パパっとクルミの停止を解除した。

「あれ? どうなったんですう?」

 鞄の中から声がする。結構鞄を荒事に巻き込んでしまったので心配だったが、壊れてないか。良かった。

「君、この子が欲しい?」

 リョーコは隣の黄木さんを小突いた。彼女は一切ポーズを変えることなく、全身がカタカタと左右に揺れた。コイツ人形のくせに、人間に手を上げるなんて。

「黄木さんは物じゃないぞ。早く解放しろよ」

 しまった。腹が立ってつい、挑発的に。

「なら、私と勝負しない? 私は黄木里奈を。あなたたちはそのお巡りさんを賭けて」

「なんだって?」

 その時、兄貴分が奥から戻ってきた。やや痛んだiステージを抱きかかえている。倉庫の中央からやや外れたところへ置き、フーッと大きく息をついた。力持ちだな……。いやそれはどうでもいい。コイツ、俺にライブバトルを挑んだのか!?

「わーい! ライブバトルです!」

 クルミはもう……。お前は関係ないからな。

「あの、俺はもうこの人の所有者じゃないんで」

「知ってるわ。だからフレンドにメッセージを送りなさい。今ここで、私たちとライブバトルをするようにね」

 俺は地団駄を踏みたくなる気持ちを必死に抑えて、黄木さんに視線を向けた。今日さっき、青葉さんが出した点は六千五百点。そして以前、黄木さんが出した点数は確か……七千五百。ダメだ。これは勝てない。勝ち目がない……。黄木さんは何が何でも助けたい。それに青葉さんも、ここ数日ずっと黄木さんを助けるためだけに特訓してきた。でも結果は既に出ている。受けちゃダメだ……。一応ポケットの青葉さんにアイコンタクトを送ると、やはり苦渋の表情を浮かべていた。

「フェアじゃないじゃないですか。現役アイドル使うなんて」

「ふふふ、確かにそうね。じゃあこうしましょう。ライブするのはこの私。この子はただの景品。それでどう?」

 え、マジで!? 黄木さん相手じゃなけりゃ、望みはある。いくらなんでも人間、それも現役アイドルをドール化した黄木さんより強いってことはないだろう。チャンスだ。黄木さんを救い出せる。だが、青葉さんはまだ眉をひそめていた。何で? ……そりゃまあ、青葉さんからすれば、自分の生死を賭けるわけだから当然か……いや待った。違う。もっと根本的な、基本的な問題だ。勝てない勝負を吹っ掛ける阿呆はいない。これは罠だ。俺たちに希望を抱かせ、舞台に引きずり出すための罠だ。間近で見るリョーコは、クルミは勿論、動画で見た人気iドールたちの誰より人間らしい仕草を身につけている。青葉さんは人間とはいえ、踊りや歌は専門じゃない。わからない。勝てるかどうか、自信が持てない。もしも負けたら青葉さんもこいつらの所有物となり、そして俺はきっと……オオハタさんのように徹底的に痛めつけられるはずだ。

「……嫌だって言ったら?」

「イチ! サブ!」

 待ってましたと言わんばかりに、二人のヤクザは歓喜の表情と笑い声を持って近づいてきた。俺は生唾を飲み込み、全身が震え、呼吸が荒くなった。ここまでか……終わった。

 だが、二人がすぐ近くまで寄ってくると、リョーコがストップさせた。その後、和やかに微笑みながら最後の通告を出した。

「……さ、フレンドにメッセージを出しなさい。文面はこっちで用意するから、君は入力と送信だけしてくれればいいわ。認証が必要だからね」


 言われるがままに書いたメッセージを「つっちー1103」に送信するとすぐ、タブレットを取り上げられた。俺は柱にもたれかけながら座り込み、青葉さんに話しかけた。

「すみません。やるしかない流れ……になっちゃった感じで……」

「気にしないで。仕方がないもの。それに私元々やる気だったから」

「えっ、でも」

 さっきはやりたくなさそうな表情を見せていたのに。俺の勘違いだったのか。

「あのね、ここ数日、私が恥を忍んでアイドルごっこやってたのは何のためだと思ってたの? あの子を助けるためでしょ?」

 確かにそれはそうなんだが……。今対峙しているのは屈強なヤクザ二人で、ただの意地悪いオタクでしかなかったオオハタさんとはまるで状況が違う。仮に、この事件の主犯連中の狙いがアイドルのコレクションだとするなら、アイドルじゃない青葉さんが奴らの手に落ちた時、その身の安全は保障できないだろう。

