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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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古代史自説⑨大和王権の構造

 日本という国家のプライドに万世一系があります。神武天皇から現在の天皇まで、一貫して男系の一つの血統が続いているという考え方になります。この万世一系に対するこだわりは、現代においてもかなり根強く、次期天皇の誕生においても大きな縛りとなっていました。ただ古代史を勉強していくと、この万世一系に対する疑義をよく見かけます。


 有名な仮説に、水野祐氏による「三王朝交代説」がありました。三王朝交代説は、4世紀代の三輪山麓一帯を中心に栄えた第10代崇神天皇から14代仲哀天皇までを崇神王朝、5世紀代の河内を中心に栄えた第15代応神天皇から第25代武烈天皇までを応神王朝、そして6世紀初めの第26代継体天皇以降の政権を継体王朝と捉え、王朝は一続きではなく交代があったとする仮説になります。大胆な仮説ではありましたが、現在においては三王朝交代説をそのままに信じている研究者はいません。ただこの仮説を基にして更に多くの仮説が誕生したので、歴史史観に一石を投じた意味は大きかったようです。


 個人的には、崇神王朝から応神王朝への交代は無かったと考えます。奈良盆地から河内平野への移動は、単純に水田稲作の耕作地拡大のための移動だと考えます。初代神武天皇から第25代武烈天皇までの大王の居住地だとする宮を地図に書き込んでみました。するとほとんどの宮は平地ではなく山麓に建設されており、半分は桜井市や明日香村がある奈良盆地南東に集中しています。これの意味するところは、棚田による水田稲作を展開する為と考えました。


 河内への進出も水田稲作の拡大だと考えますが、河内は平地になります。これでは棚田を建設することが出来ません。河内にある百舌鳥古市古墳群は、大仙古墳や誉田御廟山古墳など前方後円墳が多数建設されていました。この辺りの古墳は周壕と呼ばれる堀が古墳を囲っています。これは、ため池としても利用した灌漑事業だったのではないでしょうか。初期の前方後円墳は、純粋に墓としての機能が求められました。ところが古墳建設の技術が灌漑事業に応用できることが認められてからは、水田を護るための古墳としても機能したのではないでしょうか。このことに関しては事実関係は分かりません。全くの憶測になります。


 また、この地域には数多くの古墳が建造され、且つ巨大でした。その理由に宗教的な権威の誇示があったと思いますが、他の理由も提示したい。それは物流と情報の集積地としての役割があったと考えるのです。この時代には通貨がありません。現代的な流通経済の代わりとして、宗教的な供養行為が流通を担っていました。大林組によると、大仙陵古墳の建造に、1日2,000人の労働力で約15年8ヶ月は掛かっただろうと試算されています。この2,000人の労働者は、大和王権の支配地域から広く集められ、長期間に渡って従事したのでしょう。人々が集められるのも供養、物資が集まるのも供養、宗教的な動機から河内に巨大な産業都市が形成されました。古墳の建造には、大陸由来の最新の技術が導入されています。そうした技術と情報を、諸国から集まった人々は自国に持ち変えることが出来ました。全国に16万基もの古墳が建造された背景には、宗教的な供養行為に対する見返りとして、最先端の技術と情報を自国に持ち帰ることが出来るという対価があったと考えます。


 応神王朝から継体王朝への交代は、継体天皇が応神天皇の五世の孫かどうかの解釈によると考えます。五世も離れれば、万世一系とはいえないと解釈するのであれば交代になりますが、当時は直系の大王候補がいません。何とかしなければならないのです。大王とは王の中の王になります。誰でも良いわけではありません。古代において、神の血脈を途絶えさせないという思想には大きな意味がありました。なぜなら、民衆はその血脈による神威や奇跡を信じていたからです。特に、前回に紹介した「祟り神」の脅威は、人々が最も畏怖するものとして機能しました。巨大な前方後円墳の建造にしても、民衆が神威を信じていなければ、あれだけの大事業を全国で展開することは出来ません。国家を運営するためには民衆を従えさせる権威が必要で、古代における権威とは宗教的な神だったのです。継体天皇は、そのような世界観の中で求められて登場しました。


 ここで当時の大和王権の国家運営を考察してみたい。昔は、大和朝廷と表現していましたが、現代では大和王権と表現します。朝廷は中央集権的な国家運営を意味しており、現代で言うところの中央政府が機能していることが条件と考えられるようになりました。具体的には、氏姓制度によって身分秩序を整備したり、国造制によって国が地方を直接統治し始めた7世紀以降を、大和朝廷と考えるようです。


 対して大和王権は、大王と諸豪族とが別々に国家統治を行っていました。大王は現人神であり、宗教的な権威があります。諸豪族は、この権威に従っていたのです。また、水田稲作においても棚田を利用したより効率的な技術を大和王権が保持していたと考えられ、より多くの米が生産できる能力も権威の一部として担保されていたのではないでしょうか。そのような権威を目に見える形で表現したのが前方後円墳であり、宗教的な祭祀を大和王権が担っていました。


