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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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古代史自説⑬蘇我一族(後編)

 聖徳太子ゆかりの地である斑鳩町には法隆寺があります。何度か足を運びましたが、世界最古の木造建築は伊達じゃありません。奈良時代を代表する煌びやかな寺社と比較すると、モノクロームでシンと静まり返った静謐感がとても厳か。飛鳥時代の始まりは、律令制の基礎となる十七条憲法や冠位十二階といった内政への取り組みと、遣隋使による大陸への外交という、日本の歴史を通じて最大級の変革期でした。このような変化の最中に法隆寺は建造されます。晩年の聖徳太子は政治の世界から身を引き、この法隆寺で仏教の研鑽をされました。ところが聖徳太子が薨去されて後、この法隆寺は一度焼失してしまいます。それでも、再建された法隆寺が世界最古の木造建築であることは間違いがなく、飛鳥時代の有りし日を現代に残していました。


 その法隆寺の東隣には、中宮寺があります。聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女アナホベノハシヒトノヒメミコの為に建てた尼寺で、本尊として菩薩半跏像が安置されていました。飛鳥時代の作品で、木で作られた高さが132.0㎝の仏像になります。元々は彩色されていたようですが、現存する半跏像は墨を流したように真っ黒でした。この真っ黒がとても良い。右手を頬に寄せながら台座に座っていて、足を組み少し前屈みになっています。その表情は、ほほ笑んでいますが笑っているわけではありません。澄み切った泉のように静まり返っていました。このような表情のことをアルカイックスマイルと呼びますが、この中宮寺の菩薩半跏像のスマイルは他と比較しようがないほどに美しい。モデルは穴穂部間人皇女とされています。


 穴穂部間人皇女は、欽明天皇と蘇我小姉君との間に生まれた姫でした。姫というと西洋的な屋敷に囲われた箱入り娘的なイメージがありますが、古代の日本における姫は巫女であったと考えます。古代における政治は神との繋がりが重要でした。卜骨といった占いを通して神の神託を伝えるのが巫女の役割だったと考えます。


 西暦600年に行われた第一回遣隋使において、隋書に大和王権の政治の様子が次のように記されていました。

「倭王は、天が兄であり、日が弟です。まだ天が明けない時に出て、跏趺して坐りながら、まつりごとを聴きます。日が出れば、すぐに理務を停めて弟に委ねます」


 この時の大王は推古天皇で、摂政は聖徳太子になります。隋書には推古天皇は女性なのに兄と表現されていました。これは男系の王しか認めない中国的思想に対して、通訳する者が配慮したと考えますが今回のテーマではないので割愛します。注目すべきは、夜が明けないうちに兄によって政が行われ、日が昇ると弟が職務を受け継ぐという内容になります。夜明け前に、推古天皇は巫女として神への祈りという儀式を行い、その神託を受けて、摂政である聖徳太子は宮中において内政を行ったのではないでしょうか。


 また大和王権は、新嘗祭をはじめとして神人共食の宴会政治を行いました。この神饌の場でも、巫女が活躍したでしょう。高槻市にある真の継体天皇陵とされる今城塚古墳には、埴輪が復元されています。当時の宮中の様子が再現されているのですが、巫女の埴輪が盃を両手でもって捧げていました。大王家や豪族たちの娘は、巫女としてこの祭祀に関わっていたのではないでしょうか。またこのような祭祀の場は、男女の出会いの場でもあります。巫女として祭祀に関わる穴穂部間人皇女と用明天皇との間に、ドラマがあったのかもしれません。


 ところで穴穂部間人皇女は、なぜ「穴穂部」という名前を冠しているのでしょうか。「穴穂」は、第20代安康天皇の宮である「石上穴穂宮」が由来だと考えられます。場所は天理市にある石上神宮から見て西側の平地にありました。ところで、この宮について僕なりの考察を述べてみたい。


