神の違い
紀元前600年頃からキリストが誕生するまでに、世界各地に多くの哲学者や宗教が生まれました。ギリシャを中心とする西欧では、ピタゴラス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、エピクロス、ゼノン。中国では、老子、孔子、孟子。インドでは、ブッダ、マハーヴィーラ。ゾロアスター教もこの頃に誕生して、そこからユダヤ教とキリスト教が生まれました。
「哲学と宗教全史」を読み始めた時、世界各地で同じような時期に知の爆発が起こったという事実に、僕は震えました。何故なんでしょう。僕は、これは偶然ではないと思っています。
日本の縄文時代は、紀元前1万5000年から1万年くらい前から始まったそうです。土器が作られ、人間社会の形成が始まります。紀元前1000年前には、稲作が始まり弥生時代を迎えました。ところが、世界ではもっと早い。農耕の開始は、紀元前9000年から7000年前に西アジアで始まりました。
農業――それは、大きな革命でした。安定して食物を摂取することが出来る。この事実が、人間に社会生活を誕生させました。狩猟生活であれば小さな集団で事足ります。ところが、農業は、規模が大きくなればなるほど、人間の頭数が必要になってきます。抱える人間が増えれば、今度はまとめるリーダーが必要になってきます。国の誕生です。
世界各地に、大小の様々な国が生まれました。国を運営するには、王様が必要です。王様は人民を従えるので絶対的なカリスマが必要になります。そのカリスマの一つに、神様の存在がありました。両者は、不可分な関係です。王様が神様を利用するときもあったと思いますが、王様も神様を信じています。王様が国を運営するとなると様々な問題があったでしょう。その時は、占いを通じて神に問い掛けます。占星術を始めとする占いが、この時発展します。
でも、そうした神はシャーマン的な原始宗教です。紀元前に世界各地で発生した知の爆発とは関係がありません。知の爆発の発火点に火を付けたのは、戦争です。
農業の始まりは、人間社会を食の面では安定させました。しかし、同時に争いも生み出しました。農業の収量は、立地の良さや、天候に左右されます。国が大きくなればなるほど、その争いは各段に大きくなっていきました。哲学者の多くは、戦争に追われ、生死を彷徨います。
――人間は、なぜ生きているんだ?
――どうして、苦しまなければいけないんだ?
そうした疑問に、彼らは悩みました。答えを求めようとしました。そうした抑えようのない怒りが、知の爆発の原動力だったと、僕は想像しています。
人間は、誰しもが幸せになりたい。その答えを求める時、仏教は二つのアプローチに分けました。
幸不幸の原因を、神に求めるのか、自分に求めるのか?
神様を奉る多くの宗教は、神様への絶対性を説きます。人間は、神によって運命を握られている。人間は、神のしもべ。封建社会的なヒエラルキーがそこに存在します。
18世紀になり、独立戦争、フランス革命がありました。そうした歴史を通じて19世紀の哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言い切りました。神様を奉ることが良いか悪いかは別にして、神の世界にはどうしても封建的な社会が出来てしまう。これは仕方がない様に思います。
対して、仏教にも神は存在します。しかし、その捉え方が違います。神道の八百万の神に近いのですが、自然界の事象それぞれに神様を立てます。例えば、太陽や月は、日天、月天と呼びます。他にも、如来や菩薩が数多く存在しています。その多さにこんがらがってしまうほどです。
ただ、面白いのは神を特別な存在として位置づけません。釈尊は、自分自身が普通の人間だったと告白します。修行を重ね、悟りを開いたから、人々の為に尽くすと述べました。
仏教の世界では、神と人間が同じような物理的存在として扱われます。違いは、悟っているか、迷っているかの違いとして捉えました。迷っている間は苦しみます。だから、悟ることを促します。悟った人間は、社会の為に尽くす菩薩として位置づけました。神の誕生です。
僕は、仏教のエッセンスを語ったつもりですが、現在の仏教界がそうだとは考えていません。宗教というのは、うま味のある事業です。信者が馬鹿であれば馬鹿であるほど、笑いが止まらない商売だと思っています。神に神秘性を持たせ、功徳と説き、考えることを止めさせれば、カルト宗教の出来上がりです。
哲学や宗教の本来の目的は違います。人間を賢くする。悟らせる。これが大切なはずです。僕はその様に考えています。




