古代史自説⑤文字と原罪
約7300年前に起こった鬼界カルデラ大噴火の影響は、現代において面白い考察のネタになっていました。被災した縄文人の一部が、海に脱出して西へ西へと向かい、東アジアを越えて、インドを越えて、チグリス川とユーフラテス川がペルシャ湾に流れ込む西アジア地域に辿り着き、シュメール文明を起こした……かもしれないというのです。楔形文字で有名なシュメール文明は、人類最初期の都市国家でした。時間軸では、鬼界カルデラ大噴火の約1,800年後にシュメール文明が起こります。本当ならかなり面白い。ただ、あまりにもぶっ飛びすぎた仮説なので、僕は信じることが出来ません。ここで文字の誕生について考えてみたい。
私たち人間は、言葉を使って他者と情報を交換します。この言葉はホモサピエンスと近縁であるネアンデルタール人も使っていたと考えられます。また情報交換という意味では、海を泳ぐイルカや空を飛ぶ鳥だって鳴き声でコミュニケーションを取っていますし、昆虫にしても独自の情報伝達の方法を持っています。ただ、これらコミュニケーションには大きな制限がありました。それは対面でないと情報が伝えられないということです。同じ情報交換であっても文字を使用すれば、その制限がなくなりました。
例えば、「手紙を書く」という行為について考えてみます。遠方に情報を届けることが出来る手紙は、空間を移動して情報を届けることが出来るし、同じように未来への一方通行ですが時間を超えることも出来ました。前回にもご紹介したように、「時間」という概念は農耕文化が始まらなければ得ることが出来ません。何故なら必要が無いからです。新しい概念の獲得は、環境の変化によって困難が生じ、その解決方法を迫られるという外的な要因が必要でした。ただ、時間という概念を獲得できたとしても「文字」の誕生には至りません。次に必要な環境的な変化は、人口の圧倒的な増加でした。
今から約5,500年前に起こったとされるシュメール文明は、チグリス川とユーフラテス川がもたらす肥沃な大地に誕生しました。農耕の萌芽は1万年前にその痕跡が見つかっていますが、農耕を主体にした国家の誕生にはその後4,000年もの時間が必要だったことになります。農耕文化は、多くの人々を農作業に従事させる必要がありますが、これはヒエラルキー的な階層の社会の誕生でした。国家を運営するためには、収穫される穀物を管理する行政組織を編成しなければなりません。また他国との戦争においては、軍を編成して兵士を戦場に向かわせなければなりませんが、その際に重要なのが兵站でした。
国家において統治者の最も重要な仕事は、様々な問題を解決するための決裁になります。その際、現場から上がってくる様々な情報を正確に把握する必要がありました。麦の収量や在庫量、兵士の規模やそれに伴う出費、そうした情報を管理するために文字が誕生したと考えます。つまり、「文字」とは国家という肥大化したコミュニティーを運営する上で、統治者と現場とが情報を交換するための道具だったのです。人間の身体と比較すると、手足を動かすために神経を使って意志を伝達しています。国家の運営にも、このような情報伝達のための道具が必要でした。現代においては、その伝達スピードがネット回線により、異常に速くなっています。話が逸れるので、これ以上は踏み込みませんが、この変化によって世界は大きく変化しました。
初期の文字は表意文字で、文字というよりもイラストでした。文字の種類も1200から1500種類ほどあったようで、目に見える様々なものを絵で表現していたのです。そうしたイラストが段々と簡素化され楔形文字へと変化していきました。この行政上の道具だった文字によって、世界最古の文学作品が誕生します。それが楔形文字で粘土版に記された「ギルガメシュ叙事詩」でした。王国誕生までの繰り返さる覇権争いや、旧約聖書に記される大洪水と酷似した記録まで残されていたのです。
対して、日本列島で一万年も続いた縄文時代の生活スタイルは狩猟採取でした。氷河期の寒さに耐えないといけない時期もありましたが、戦争がなくとても平和だったのです。このような環境下では、文字は必要ありません。一部のとんでも考察には、シュメール人が「宇宙人だから」というものがありました。日本人はその末裔で、DNAにみられるヤップ遺伝子は宇宙人の痕跡だというのです。文字の誕生にしても、この宇宙人からもたらされたもので、発祥は日本だとか……。
確かに、日本列島には、神代文字と呼ばれる未解明の文字が存在しています。勉強不足の僕ですが、これらの神代文字はどうも50音に相当するようです。つまり表音文字。文字の誕生は、イラストから始まりました。これらの文字は表意文字と呼ばれ、文字それぞれに意味を含みます。漢字も表意文字になります。表意文字は、基本がイラストなので意味が理解しやすいのですが、文字数が多くなるという欠点がありました。これを改良したのが、万葉仮名から始まった平仮名になります。これは表音文字といって、文字そのものに意味を含みません。音だけを表します。このことで、文字を50文字に減らすことが出来ました。これは画期的な変化なのです。ここで注目したいのは、誕生の順番でした。先ず表意文字が誕生してから、表音文字が作られます。その逆はありません。縄文時代には、表意文字の痕跡が見られません。個人的には、神代文字は、平仮名やカタカナといった表音文字が作られる過程で誕生した亜種だと考えています。結論として、日本列島で文字は誕生しなかった。縄文時代とは、それだけ平和だったということです。
