古代史自説⑫蘇我一族(中編)
蘇我馬子は、「葛城県は元臣が本居なり」との言葉を残していました。葛城が蘇我氏の出身地とする文献はありませんが、古代において葛城県に関係した人物を探っていくことで蘇我氏の属性が見つかるかもしれません。少し時代を遡って歴史を振り返ってみたいと思います。
大和王権内で最初に大臣の職に就いたのが武内宿禰になります。彼は、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇の5世代に渡り大王の忠臣として仕えました。それが本当ならとんでもない長寿で、仙人にでもならなければ職務を全うできません。彼の実在性は疑わしく、大臣の理想像を描いた想像上の人物だと考えられています。そのような武内宿禰ですが、彼の事績を振り返ってみると、5世代の天皇よりも神功皇后を支えた活躍が多く記されていました。
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で第15代応神天皇の母親になります。仲哀天皇が薨去した後、息子である応神天皇が即位するまで70年間もの長きにわたり摂政として大和王権を統治しました。彼女の有名な事跡に応神天皇を身籠りながらの三韓征伐があります。その功績から大和王権は新羅や百済から朝貢されるようになるのですが、神功皇后は摂政62年に再び新羅を征伐しました。この時の大将が、葛城襲津彦になります。
葛城襲津彦は葛城氏の始祖であり、武内宿禰の息子になります。母親は葛比売とだけ記されていて、葛城の姫であったことしか分かりません。ここで神功皇后の系図を見てみましょう。父親は息長宿禰王で、その祖を辿れば淡海国の王である彦坐王や開化天皇に辿り着きます。ところが、母親は葛城高顙媛でした。神功皇后と葛城襲津彦が姉弟とはいいませんが、母系でみれば二人は同族かもしれないのです。
葛城高顙媛は父母の記録が残っていました。父親の多遅摩比多訶の出身は但馬国で、アメノヒボコの子孫とされています。母親の菅竈由良度美の出身地は越国で、ここには氣比神宮がありました。懐妊中の神功皇后はこの氣比に訪れていますし、息子の応神天皇は氣比神宮の主祭神と名前を交換したという伝承が残されていました。これらのことから、神功皇后は父系は傍系ながらも王族の血が流れており、母系は但馬国と越国に関係していたことが分かります。越国は海人族のテリトリーであり、僕の考察では縄文系の海洋民族文化圏だったと考えます。ここで疑問が生じるのですが、葛城高顙媛は葛城の姫と表記されながらも、その出生を探っていくと葛城とはまったく関係がありません。日本海側から葛城に移住してきたということでしょうか。
ところで、葛城の地域は別の伝承が残されていました。神武東征において、長髄彦に手ひどくやられた磐余彦は、紀伊半島の南にある熊野に逃げます。その後、八咫烏の導きによって熊野から大和国へ赴き神武天皇になりました。この八咫烏は賀茂建角身命とも言われ、彼の子孫は山背国の賀茂氏と葛城国造に分かれるのです。その痕跡として、山背国には賀茂神社が、葛城国には高鴨神社が創建されました。葛城の高鴨神社の祭神は阿遅志貴高日子根命になります。この神は大国主の息子なので、八咫烏を始祖とする葛城国造とは出雲系の一族になります。では、この出雲系の一族が葛城氏の祖先になるのかというと、それはまだ立証が出来ません。
そもそも神武天皇は、大和の地において媛蹈鞴五十鈴媛と結ばれました。彼女の父親は大国主の息子である事代主になります。神武東征では、長髄彦を従える邇藝速日命の存在ばかりが表に出ていますが、この事実から大和国には出雲系の一族が存在していたことが分かります。神武東征において道を示した八咫烏は出雲系、また磐余彦に娘を娶らせ全面的にバックアップしたのも出雲系でした。その豪族とは、葉江氏になります。
大和王権始まりの地である纏向遺跡がある三輪山周辺は、磯城と呼ばれる土地でした。この土地を治めていたのが磯城県主である葉江氏なのです。歴史的にこの磯城周辺は、代々の大王が宮を置いており大和王権の中心地でした。因みに、高鴨神社に祀られている阿遅志貴高日子根命の名前には、「志貴」の名が含まれています。磯城県と葛城県は、同じ出雲一族が治める土地だったのでしょうか。
