古代史自説⑩淡海国と彦坐王
古事記と日本書紀は、大和王権の歴史について記されています。現在残されている最古の文献で非常に貴重なものですが、日本列島の歴史ではありません。あくまでも大和からみた歴史認識になります。なので、大和の支配領域から外れると、当時何があったのかは分かりません。東日本に関しては、縄文時代の生活がまだそのまま残されていたのだろうと推測されます。
東日本まで行かなくても、大和から見て北方にある琵琶湖を要した淡海国もその実態は案外と分かっていません。大和王権は主たる事業として、支配領域に水田を開梱し屯倉を設置していきました。その事績を辿っていくと、初期は奈良盆地から河内平野へ進出した後、瀬戸内を伝って播磨から北九州へと伸びていきます。第26代継体天皇の息子である第27代安閑天皇の時代になると屯倉の設置が加速して、九州から関東まで幅広く屯倉が設置されていきました。記述には、この時に淡海国にもやっと葦浦屯倉が設置されます。つまり、大和王権による淡海国への干渉は継体朝以降まで待たねばなりませんでした。
前方後円墳の建設時期を追いかけてみても、同じような現象が見られました。3世紀中葉に奈良盆地南東の纏向に箸墓古墳が築造された後、3世紀の後半から4世紀にかけて大和・纒向古墳群が、4世紀後半から5世紀前半にかけて佐紀盾列古墳群が、5世紀~6世紀にかけて百舌鳥・古市古墳群が集中するようにして築造されていきます。動きとしては、奈良盆地の南東付近を起点にして北に移動していくのですがそこで止まり、その後、西の大阪湾に面した河内へと拠点を移していきました。大和の支配領域は、北ではなくなぜ西に延びていったのでしょうか。
「須佐之男命と出雲」の章でも紹介しましたが、大陸との貿易の柱は鉄の原料の輸入でした。弥生時代に鍛冶技術が日本に伝播してきましたが、鉄の原料を産出する技術がありません。この鉄の原料は朝鮮半島の南に鉱山があり、日本海側に面している出雲国や、京丹後周辺を治めていた旦波国が貿易により独占していました。そのような理由から初期の大和王権は、海人族系の和爾氏と婚姻関係を結ぶことによって、鉄の原料を入手していたと推測します。和爾氏は奈良盆地の東北部を支配しており、この辺りは佐紀盾列古墳群と重なっていました。
ところが、大和王権は大陸と直接に貿易がしたい。その方途として、瀬戸内を利用した航海ルートの開拓に動きだします。屯倉の建設が播磨から北九州へと伸びていったのは、大陸との航路を確保するためだったのでしょう。このルートの確保に物部氏が活躍しました。物部氏は、貿易の窓口になる難波津を支配し、航海に関する部民を組織します。また、河内一帯に鉄に関係する産業を次々と興しました。柏原市にある鍛冶の大県郡条里遺跡の最盛期は5世紀であり、百舌鳥・古市古墳群が勃興した時期と重なっています。大和王権における、物部氏の影響力は相当に大きかったでしょう。ではその後、淡海国はどうなったのでしょうか。そのことを推し量るために、第10代崇神天皇の時代をもう一度振り返りたいと思います。
崇神天皇は、大災厄である疫病を収めた後、四道将軍を遣わして大和王権の影響力を全国に知らしめました。そうした将軍の一人に、山陰方面に進軍した丹波道主命がいます。ところが、これは日本書紀による記述で、古事記では日子坐王が派遣されたと記載されていました。日子坐王は、日本書紀では彦坐王と記されており、丹波道主命は彦坐王の息子になります。古事記と日本書紀で表記にブレがありますが、彦坐王が影響したことは間違いがない。古代史を語るうえで彦坐王は重要なキーパーソンでした。彼の経歴を振り返ってみたい。