 具体的な政治は、神人共食の宴会政治になります。諸豪族は、大王へ様々な食物を供養しました。それら供物は神饌として供えられますが、特に重要な供物が、米、餅、酒になります。どれも原料は米。中でも、酒のポジションが面白い。集まった豪族の王たちは、大王を中心にして酒を飲みますが、一定のルールがありました。盃は一つだけなのです。先ず、大王がその盃で酒を飲み、諸豪族たちが順番に回し飲みをしました。そのことによって契りの深さを確認し合ったのです。儀式が終わったら、そこから食事が始まりした。これを無礼講と言います。この習わしは現代にも受け継がれており、婚礼での三々九度や、ヤクザ社会での兄弟の契りなど、日本における酒は、仲間になることを確認し合う道具として機能してきました。


 このような神人共食の宴会政治を管掌した氏族に、阿部氏や膳氏カシワデウジがいます。宴会の運営だけでなく、若狭国を始めとする御食国の海産物を管理し供物として提供していました。また、推古天皇の和風諡号は豊御食炊屋姫尊トヨミケカシキヤヒメになりますが、この名前から神饌における巫女だったのではないかと考えています。また巫女といえば、天照大神が岩戸に隠れた際に天宇受賣命アメノウズメが躍りましたが、神饌においても巫女による歌や踊りが供養として披露されたのでしょう。


 大王は、政権にかかわる豪族の長に役職に応じたかばねを与えました。代表的なものが、おみむらじ伴造とものみやつこになります。臣は、大王を支える最高役職になり、各豪族からの供物を管理していたと考えられます。現代で言うところの財政担当ですね。他にも、先ほど紹介した神人共食の宴会政治も掌握していたのでしょう。古代においては大王と並ぶ立場にあり、大王と婚姻関係をむすんでいました。有名な豪族として、葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏、和爾氏、賀茂氏、吉備氏等がいます。


 連は、専門的な職能集団を率いていました。大伴氏は、来目部や靫負部といった大王を警護する親衛隊をまとめていたと考えられます。つまり軍事担当ですね。物部氏も同じように軍事担当でしたが、大伴氏とは違う特徴がありました。河内に弓矢を始めとする兵器工場を展開していたのです。柏原市にある大県郡条里遺跡は、古墳時代最大の鍛冶遺跡で、その影響力の大きさが伺えます。中臣氏と忌部氏は、共に神事・祭祀を司った豪族で、土師氏は土木系の技術集団で古墳の建造に関わりました。他にも伴造とものみやつこがあります。これらも職能集団なのですが、水田稲作や土師器の作成、機織りに塩づくり、占いや文章作成など数え上げたらキリがありません。割愛します。


 臣と連は、大王を補佐する左大臣・右大臣的な立場になります。ただ、そのルーツを辿ると明確な違いがありました。臣を担った豪族のルーツは、葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏は竹内宿禰系、和爾氏は海人族、賀茂氏は出雲族、吉備氏は皇別氏族とバラエティーに富んでいます。しかし、連は、大伴氏、中臣氏、忌部氏、土師氏は天孫降臨で神武天皇に付き従った天神系氏族でした。物部氏は饒速日命ニギハヤヒを祖とするので、若干毛色は違いますが、それでも天神系氏族になります。この明確な違いは何を意味するのでしょうか。


 まず、分かりやすい連から考察すると、天津神系は大陸から渡ってきた豪族になります。弥生時代には無かった大陸由来の技術を掌握しているという意味で、特別な専門性がありました。そうした専門性の中で、政権中枢で生き残ったのが、軍事と祭祀になります。軍事は純粋な力で他の豪族を従えることが出来ましたし、祭祀は思想的に他の豪族を従えることが出来ました。現代に置き換えると、軍事と法律に該当します。そのような特徴から、大和王権の歴史を通して、連は大王の右腕として安定した地位を保っていました。


 対する臣のバラエティーの多さは、連の反対と考えると分かりやすい。つまり、多くが土着の豪族だったのではないでしょか。和爾氏は海人族、賀茂氏は出雲族と出自がハッキリしていますが、竹内宿禰系が良く分かりません。竹内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣でした。それが真実なら、人間業ではない長寿を全うしたことになります。竹内宿禰は、古事記では建内宿禰と表記されており、人物というよりは宮廷で大王を支える役職だったとの考察もありました。そうであるならば、竹内宿禰系の豪族は、単純に大王を支えてきた豪族と解釈することが出来ます。


 ここで竹内宿禰系の豪族をもう一度並べてみましょう。葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏は、その支配領域が奈良盆地内にあり、大王家と婚姻関係を結んできましたが、その後没落したという共通項があります。大王に並ぶ臣という地位を任されたにも関わらず、結局のところ大王家に所領もろとも吸収されました。これは偶然ではないと思います。個々の事例を検証したわけではありませんが、拮抗する力が対立すればどちらかが倒れます。結局のところ、宗教的な権威を持つ大王家に分があったということでしょう。


 大和王権は、豪族連合でした。様々な豪族が大和王権を支えてきましたが、次回はその豪族の関係性について考察してみたいと思います。

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