葉江氏は神武天皇と姻戚関係を結ぶだけでなく、欠史八代の第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、題5代孝昭天皇、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇にも一族の娘を娶らせ外戚になりました。更に、それぞれの大王が宮を置いた場所を調べてみると、奈良盆地の南側に広がる磯城県から葛城県までの領域に満遍なく点在していました。その設置場所はどこも山麓で棚田の水田稲作を指導したであろう様子が伺えます。「はえ」は「栄える」の語源でした。葉江氏はその名の如く、大王家を全面的にバックアップすることで大きく繁栄したのです。
ところが、第8代孝元天皇、第9代開化天皇は葉江氏ではなく、物部氏の始祖となる邇藝速日命の一族から、また和爾氏から妃を娶りました。宮も奈良盆地南部を離れて、奈良盆地北部に移ります。また、葉江氏は蠅氏と表記されるようなりました。同じ「ハエ」でも、イメージがかなり貶められています。大王家と葉江氏の間に何があったのかは分かりませんが、決定的な対立があったのでしょう。その後、葉江氏は歴史の舞台から消えます。
第10代崇神天皇の御代に、疫病の大災厄によって国の半数の人々が亡くなりました。以前にもご紹介しましたが、崇神天皇は祟り神である大物主を祀るために、事代主の子孫である大田田根子を探し出して、大神神社を創建しました。大田田根子の子孫は、その後、三輪氏や鴨氏を名乗ることになります。大神神社を創建した背景に、大王家と葉江氏との確執が遠因しているとしたら、歴史の見方が少し変わってきます。しかし、欠史八代の事績はほとんど残されていないので、その真相に迫ることは出来ません。
時代が下り、神功皇后の登場によって葛城氏は大王家の外戚豪族として大きな影響力を持つようになりました。葛城には出雲の神を祀る高鴨神社があります。この神社は、京都の上賀茂神社や下鴨神社を始めとする全国のカモ神社――鴨・賀茂・加茂――の総本社でした。このような出雲と縁の深い葛城を本居と称する蘇我氏が、継体朝を経て歴史の舞台に登場します。蘇我氏系の墳墓が方形であることは前回にご紹介しました。方墳は、出雲のシンボルになります。大王家と姻戚関係を結んだ蘇我氏は、自身の出生が出雲であることを強く意識していました。文献には、蘇我氏と出雲を結び付けるような記述はありませんが、方形墳墓がそのことを強く物語っています。正に「蘇る出雲」になります。
ただ、蘇我氏が純粋な出雲族かというと、これは疑問が残ります。葛城氏の出生をご紹介しましたが、母系をみると但馬国や越国の血が混ざり合っていました。また、八咫烏を祖先とする葛城の鴨氏は出雲族になりますが、武内宿禰の子孫と称する蘇我氏とどのように関係するのかが分かりません。ただ、注意しなければならないことは、同族意識の基準を父系で考えるのか、母系で考えるのかで大きく変わってきます。大王家は男系継承が基本ですが、古代は母系継承が一般的でした。ここで蘇我氏を探るために、一族の家系を見てみます。
第31代用明天皇と穴穂部間人皇女が結ばれて、後の聖徳太子になる厩戸皇子が誕生しました。用明天皇と穴穂部間人皇女の父親は、第29代欽明天皇になります。つまり、二人は腹違いの兄妹でした。欽明天皇には6人の妃がいます。その内の蘇我堅塩媛 (ソガノキタシヒメ)の息子が用明天皇であり、蘇我小姉君の娘が穴穂部間人皇女になります。日本書紀によれば、堅塩媛と小姉君は、二人とも蘇我稲目の娘でした。現代では考えられないような複雑な婚姻関係になります。
ところで、堅塩媛と小姉君は共に蘇我の血を継いでいるのに、その子供たちの処遇は対照的でした。堅塩媛は13人もの子供を産みますが、そのうち用明天皇と推古天皇が大王になります。用明天皇は即位して2年で病で薨去しますが、推古天皇は飛鳥時代という激動の時代に名を刻みました。対して小姉君は5人の子供を産みますが歴史に名を刻むのは、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子、泊瀬部皇子になります。末っ子の泊瀬部皇子は第32代崇峻天皇に成りましたが、蘇我馬子によって暗殺されました。また大王に成ろうとした穴穂部皇子も、馬子によって殺されてしまいます。同じ蘇我の一族なのに、このような差が生まれたのはなぜでしょうか?