「この前、君に停止させられたでしょ?」

 青葉さんは机上の黄木さんを眺めながら続けた。

「あれね、本当に怖いのよ。ただの拘束とはわけが違うの。体が髪の先まで全部固まっちゃって、筋肉の筋一本も動かせない感じ……わかるかなぁ。魔法で石にでもされたような」

「す、すいません。あの時はちょっと好奇心というか、試しておいた方がって」

「ああいや、君を責めてるわけじゃないからね。私が怒ってるのはあいつら」

 その時、サブがタブレットを持ってこっちへやってきた。土田さんから返事が届いたらしい。俺はまた用意された文章をそのまま打ち込み、送信する役目を任された。

 それが終わると、サブはさっさと俺からタブレットをふんだくり、作業机の方へ歩き去った。距離があいてから、青葉さんが再び口を開いた。

「だから、腹が立つの。子供をああいう辛い目に遭わせてるのが」

 黄木さんはずっと停止状態で、呼吸はおろか、瞬き一つしていない。完全に人形と化している。アレで意識があるっていうんだから、その苦痛は察するに余りある。腹が立つのは俺も同じだ。でも彼女を助けたいからといって、青葉さんを掛け金にしていいものか?

「今こんな格好してるけどさ、私、警察だからね。大人だから。目の前で子供が酷い目にあっていたら助けるのが仕事なの。それに、さっきは君に助けてもらっちゃったでしょ。子供の君がああして身を張ってくれたのに、大人の私がやらないわけにはいかないじゃない」

 青葉さんは俺を見上げて、力強く語った。

「だからね、どんな結果になっても君は気にしないで。全部私が自分の意志でやったことだから」

 その瞬間、青葉さんの背中から天使を模した翼が生えた。しかし翼がつっかえ、窮屈そうだったので、俺は青葉さんを鞄の外ポケットから出し、床に置いた。次の瞬間、耳や手首等にもアクセサリーが追加された。そのどれもが、白と青で構成されたドレスによく似合っていて、とても美しかった。土田さんが急遽課金したのだろう。

「それ、重くないですか?」

「あはは。感覚はあるけど、重さは感じないかな」

 青葉さんは照れくさそうに自分の翼を揉んだ。心が痛む。やっぱり、気にするなって、そんなの無理ですよ。俺がそう言おうと口を開きかけた時、iステージが起動した。歓声と共にAR映像が投影されていき、空気が張り詰めた倉庫の中にライブ会場が出現した。土田さんが勝負を受けたのか。まあ装備が増強された時点でわかってたけど。

「おい」

 イチ兄貴が俺に「セットしろ」と顎で指図した。俺は青葉さんを手に取り、ステージに近づいた。しかし何と言っていいかわからない。頑張れ? 勝ってください? 応援してます?

「大丈夫」

 青葉さんはそう言って笑って見せたが、心なしかその笑顔は固かった。

「ライブバトル開始です。iドールをセットしてください」

 iステージの左端にあるくぼみに青葉さんをセット。右端には黄木さんとリョーコが。俺はオオハタの時の轍を踏まないようしっかりと確認した。ライブするiドールのセット箇所には間違いなくリョーコがしっかりと嵌まっている。ひとまず真っ向勝負してくれるらしい。俺は不安にかられた。つまり、勝つ自信があるってことだ……。

「私もみたいですー」

 クルミを鞄から出してiステージが見える位置に置いてやると、

「私が先攻ね」

 と言ってリョーコが台座から離れ、ステージ中央に進み出た。そして青葉さんに向かって余裕綽々といった自慢気な笑みを見せた。iドールは常に同じパフォーマンスを発揮できるから先攻後攻による有利不利はない。だけど青葉さんは人間だ。緊張をする。相手が人間であることを逆手に取り、プレッシャーをかけにきたのか……!

 黄木さんとは異なり、リョーコは足を閉じ、両手でマイクを持ったまま派手な掛け声は出さなかった。静かに流れ始めた音楽は、なんだか古めかしい曲調と物寂し気な曲想とで織り成され、彼女のパンクな格好とはミスマッチだった。

「あっ」

 青葉さんが小さくうめいた。知っている曲なのか。

「私 一人の田舎道 今日も やっと夕日が沈む」

 歌いだしたリョーコの声は、とても情感のこもった美しい歌声で、俺はさっきまでとのギャップに圧倒された。

「道の端 歩きながら 私一人のハミング」

 派手な振り付けは一切なく、リョーコはゆっくりとランウェイの左端を歩き出した。その愁いを帯びた表情からは哀愁が漂い、俺の胸を打った。これが……iドールの表現なのか!?

