記憶と動画「弥山川 双門コース」
奈良県弥山川「双門ルート」の登山から10日が経過しましたが、まだ膝が少し痛い。この痛みは、僕が山に登ってきた証拠であり、体が憶えている記憶でもあります。過酷だったんだな~と、他人事のように思ってみたり。登っている時も、ビバーグしている時も、
――この瞬間は、直ぐに過去になっていくんだな~。
と、ぼんやりと考えていました。そんなどうでも良いことが、僕は気になります。時間というものは、人間の記憶と深く結びついています。憶えていなければ、過去はありませんし、未来を考えることも出来ません。
僕は相場の世界で仕事をしていますが、相場というものは昨日の価格を基準にして、今日の価格が計られます。昨日100円だったものに需要が集まれば110円になるし、集まらなければ90円になります。昨日の価格が分からなければ、今日の価格を決めることが出来ません。同じようなことは、人間のDNAでも言えると思います。お父さんとお母さんがいたから、今の僕がいる。DNAは、情報であり過去の記憶でもあります。
僕は旅に出かけると写真を撮ります。高級なカメラは使いません。古くなったアンドロイドスマホでパチリ。一回の旅で、軽く100枚くらいは写真を撮ります。そうした写真の内から、「綺麗に撮れたな~」と感じたものを10枚くらいはインスタグラムにアップします。このような写真も過去の記憶になります。
今回の登山では新しい試みとして、動画を撮りました。動画を撮るためには三脚が必要だろうと思い、百均で定価500円のコンパクトな三脚を購入しました。安物ではありますが思いの外使い勝手が良い。地面や岩場に三脚で固定したスマホをセットして、僕が歩く様子を撮ります。動画というのは、撮り始めると一部始終を撮り続けます。僕が歩いていく様子は勿論のこと、僕がスマホを動画を回収するために戻ってくる様子まで全て記録されます。そんな行ったり来たりを繰り返していたので、通常よりも沢山歩きましたし、沢山の時間が消費されました。アップした「双門コース奮闘記」では、道に迷いまくって時間を消費して人生初のビバーグを体験したことをご紹介しましたが、時間を消費しすぎた原因には、この動画撮影という余計な行為もあったのです。そうした動画や写真を織り交ぜて、今回は更に新しい試みとして一本の動画を作成しました。その名も、
「弥山川 双門コース」
動画の編集には、Windows上で動くプログラム「AviUtl」を使いました。無料でありながら、かなり複雑な編集が出来る人気のソフトで、過去に何度か使用したことがあります。ただ、久々に触るので基本的な操作をすっかり忘れていました。一から勉強のやり直しです。ただ、この時に思ったのですが、記憶って忘れます。なんなら動画の編集は、情報の継ぎ接ぎ作業なので記憶の改ざんだったりします。つまり、記憶は後から手直しが出来るのです。
過去にあった出来事は確かに存在はしていますが、その記憶を掘り起こす段階で変化が生まれました。この変化は本人が意図していない場合もありますが、意識的に変化を加える場合もあります。意図していない変化とは、本人の思想性が大きく影響すると考えます。同じ過去を体験した二人でも、ポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかで、過去の抽出の仕方に変化が生まれます。
意識的に変化を加える例としては、古事記や日本書紀の史料批判があげられます。歴史書は勝者による歴史と表現されたりしますが、過去の事実といっても勝者側の目線でしか表現されていません。敗者から見ると、また違った世界が見えてくるでしょう。そうした意味では、「過去にあった事実」を正確に捉えるというのはかなり難しい作業なのだと思います。
「弥山川 双門コース」 の動画は三日ほどで完成しました。一泊二日の登山を、3分でまとめ上げたので、正確な事実ではありません。ですが、エッセンスは表現できたと思います。BGMは、以下の楽曲を使用しました。
「Lost Angels」
Sound Of Incense
オルゴールを使った楽曲で、子供の頃に野原を走り回った原風景を懐かしむような雰囲気がとても良かった。登山系のYouTube動画は、登山そのものを紹介するので30分から1時間と長尺になりがちです。僕の場合は、3分の楽曲に合わせたかったので、ミュージッククリップのようなテンポの良さを大事にしました。
――なかなかの作品になった。
と個人的には思うのですが、でも独りよがりです。っていうか、僕の文章も含めて僕は独りよがりが好きです。誰かと感覚を共有するというのは、非常に難しい。そんな動画ですが、これも人生初ですが、YouTubeにアップしてみました。ご興味のある方はどうぞ。
奈良大峰山系 弥山川双門コース
https://youtu.be/gVW5vJu4Ym4?si=73pOyuaeVpLfbLwQ