蘇我馬子が同族を殺すに至った原因として、彼らとの確執がありましたが、その内容についてはここでは触れません。蘇我一族の系譜からみる派閥的な関係性について注目してみたい。日本書紀においては、堅塩媛、小姉君、馬子は蘇我稲目の子供たちになっています。しかし、彼らの母親は明らかになっていません。古い記録である欠史八代は、大王の事績は書かれていませんが姻戚関係だけは記されています。それなのに、大王家の外戚として権勢を振るった蘇我氏の母系が、飛鳥時代という比較的新しい時代にもかかわらず記されていないのです。ここに記紀編纂における闇を感じました。蘇我氏の出生を隠さなければならない、大王家の秘密があったのかもしれません。
ところで古事記において、小姉君は堅塩媛の叔母と紹介されていました。姉妹ではないのです。小姉君は名前からして「小さなお姉さん」なので、これは本当かもしれません。また叔母にも2種類ありまして、父方の叔母か母方の叔母かで、意味が大きく違ってきます。父方の叔母なら稲目の兄妹になるし、母方の叔母ならそもそも蘇我の一族ではないのかもしれません。これは蘇我一族を考えるうえで大きな手掛かりになります。
二人の姉と馬子の関係を考える為に、年齢の差を比較しました。堅塩媛と小姉君は欽明天皇の妃なので、大王より年下でしょう。欽明天皇は西暦509年に誕生しました。蘇我馬子は正確ではないのですが、西暦551年頃に誕生したようです。
――あれ?
欽明天皇と蘇我馬子は、42歳も歳が離れていました。ということは、堅塩媛と小姉君もそれに近いくらいに離れていることになります。当時は、財力があれば一夫多妻が普通なので不思議なことはありません。ただ、少し離れすぎている様な気がします。ここで彼らの墳墓についてもう一度振り返ります。
前方後円墳ー欽明天皇
方墳ー稲目、馬子、推古天皇、用明天皇、竹田皇子
円墳-聖徳太子、穴穂部間人皇女、膳部菩岐々美郎女
稲目と馬子を含めて堅塩媛に関係する墳墓は方墳になります。同じ蘇我一族ですが、小姉君に関係する墳墓は円墳でした。ただこれには注釈が必要で、聖徳太子と、母親である穴穂部間人皇女と、妃である膳部菩岐々美郎女は叡福寺北古墳に三人一緒に合葬されています。なので、ケースは1しかありません。ただ、小姉君系の墳墓と思われる古墳が法隆寺の隣にありました。円墳の藤ノ木古墳になります。
藤ノ木古墳には成人男性2人が合葬されています。被葬者は明らかになっていませんが、最新の学説では蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子である宅部皇子の可能性が高いと論じられていました。宅部皇子は、穴穂部皇子が殺される際に仲間ということで一緒に殺されます。穴穂部皇子は穴穂部間人皇女の弟で、小姉君系になります。蘇我の一族でありながら墳墓が違うということは、何を意味するのでしょうか? そのことを探るために次回は、聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女について掘り下げてみたいと思います。