 大王の住居である宮は政務を行う国の中心地でもあるのですが、神武天皇から始まる代々の大王は、それぞれに自分の宮を持っていました。例えば、奈良時代であれば第43代元明天皇から第50代桓武天皇まで代々の天皇が平城宮で政治を行いましたが、古代においては大王が即位するたびに宮が新設されるのです。継体天皇に至っては、樟葉宮、筒城宮、弟国宮、磐余玉穂宮と四つもの宮に移り住みました。なぜ新しく宮を建てるのかというと、そこが水田稲作の新しい開拓地だったからだと考えます。欠史八代の大王は、事績は記されていませんが宮の場所は記録されています。奈良盆地の南側を中心にして転々と移動していました。棚田の水田稲作を開拓するために、拠点として宮を置いたのではないでしょうか。


 ところで宮を引っ越しすると、元の宮は空いてしまいます。この空いた宮は大王家の直轄地として、その子供たちに引き継がせたと考えられています。穴穂部間人皇女と穴穂部皇子であれば、石上穴穂宮を大王から下賜されたということです。ただ、ここでもう少し踏み込んで考えてみます。穴穂部間人皇女の父親は欽明天皇ですが、大王には6人の妃がいました。宮を下賜されたのは、これら妃たちだったのではないでしょうか。


 古代の宮は、藤原京や平城京と違ってそれほど大きくなかったでしょう。蘇我小姉君は、下賜された石上穴穂宮において、穴穂部間人皇女や穴穂部皇子を育てたのではないかと考えています。宮には名代なしろと呼ばれる部民が置かれました。名代は、宮において王族の世話をします。石上穴穂宮の名代であれば「穴穂部」と呼ばれました。名代はそれぞれの宮に置かれていて、雄略天皇の長谷朝倉宮であれば長谷部はせべ、 欽明天皇の磯城嶋金刺宮であれば金刺部かなさしべと呼ばれています。


 石上穴穂宮における「穴穂部」に関して注目すべきは、その立地でした。物部氏の支配地域は難波から八尾にかけての河内になりますが、天理市にある石上神宮も大和国における物部氏の支配領域だったのです。つまり、「穴穂部」は物部の一族によって構成されていたのではないでしょうか。蘇我馬子と物部守屋が激突する丁未の乱は、用明天皇が崩御したことによる、次の大王の擁立問題が原因でした。この擁立問題で、物部守屋は蘇我氏の血を受け継ぐ穴穂部皇子を推すのです。それは穴穂部皇子を養育したのが物部氏だったからと考えます。小姉君の子供である、穴穂部皇子と崇峻天皇は蘇我馬子によって殺されました。聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女はどうだったかというと、記紀には記されていませんが、丁未の乱の渦中に丹後半島に逃げていたのです。


 丹後半島の日本海側に面した海岸に、間人たいざと呼ばれる地域がありました。GWの時期に、大阪からスーパーカブに乗って現地に赴いたことがあります。日に焼けるほどの暑い一日でしたが、海水浴客はいません。人の居ない海岸線の先に立岩という山のような岩が鎮座していました。その立石が見える海岸に、穴穂部間人皇女の銅像が建てられているのです。足元には、小さな厩戸皇子が母親に寄り添っていました。


 丁未の乱から逃げてきた穴穂部間人皇女アナホベノハシヒトノヒメミコは、この丹後の地で匿われました。大和国に戻る際に、お世話になったこの地域に自分の名である「間人」を贈ったそうです。ところが、現地の人々は「尊い御名をそのままお呼びするのは畏れ多い」として、皇女がその地を退座したことにちなみ「タイザ」と読むことにしたそうです。