「音を合わせて くれる人が いないって こんなにも寂しいのね」

 歩きながらチラリと右側に悲し気な顔を向ける動作は、歌詞と完璧に調和して、彼女が本当に愛する人を失った孤独を抱いているかのように感じさせた。

「もう一度 あなたと歌を 口ずさみたいのに」

 目を伏せ、マイクを持っていない方の手を胸に当てて、情緒たっぷりに歌い上げる様は、iドールとは思えない。彼女はランウェイの端に到達し、両手でマイクを握った。

「もう一度 あなたの歌が 聞けたらいいのにね」

 今度は顔を上げ、遠い目をして空を見つめた。それから物憂げに瞳を光らせ、ゆっくりと背を向ける。俺の視線は完全にリョーコに奪われ、それ以外は意識の外においやられた。真っ暗闇の中、彼女にだけスポットライトがあたっているかのようだ。

「思い出じゃダメなの 色あせてゆくから」

 またランウェイの左端を歩き、来た道を戻っていく。首を優雅に傾けながら。儚くも芯のある歌声が響く。

「お願いよ 隣を 歩いて」

 リョーコは一度右を向いてから、天に向かって祈るように歌い終えた。アウトロの寂寥なメロディーに合わせて静かに歩き、ランウェイからステージ中央に戻った。彼女がクルリと観客席に向き直ると同時に、完全に曲が鳴り終わった。

 一瞬の静寂の後、AR観客たちが爆発的な歓声を上げ、拍手が鳴り響いた。俺もつられてしかけたが、袖で震える青葉さんの背中に、思いとどまった。イチとサブは興味なさげにスマホを弄っている。

「すごいですー! パチパチ!」

 クルミは遠慮なしだが……。点数が出た。七二九二点! ……高い。黄木さんに引けを取らない高得点だ。思った通り……。勝つ自信があるから挑んできたんだ。

 次は青葉さんの番だが、台座の脇で俯いていた。足が震えている。そりゃそうだ。口では何といっても怖いに決まっている。自分の生殺与奪を賭けるんだ。加えて、千点アップしないと勝てないという事実。リョーコは不敵な笑みを浮かべて舞台の端へ去っていく。これが狙いで先攻を。

 俺は急いでiステージに近寄り、屈んで青葉さんを励まそうとした。

「青葉さん、その……落ち着いてください」

 ダメだな俺は。どんな言葉をかければいいかわからない。

「あ、うん、わかってる、わかってるから」

 青葉さんは今までで一番ぎこちない作り笑いで答えた。ダメだ……。このままじゃ失敗するぞ。緊張をほぐさないと……。何か話題を……。

「さっきの歌、知ってる歌ですか?」

 馬鹿。そんなこと聞いてどうすんだ。

「うん。古家良子の『ロンリーハミング』って歌。さっきのステージ、そっくりだった」

 ああ。リョーコのライブは、既存の歌手のステージをコピーしたものだったのか。名前も同じだし、間違いないな。完成度が高いわけだ。青葉さんがアレに勝つのは、厳しいだろうな……。

「ねえ。お願いがあるんだけど……」

 青葉さんがスカートの裾をギュッと掴み、ほんのりと頬を染めた。

「いいですよ。何ですか」

「私に『命令』してくれる?」

「えっ?」

「メグミのターンです。ライブを開始してください」

 俺が意図を汲みかね、混乱している間にシステムメッセージの音声が流れた。そうだ。いつまでもモタモタしていたら不戦敗に。

「ゴメンね。カッコいいこと言ったのに。みっともないよね……」

 僅か十七センチほどの女の子が必死に重圧と戦っている姿は、俺の胸を強く打った。力になりたい。俺は特訓の一環で、青葉さんに「命令」して無理やり通しで踊ってもらった時のことと、オオハタさんが黄木さんにライブを強制させた時のこととを思い出した。マスターはiドールに指示を強制する権限を持つ。それなら、たとえ青葉さんがいくら緊張していようとも、最高のパフォーマンスを発揮させることは可能だろう。だが、今、それはできない。

「あの、マスター権限は今土田さんにあるので、俺が命令しても」

「知ってる」

 青葉さんはプイっと背を向けた。顔は見えなかったが、耳がほんのりと赤みを帯びて、何とも愛おしかった。そんな彼女の後ろ姿を見て、俺は得心した。緊張と不安を和らげるためにどんな言葉をかければよいのか、ずっと悩んでいた。成功の保証……彼女を安心させて、背中を押す言葉を探せばよかったのだ。