鬼界カルデラ大噴火の前後で、日本列島では縄文人の生活に変化が現れました。狩猟採取で生活する縄文人は移動しながら生活をしていたのですが、噴火以前の縄文時代早期から定住の痕跡がみられるようになります。この頃の住居は主に岩陰や洞窟でした。ところが、噴火以後の縄文時代前期になると、同じ定住でも竪穴式住居が現れるのです。
シュメール文明の誕生よりも少し早い約5,900年前に、青森に巨大な集落が誕生しました。三内丸山遺跡になります。有名な六本柱建物跡をはじめとして、大型の竪穴建物跡も見つかっており、これまでの縄文人とは明らかに違う生活スタイルでした。また注目すべきは、作物を栽培していたことです。堅果類であるクリやクルミ、一年草のエゴマやヒョウタン、それにゴボウやマメなどが遺跡から出土していました。
狩猟採取だけに頼らない、定住する新しい縄文人の痕跡は他にもあります。新潟県にある馬高遺跡からは、有名な火焔型土器が出土しました。近くを流れる信濃川を遡っていくと長野県に至りますが、棚畑遺跡では縄文のビーナスが出土しています。これらの遺跡は今から5,000年前で、時代区分では縄文時代中期になります。気候は温暖で海面は現代よりも3メートルも高かったそうで、これを縄文海進と呼びます。沿岸部には入り江が形成され、好漁場が増えました。海産物の入手が容易になり、生活が豊かになったことで人口が増加します。この頃の列島の人口は約26万人と考えられており、このような社会的な背景が縄文人にゆとりを与えました。火焔型土器や縄文のビーナスといった芸術的な創作活動は、この豊かさによってもたらされたのです。縄文時代中期は、現代の私たちがイメージする最も縄文らしい文化が栄えた時期でした。
縄文時代後期に入ると、今度は気温が寒冷化に向かい海面の水位が下がりました。これを弥生海退と呼びます。青森で収穫されていた栗が育たなくなり、栄えていた集落が衰退していきました。弥生時代が始まる直前、今から3,000年前の縄文時代晩期の人口は約7万人ほどまでに減少したようです。このような時代背景の中で、水田稲作の弥生時代が始まりました。場所は青森や長野から遠く離れた北九州地域になります。
佐賀県にある吉野ヶ里遺跡は、紀元前8世紀ごろに誕生した有名な弥生時代の集落になります。集落は縄文時代には無い環濠集落という特徴がありました。集落の周りに堀を巡らし、それに沿うようにして防護壁を設けたのです。水田稲作は日本には無かった文化ですが、この環濠集落も日本にはない大陸由来の文化でした。僕が住む大阪の周辺にも、安満遺跡、池上・曽根遺跡、奈良県の唐古・鍵遺跡といった弥生時代の遺跡がありますが、どれも環濠集落になります。
魏志倭人伝によると倭国大乱との記述があり、弥生時代は戦争が繰り返された時代だったようです。この戦争に、水田稲作は間接的に影響していました。7万人に減少した縄文人でしたが、弥生時代の水田稲作によって59万人にまで人口が増加します。このことによって、日本列島にも、ヒエラルキーな階層社会が誕生し、富の奪い合いが始まりました。
縄文時代は、循環型社会になります。文化的に大きな発展はありませんでしたが、この世界と調和を保って生活をしていました。対して、農耕文化は消費型社会になります。この世界を切り崩して消費するスタイルは、食料の生産性を促進しそれによって人口が増加しました。ただこのことによって、富の奪い合いも引き起こしたのです。これはとても示唆的でした。ここでもう一度、旧約聖書のアダムとイヴのエピソードを考察します。知恵の実を食べた二人は楽園を追放されました。これを原罪と呼びます。
――なぜ、「罪」なのでしょうか?
二人の間には二人の息子が誕生しました。カインとアベルになります。兄のカインは農耕を営み、弟のアベルは羊を飼いました。兄弟が神に捧げ物をした際、神がアベルの供物だけを受け入れたことに嫉妬したカインが、アベルを殺害します。殺害の直接の動機は「嫉妬」ですが、嫉妬を生み出す根本的な概念は「所有」だと考えます。
楽園である縄文時代は、神と人間が未分化でした。死と誕生を通じて交互に行き来するもので、その媒介物として山岳信仰がありました。楽園においては「所有」という概念は無く、食物は多くても少なくても平等に分けられます。この皆で同じ思いを共有することに価値がありました。農耕社会によって生まれた「所有」という概念は、共有とは真反対の概念で分断を招きます。その究極の姿は個人主義で、現代に通じていました。つまり「原罪」とは、神と人間との分断を意味し、その象徴的な行為が「所有」だと考えます。
弥生時代は、水田稲作の文化だけでなく、このような新しい概念も大陸からもたらされました。現代に生きる私たち日本人は、縄文時代から続く単一民族のようにイメージしがちです。YハプログループのD遺伝子やヤップ遺伝子を、日本ブランドの象徴のように取り上げる言説も良く見られました。ところが弥生時代は、YハプログループO遺伝子を持った大陸由来の人々によって作られた時代だったのです。一般的に、日本列島に古くから存在する人々を縄文人、大陸からやって来た人々を弥生人と呼びました。見た目も違っていて、縄文人は二重で彫が深く、弥生人は一重でのっぺりとした顔つきになります。では、この弥生文化を日本にもたらした重要人物は誰でしょうか。僕はその代表格が、須佐之男命だと考えます。