彦坐王は、第9代開化天皇と和爾氏系の姥津媛との間に生まれた皇子で、崇神天皇とは腹違いの兄弟になります。記紀には、彼の事績に関する記録はほとんどなく、あるのは系図だけ。彦坐王には、4人の妃と15人の子供がいました。彦坐王は淡海国を治めていたのですが、これは彼の母が和爾氏だったからでしょう。現代とは違い多くの場合、子供は母親の里で育てられたようです。だから蘇我氏のように、外戚の発言力が強くなる事態に発展しました。
氏族名の「和邇」とは「鰐」に由来します。因幡の白兎の物語でも鰐が登場しますが、これは爬虫類のワニのことではありません。海のギャング「鮫」のことを指します。当時の世界観では、祖霊信仰によって氏族をまとめていました。大和であれば天照大神、出雲族であれば須佐之男命か大国主、物部氏であれば饒速日といった具合になります。ところが、和爾氏は「鰐」でした。これは祖霊信仰よりも更に古い、「鰐」をトーテムとしたアニミズム信仰を保った氏族だと考えられます。和爾氏は、丹後から北陸までの沿岸を支配していた海洋民族の一派だと推測され、航海技術を利用して淡海国を支配し、更に大津から奈良盆地北部にまで影響力を広げていったようです。和爾氏の後継は、その後、春日氏や小野氏、柿本氏を輩出しました。因みに、小野氏からは、小野妹子が誕生します。
ところで僕の推測になるのですが、和爾氏は縄文系の一族だったと考えています。古墳時代の勢力分布について、僕は三つに分けて考えていました。大和系、出雲系、縄文系になります。大和系は大陸の雲南省から渡ってきた天津神の氏族、出雲系は弥生時代から続く国津神の氏族、縄文系は日本海側に強い影響力を持った海洋民族になります。
このような和爾氏の流れをくむ彦坐王の子供たちは、大和王権に対して強い影響力を持つようになります。娘の沙本毘売命は、第11代垂仁天皇の皇后になりました。ところが、愛する兄の沙本毘古王と申し合わせて、大王殺害を企てます。しかし、失敗に終わり兄妹は燃え盛る稲城の中で自害するという悲話を残しました。この話には更に余談があり、火中で沙本毘売命は、大王の第一皇子である誉津別命を出産しました。この皇子は大王に溺愛され大切に育てられるのですが、30歳に成っても話をすることが出来ません。これは「出雲の祟り」だと解釈されるのです。詳細は割愛しますが、崇神天皇は、疫病による大災厄が出雲の神の祟りだとして大神神社を創建しました。大和王権がいかに出雲を恐れていたかが分かるエピソードになります。
彦坐王の息子である丹波道主命の娘三人は、同じく垂仁天皇に嫁ぎました。長女の日葉酢媛命は第12代景行天皇を産みます。息子の山代之大筒木真若王の子孫は息長氏を名乗り、その後、神功皇后が誕生します。彦坐王の支配領域はかなり広大で、淡海国や丹波国は勿論のこと、山代国、美濃国、若狭、伊勢、甲斐に影響力を持ち、大和王権とは対等以上の力があったのかもしれません。
古事記では、彦坐王は日子坐王と表記されました。太陽の子になります。腹違いの兄である崇神天皇は、出雲の神である大物主を崇める大王になりました。対して、事績は残されていませんが、彦坐王は太陽の子なのです。当時の世界観で言うと、天照大神の子供に相当します。実際の子供ではないにせよ、残された名前からかなりの影響力があったことが伺えます。
第25代武烈天皇が薨去した後、大王を継ぐ子弟がいませんでした。そこで白羽の矢が当たったのが、越前国や淡海国を治めていた男大迹王でした。後の第26代継体天皇になります。継体天皇から続く、第27代安閑天皇、第28代宣化天皇、第29代欽明天皇において、屯倉の建設が全国区で急速に展開されていきました。それもそのはずで、彦坐王が既に開いていた土地だったからです。この屯倉の設置に尽力したのが、蘇我稲目でした。
次回は、応神王朝を飛ばして蘇我氏について考察したい。聖徳太子の物語を描きたいが為に、僕は歴史を勉強してきました。これからがある意味本番になります。ただ、次のアップは少し時間が掛かると思います。山登りに行く予定なので。




