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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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古代史自説⑪蘇我一族(前編)

 古代の大阪は、三つの国に分かれていました。大雑把に説明すると、京都から大阪湾に注ぎ込む淀川から北側に広がる北摂地域から神戸の辺りまでが摂津国、大阪と奈良を東西に分かつ生駒山地と金剛葛城山脈の西側に広がる平野部が河内国、大阪湾に面した南部地域が和泉国になります。河内国の生駒山地と金剛葛城山脈の間には大和川が流れており、その南側に飛鳥と呼ばれる地域がありました。大和国にも飛鳥村があります。難波宮からみて大和国は遠つ飛鳥、河内国は近つ飛鳥と呼ばれていました。近つ飛鳥があった地域は、現代の行政区域では羽曳野市と太子町に相当します。太子町の太子とは、聖徳太子のことになります。


 太子町は、山を背にした山麓地域で、大和国の飛鳥村と雰囲気がよく似ています。ここ太子町には、大王・皇族系の墳墓が幾つもありました。敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、聖徳太子、竹田皇子等になります。彼らは古墳時代から飛鳥時代に切り替わる激動の時代に活躍した人物たちで、なぜか河内国の近つ飛鳥に集中して墳墓が築かれました。これらの古墳を比較してみると、日本初の元号である「大化」を定めた孝徳天皇と聖徳太子は円墳、推古天皇、用明天皇、竹田皇子は方墳、敏達天皇は前方後円墳になります。


 全国に16万基はあるとされる古墳ですが、古墳といえば前方後円墳をイメージします。しかし、前方後円墳は全国に5,000基ほどで、その割合は全体の3%しかない。多くは円墳になります。ただ、大王や皇族の墳墓の多くは前方後円墳であり、且つどれも巨大でした。一般的に古墳といえば前方後円墳をイメージするのは、その形状が大和王権のシンボルとして刷り込まれているからです。


 3世紀前半に奈良県の纏向に巨大な前方後円墳が築かれました。ここから古墳時代が始まります。しかし、古墳の建造そのものは弥生時代から既に始まっていました。日本で古墳の建造が始まったのは出雲になります。形状は四隅突出型墳丘墓で、形状としては方墳でした。この方形の墳墓は、日本全国でみると出雲に集中しており、大和の前方後円墳に対して、出雲の方墳と見ることが出来ます。この方墳が、300年以上の時を超えて飛鳥時代の始まりに、近つ飛鳥で思い出されたかのように次々と建造されていきました。


 近つ飛鳥の方墳に埋納されているのは、推古天皇、用明天皇、竹田皇子になります。彼らに共通するのは蘇我氏の血を継いでいるということでした。因みに、蘇我馬子の墓とされる明日香村にある石舞台古墳は方墳であり、その父である蘇我稲目の都塚古墳も方墳でした。同じ蘇我氏系列でも聖徳太子は円墳なのです。彼の場合は様々な価値観を破壊していった人物ですし、特別な考えがあったのかもしれません。その理由について確かな答えはありませんが、後ほど考察していきます。この蘇我氏系列の墳墓が方墳であるという事実は、蘇我氏を考えるうえで大きなキーワードになります。


 蘇我一族が歴史の表舞台に登場するのは、蘇我稲目からでした。彼は、宣化天皇元年、西暦536年に大臣となり、宣化天皇と欽明天皇を支えます。稲目の娘である堅塩媛と小姉君は欽明天皇の妃となり、その子供たちから、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇、聖徳太子等が誕生しました。蘇我稲目が無くなった後、息子である蘇我馬子が次の大臣となり、大和王権内において父親以上の権勢を振るっていきます。


 蘇我氏の、本貫地は大和国高市郡曽我だと考えられています。奈良の明日香村から見ると北隣になり、この曽我の地には宗我坐宗我都比古神社が鎮座していました。「紀氏家牒」によると、この神社が蘇我石河宿禰の家であると記されています。またこの地域には、曽我川が流れており水辺には菅――スガもしくはスゲ――というイネ科の植物が生い茂っていました。菅は神饌において供物の敷物として使われる神聖なものになります。大和王権の政治において、神に飲食物を捧げる神饌は重要な仕事でした。これを仕切ったのが蘇我氏で、蘇我の語源はこの菅が由来したものだと考えられています。