 ところで、穴穂部間人皇女は、なぜ丹後半島まで逃げてきたのでしょうか。それは、丹後の地が親元の出身地だったからだと考えます。ここ間人には、竹野神社たかのじんじゃがありました。塀には白い二本線が入っており、これは天皇家にゆかりのある神社の印になります。創建は非常に古く、丹後国の有力豪族であった丹波大県主である由碁理の娘が第9代開化天皇の妃になるのですが、この姫が竹野媛であり神社を創建しました。以前にもご紹介しましたが、この時代の大和王権は、朝鮮半島から鉄を手に入れる為に日本海側の豪族と婚姻関係を結んでいきます。そのような政略的な意図があったのでしょう。


 竹野媛の子孫が小姉君に繋がるのかは分かりません。もし蘇我稲目の妃の一人がこの竹野媛の子孫に繋がる人で、二人の間に小姉君が生まれたのなら、小姉君系の墳墓が円墳だったことの説明がつくと思います。当時は母系継承が一般的だった話をしましたが、穴穂部間人皇女やその息子である聖徳太子は自身のルーツを丹後国に求めていたのかもしれないのです。


 対して堅塩媛の母親は、出雲に関係した人だったのでしょう。そのように考えると、蘇我馬子が小姉君系の子供たちに対して容赦のない仕打ちを繰り返した理由が見えてきそうです。ただ、話はそう単純でもないのです。ここで、一つの事績をご紹介したい。


 欽明天皇23年に、大伴狭手彦が数万の兵を率いて高句麗を討ちました。種々の珍宝を得て天皇に献上するのですが、大臣である蘇我稲目には捕虜であった美女媛と従女の吾田子を献上したのです。稲目は二人を妻として軽曲殿に住まわせました。軽曲殿は、甘樫丘の西側に広がる地域で、蘇我一族の支配領域になります。文献に残る稲目の妻はこの二人だけなのですが、注目すべきは欽明天皇23年という時代でした。


 実は欽明天皇の即位年は議論されています。日本書紀を信じるのなら、西暦540年に大王として即位したことになります。ところが古伝である「上宮聖徳法王帝説」と「元興寺縁起」によれば、西暦531年に即位したことになるのです。この場合、第26代継体天皇が薨去したのも西暦531年なので、直ぐに第29代欽明天皇が即位したことになります。そうなると第27代安閑天皇と第28代宣化天皇が大王として即位するタイミングがありません。そこから、どちらも大王として別々に活動していたとする「二朝並立説」が唱えられました。この二朝並立説に従えば、先ほどの欽明天皇23年は、西暦553年になります。蘇我馬子の誕生は西暦551年頃と考えられているので、大体合ってきます。つまり、蘇我馬子の母親は、高句麗の美女媛だった可能性が浮上してくるのです。


 これはあまりにも大胆な仮説なので、これを正確な歴史的事実というつもりはありません。当時の飛鳥には、東漢氏やまとのあやうじを筆頭とする渡来系の氏族が多く住んでいました。彼らは蘇我氏から屯倉の管理を任されており、彼らの存在こそが蘇我氏が大臣として力を発揮できる源でもあったわけです。そんな蘇我稲目と美女媛との間に誕生した馬子だからこそ、渡来系の氏族たちから大きな支持を得たのかもしれません。


 蘇我馬子の息子は、日本書紀において「蝦夷」と表記されています。蝦夷は、大和朝廷に従わなかった人という意味で、主に東北地域の蔑称として使われました。この蔑称が、もしかすると蘇我一族の血統に由来しているのでは……と考えるのです。蘇我氏は王族の外戚でした。これは王族の血脈にも関わる問題になってきます。当時の世界観では、神代から続く神の血脈は絶対でした。どんなに実務能力が高くても、王族の外戚一族では外聞が悪いのです。宗教的な権威が保てなくなる危険性がありました。


 そのような外聞に対する言い訳として、葛城県に由来する出雲国の系譜が必要だったのではないでしょうか。記紀を始めとする史料に、蘇我一族の母系が記されていないのには、そうした意味があったと考えています。これは僕の妄想です。真に受けないでください。ただ、物語にするのなら、かなり面白い設定だと思います。

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