「ライブを楽しめばいいんですよー」

 突然、クルミが割り込んできた。驚きだ。iドールから「楽しむ」なんて発想が出てくるとは……。あ、いや、これは……。

「里奈ちゃんがそう言ってたよ! 一番大事なのは、本人が楽しむことなんだって!」

 俺と青葉さんが同時に、リョーコの後ろで彫刻のように固まっている黄木さんに視線を注いだ。ありがとう。いいこと教えてくれて。

「一分以内にライブを始めなかった場合、試合放棄と見なし、不戦敗とします」

 やや冷たく聞こえるアナウンスの直後、俺は青葉さんの小さな頬っぺたに人差し指を伸ばした。

「命令です。ライブ、楽しんできてください」

 スリスリと優しくほっぺを撫でると、次第に青葉さんの顔は綻び、気持ちよさそうに俺の指に首を預けた。

「わかりました、マスター」

 青葉さんはステージに向かって歩き出した。その足取りは軽快だ。

「俺とクルミと……あと黄木さんもついてますよ!」

 最後の声援をかけ、俺は立ち上がった。正面から見よう。青葉さんのステージを。

 中央に躍り出た青葉さんは、朗らかに笑って、力強く叫んだ。

「青葉メグミ、『ジェムストーン』いきまーす!」

 AR観客が大きく歓声を上げると同時に、アップテンポなイントロが流れ始めた。静かなステージだったリョーコのライブとは好対照だ。

「ストーン ジェム プレシャス ハイッ!」

 最初の掛け声の時点で、俺は青葉さんが今まで見たこともないぐらい輝いて見えた。理由はわからない。背中の翼かな? 心なしか、点数の上昇も大きいような……!?

 でもとりあえず、ベストを尽くせそうでよかった。緊張や不安とは無縁の、はちきれんばかりの笑顔が眩しい。初めて見るな、青葉さんのあんな顔。

「地味で真面目な どんよりストーン 一昨日のあたし」

 青葉さんのクリアボイスは病院の時よりよく伸びている。遠く離れたイチとサブも反応したのが、何よりも痛快だった。

「あなたが教えてくれたのよ あたしは原石 ジェムストーン」

 クルリと一回転するターン。青葉さんは一本足で立ち、体を傾けながら大きく回った。とっても楽しそうな舞で、釣り込まれて笑顔になってしまう。

「昨日始めてわかったの あたしがこんなに可愛いなんて」

 彼女はランウェイを軽快な足取りで歩み、左右のAR観客たちに向けて可愛らしいウィンクを飛ばした。会場のボルテージが上がっていく。

「今日からあたしはプレシャスストーン」

 何度も練習したサビの振り付け。俺は基本的な流れは同じなのに、何かが違うことに気づいた。いや、始まりからそうだった。振り付けを再現することで必死だった練習の時とも、騙された怒りが混じった病院の時とも違う。今の青葉さんは、純粋に自分の意志で踊っている。

「男も女も鳥も木も あたしの光が照らしちゃう」

 大振りな動作と、合間合間の可愛いアドリブが、青葉さんが心から楽しんで歌い、踊っていることをこれでもかと言わんばかりに伝えてくれる。

「明日これからもプレシャスストーン 嵐も暗夜も雨も火も あたしの光は消せないわ」

 これは頑張って覚えた振り付けでも、既存のアイドルライブのコピーでもない。他の誰でもない青葉さんの、青葉メグミのステージだ!

「あなたもきっと 使えるはずよ」

 まるで観客一人一人に語り掛けるかのような仕草。AR観客たちが生唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。

「お洒落の魔法 ガールズカット」

 再度会場が沸いた。青葉さんは観客たちに手を振りながら、ランウェイを戻っていく。笑顔の中に滲む一抹の寂しさは、もっと歌いたかったなぁという名残惜しさを感じさせる。それは観客もきっと同じだ。ARじゃなければアンコールと叫んでいたかもしれない。

 青葉さんがステージ中央に戻ると、アウトロが鳴り終わった。大きな天使の翼を翻し、彼女が振り向いた。

「みんなー、ありがとー!」

 両手を広く上げて、青葉さんが叫んだ。大歓声の中、青葉メグミのライブは幕を閉じた。俺とクルミは心をこめて、大きな拍手で称えた。ステージの光量が落ちると、青葉さんが大きく息を吐いた。お疲れ様です。最高のライブでしたよ。

 終わった後、俺は点数の様子をまったく見ていないかったことに気がついた。それだけ夢中だったのだ。良い傾向……だといいんだがな。

 ディスプレイに映し出された最終点数は……七五四二点。

「は?」「え?」「あら……?」

 イチサブリョーコは停止したiドールみたいに固まった。俺も目をこすって二度見した。マジ? ……マジ!? 勝った!? 勝ったぞ!!