 「スガ」という音からは、「清々しい」という言葉が生まれました。櫛名田比売を妻にした須佐之男命は、出雲にある須賀すがの地で、「なんと清々しい」と感嘆したそうです。当時の蘇我一族は、清々しいというイメージをもたれていたのかもしれません。この音に対して漢字が当てられるのですが、蘇我、曽我、宗我の三つがあります。一般的には「蘇我」を使うのですが、この漢字の使い方が面白い。「蘇る我」になります。いったい、何が蘇るのでしょうか? 漢字の意味を無視して使ったとは思えません。何かしらの意図があったと思います。


 また「蘇」という漢字には、乳を煮詰めて調理する食べ物の意味もありました。崇仏派の蘇我氏は、仏教を学んでいたはずです。仏教には、醍醐味の説話がありました。インドでは古来から乳製品が発達しておりチーズ、バター、ヨーグルトを食しています。そうした乳製品を加工する上で、美味しさを五段階に分けたのが「乳味」「酪味」「生酥味」「熟酥味」「醍醐味」になります。最後の「醍醐味」を最高の味とし、仏の知恵を表す言葉として表現しました。古代の日本において、最初の乳製品は「蘇」になります。「蘇」は小野妹子が大好物だったとの記録もあるそうで、古代においてとても珍重された食べ物でした。蘇我一族は、自分たちのことを醍醐味のような最高の一族として誇りを持っていたのかもしれません。


 日本列島に、馬がもたらされたのは古墳時代になります。徒歩で移動していた古代において、馬は現代で言うところの海外のスポーツカーのような存在でした。この馬の飼育に蘇我氏が関わっていたようなのです。蘇我馬子は勿論のこと、聖徳太子の名前である厩戸豊聡耳皇子命ウマヤトノトヨミミノミコにも馬に関係する漢字が使われていました。稲目の父親は蘇我高麗ソガノコマと言いますが、一説には高麗は若い馬の「駒」だそうです。また、蘇我の本貫地である曽我には、馬を埋納した遺跡が発掘されており、蘇我一族と馬との関係性はかなり深い。先ほど「蘇」を紹介しましたが、原料である乳を手に入れるためには、馬や牛が必要になります。大和王権内で、馬を管理していた蘇我氏だからこそ、神饌として蘇を献上することが出来たのでしょう。


 このような蘇我という一族の事績を振り返ります。蘇我稲目の功績は、その名前から推察されるように、全国に屯倉を設置したことと、その管理でした。屯倉は穀物倉で、大王の直轄地になります。この屯倉の設置から、大和王権の権勢拡大の推移を見ることが出来ます。継体天皇以前の大和王権の支配領域は、大和、播磨、筑紫しかなく、記録にある屯倉は15倉ほどしかありません。稲目が登場してからは、全国に50倉ほどの屯倉が新設されていきました。継体朝以前と以後では拡大のスピードが段違いなのです。


 ただ、これは稲目に拡大の力があったというよりも、元々が継体天皇の支配領域だったと考えます。淡海国の覇者であった彦坐王は、晩年は現在の岐阜県に相当する美濃国の開拓に乗り出しました。美濃国は淡海国に劣らず広い平野があり、彦坐王の子供たちによって支配領域が広がります。その系譜を引継いだのが継体天皇でした。淡海国、丹後国、越国、そして美濃国といった広範囲にわたり影響力を持っていた男大迹王ヲホドノオオキミが、宗教的な権威までも取り込んで大和の大王になるのです。想像以上の歴史的な大変革だったでしょう。しかし注目すべきは、その権威の拡大を「屯倉の設置」という実務に落とし込んだことです。これは大きな画期でした。


 それまでは宗教的な供養として各豪族から大和王権に供物が献上されていました。この供物を、蘇我稲目は税として徴収する仕組みに整えていくのです。稲目は、飛鳥で生活する東漢氏やまとのあやうじを筆頭とする渡来系の集団を従えていました。彼らの漢字を扱える能力を使い財務管理を行います。屯倉の管理は、穀物の歳出入だけではありません。田部を管理するために日本で初めての戸籍の作成も行いました。その実務能力の高さが伺えます。これら屯倉の責任者には、蘇我倉、忍海倉のように氏族の名に「倉」の字が付けられました。


 屯倉の管理についてご紹介しましたが、これは蘇我氏の特徴であって大臣としての主たる仕事ではありません。大臣は、新嘗祭を始めとする定期的に開催される祭祀を取り仕切りました。これら祭祀は、各地の豪族が大王に忠誠を誓う場であり、神人共食の宴会政治になります。この大臣の地位に最初に就いたのが武内宿禰でした。彼の息子とされる、羽田矢代宿禰、許勢小柄宿禰、蘇賀石河宿禰、平群木菟宿禰、紀角宿禰、葛城襲津彦は、それぞれが豪族の始祖となり、彼らの子供たちの多くが大臣の職に就き大和王権を支えたとされます。


 初期においては葛城氏の影響力が凄まじく、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇という4人の大王に娘を妃として捧げ、大臣の地位を欲しいままにしました。雄略天皇によって葛城氏が滅ぼされた後は、平群氏、巨勢氏が大臣の地位に就き、その後蘇我氏が台頭します。これら武内宿禰系の豪族たちは、大王家と婚姻関係が結べるほどに影響力があったにも関わらず、実はその系譜がはっきりしません。


 推古天皇32年、西暦624年に蘇我馬子は、推古天皇に葛城県の割譲を求めました。

「葛城県は元臣が本居なり。(中略)願わくは、常に其の県を得りて、臣が封県とせんと願う」

 しかし、推古天皇はこれを拒否します。ここで注目すべきは、「葛城県は元臣が本居なり」の言葉でした。馬子は、葛城が本貫地だと言っているのです。孫である蘇我蝦夷も、祖廟を葛城の高宮に建てており、蘇我氏と葛城氏との関係性を示していました。このことから、蘇我氏は葛城氏の分家であるという考察があります。


 そもそもこれら豪族は、武内宿禰の後継とされています。記紀の記録を信じるならば、武内宿禰は孝元天皇の三世孫でした。つまり、葛城氏や蘇我氏は細いながらも王族の系譜に連なっているのです。しかし、これは男系を辿っていけばという条件が付きます。これら豪族の系譜がはっきりしないのは、母親が分からないからでした。蘇我氏の系譜は残されていますが、以下のようになります。

 

 蘇賀石河→蘇我満智→蘇我韓子→蘇我高麗→蘇我稲目


 男系のみの系譜で、母親が示されておりません。蘇我稲目には、3人の息子と3人の娘がいました。堅塩媛、馬子、小姉君、石寸名、境部摩理勢、小祚になります。同じように、母親が誰かが分かりません。現代においてもそうですが、天皇は男子の継承が求められます。この「男系継承」という考え方はかなり中国的で、古墳時代以前にはなかったと推測します。


 以前にも述べましたが、日本人のルーツは3系統あると考えています。河北省から渡来してきた国津神系は出雲で国を成し、雲南省から渡来してきた天津神系は大和で国を成し、海洋民族である縄文系の海人族は丹後国や淡海国を興しました。このうち、王の男系継承にこだわるのが天津神の大和王権になります。卑弥呼の例を挙げるでもなく、古代の日本において女性が首長となる例は数多くありました。それは古墳から発掘される人骨から分かります。ところが古墳時代が始まると、女性の首長墓が無くなっていくのです。


 しかし、女性を中心にして一族をまとめるという概念は、それ以後も続きました。そのことが分かる風習が妻問婚になります。男性は好いた女性の家に通うことで子を成しますが、一緒には生活をしません。子供は、母親とその一族によって養われるのです。これが古代の家族観でした。この風習は平安時代まで続きます。現代のようにDNA検査が出来ないので、確かな血の継承を求めるのなら母とその子供の繋がりでしか判別が出来ません。もし父親を限定したいのなら、大王のように宮中に妻を囲い込む必要があるのです。この宮殿を造り物理的に他の男を寄せ付けない文化は、かなり中国的だと考えます。


 武内宿禰の後継とされる蘇我氏や葛城氏の母系を見ていくと、国津神系の出雲族や縄文系の和爾氏が見えてきます。記紀においては男系継承が大事にされますが、それは大和王権内の常識になります。古代における日本の常識は、女系継承が一般的でした。そのような考察の元、次回は蘇我一族について、もう少し掘り下げてみたいと思います。

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