 青葉さんは「信じられない」と言わんばかりに、両手で口を覆っていた。俺は急いでiステージの横に回り、手のひらを差し出した。すると青葉さんはヨロヨロと拙い足取りで俺の手のひらに近づき、まるでベッドにダイブするかのように飛び込んできた。

「やった! やったよー!」

「はい! おめでとうございます! 最っ高のステージでしたよ!」

 青葉さんは俺の手のひらに抱き着き、顔を貼り付け、頬ずりした。余りに可愛らしかったので、頭を人差し指で撫でてしまった。流石に怒るかと思ったが、青葉さんはだらしなく力の抜けた笑顔を浮かべて受け入れてくれた。

「すっごーい! メグミちゃんよかったですー!」

 クルミが叫ぶ中、俺はステージの反対側にセットされている黄木さんに視線を移した。相変わらず固まったままだが、そのマスター権限は土田さんに移ったはずだ。

 イチサブの様子を見ると、可哀想にイチ兄貴がタブレットを両手で持って、ワナワナと震えていた。今まさに、あいつの見ている前で、画面から「黄木里奈」の項目が消えたに違いないぞ。ざまあみろ!

「どういうことだよ! 何で負けてんだ!」

 イチがリョーコを台座ごとステージから引っこ抜き、殺気を飛ばして問い詰め始めた。その真下で、黄木さんがついに自由を取り戻した。ピクッと小さく前進が震え、瞬きした。気をつけの姿勢から、ゆっくりと両腕が動き、一歩を踏み出した。それから、怒号と唾の飛ぶ上空を振り返りながらも、一直線に俺たちの方へ駆け寄ってきた。

「黄木さん……!」

「あ、あの……あり……ありが……」

 黄木さんはすぐに泣きじゃくりはじめた。背後で高校生に泣かれたことで青葉さんは冷静さを取り戻したのか、真っ赤になって俺の手から離れた。すぐに黄木さんを抱きしめ、「大丈夫、もう大丈夫だからね」と声をかけて慰めた。

「サブ! あんたあの警官は六千点だって言ったじゃない!」

「お、俺が病院で見た時はそうだったんスよ!」

 そういえば、リョーコは服装と曲の雰囲気がマッチしてなかったな。俺は顔がにやけてしまった。「相手が六千点なら七千点演技で勝てるから装備変更する必要なし」だなんて、実にAIらしい慢心じゃないか?

「ふっざけやがってェ!」

 イチがリョーコを掴んだ右手を高く上げた。俺の全身に鳥肌が立った。おい、あいつまさか……。

「おいっ、やめっ……!」

 リョーコは猛烈な勢いで床に叩きつけられ、茶碗が割れるような音とともに消滅してしまった。真っ二つに割れた台座が飛び散る。後にはリョーコの影も形も、欠片も残らなかった。

 黄木さんが青葉さんの胸に顔を埋めていたので見ないで済んだ。だが青葉さんは正面から目撃してしまった。見る間に顔が真っ青になっていく。

 俺は黄木さんの台座を回収したかったが、それはイチの足元にある。まずいぞ。

 イチとサブが血管を浮き上がらせて俺たちに殺意のこもった視線を向けたその時。遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。段々近づいてくる。

「……チッ!」

 イチとサブは無言で顔を見合わせ、黒のワゴン車に乗り込んだ。

(あれ?)

 俺の記憶と車のナンバーが違う? 確か品川ナンバーだったはずだ。今見ると横浜になってる。次の瞬間、プレート上の数字が右から順に消えた。その後、左から新たな数字が順番に現れた。まるでパソコンやスマホで文字入力をしているかのようだ。

「ブイナンバーね」

 青葉さんがポツリと言った。

「ブイってなんです?」

「ARナンバープレートのこと」

 俺はすっかり度肝を抜かれた。そんなものが世の中には存在するのか……!

「あんまり言いふらさないようにね。違法だからアレ」

 敗走するヤクザ二人を乗せたワゴン車は、急発進して倉庫の外へ走り去り、見えなくなってしまった。だがすぐに大きなブレーキ音と怒号が聞こえた。間近まで迫ったサイレンの主と鉢合わせたらしい。

 一分もしないうちに、パトカーが倉庫に入ってきた。続けてもう一台。二台目から土田さんが姿を現した。俺を見るなりすぐさま駆け寄り、肩に手をかけてきた。

「あ~、良かった~。無事? 大丈夫? 怪我は……怪我してます! 救急車!」

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