共産化する大和王権
先日、YouTubeを開くとおすすめに「出雲と大和『大和―ヤマト王権成立前夜―』」というタイトルの動画が表示されました。丁度、古墳に関する書籍を読んでいたところなので、何気にクリック。これがめっぽう面白かった。東京で行われたセミナーで、5年前と最近の内容が講師別に何本もあります。中には講師たちがディスカッションをしている動画もあり、5時間くらい延々とパソコンに張り付きました。あまりにも情報が多かったので、まだ処理しきれていません。
博物館に行くと、古墳から採取された土器や埴輪、銅鏡や銅剣、石棺や副葬品が展示されています。古代を感じるだけならそれでよいのですが、それでは大した情報がありません。価値ある情報にするには、遺物を比較することが重要になります。現在読んでいる清家章著書「埋葬からみた古墳時代」も、各地の古墳から出土された人骨を比較していました。そうすることで、時代の移り変わりや、イレギュラーがなぜ起こったかの推測を導き出すことが出来ます。
「出雲と大和『大和―ヤマト王権成立前夜―』」という動画は、古代史の先生たちによる最新の情報でした。まるで大学で授業を受けているみたいで、僕の知的好奇心が刺激されまくり。視聴から時間がたち、多くの細かな情報を忘れてしまいましたが、要点をここで言語化しておきます。
――古代史とは、人間がコミュニティを運営するためのアルゴリズムの変遷。
並行してユヴァル・ノア・ハラリ著作「ホモ・デウス」も読んでいるので、ちょっと格好良くアルゴリズムという言葉を使ってみました。古代のコミュニティーをマネジメントするために、アイドルである神が想像されました。同じ神を信奉することで、組織的結束が生まれます。しかし、精神的な結束力だけでは仕事は出来ません。具体的に仕事内容を明らかにする必要がありました。それが、アルゴリズムです。アルゴリズムとは、解を正しく求めるための手順のことになります。
狩猟採取時代と農耕時代の大きな違いは、参画する人間の数の多さでした。狩猟採取時代は、家族という血縁関係で小さなコミュニティをマネジメントしています。これが農耕社会になると、多くの人々を農業に従事させる必要がありました。その内容も一年という時間的概念をコミュニティ内で共有し、田植えから稲刈りまでのアルゴリズムを徹底させる必要があるのです。それ以外にも、土器や青銅器の制作、更には古墳の建造にも駆り出さないといけません。首長のマネジメント能力は、狩猟採取時代の比ではありませんでした。
動画の中で特徴的だったのは、弥生時代は共和制で、古墳時代は王制との表現でした。神に対する祭祀も、銅鐸や銅剣を使った青銅祭祀から、古墳や埴輪を使った古墳祭祀へと変化していきます。どうして強大な古墳が必要だったかというと、より多くの人々をマネジメントするためには、より強力な神を創出する必要があったからです。
ここからは僕の推測になりますが、古墳時代におけるピークは応神天皇や仁徳天皇の時代になります。世界最大の大仙古墳が示す通り、大和王権が最高潮に盛り上がった時代でした。ところが第21代雄略天皇から第25代武烈天皇まで後継者争いが始まりまり、皇子が次々と殺されていきます。これは宗教的な権威に頼りすぎた国家運営の限界だったのでしょう。
そうした古墳時代にも変化が訪れます。それが継体天皇の息子である第29代欽明天皇の時代でした。時代は6世紀、欽明天皇は聖徳太子のお爺ちゃんの時代になります。この欽明期という大和王権で活躍したのが、蘇我稲目大臣と物部尾輿大連でした。大伴氏や葛城氏といった有力豪族がいたにも関わらず、この両者が抜きんでたのは、ミヤケと部民を管理することが出来たからです。これは注目に値します。
共和制、王制と変化してきた大和王権ですが、欽明期の政治を一言で表すと神を中心にした共産制だと考えます。宗教的な権威と共産的なアルゴリズムが絶妙に合体しました。氏子である人々を、米の生産、土器の制作、酒の醸造、武器の制作、宮殿の警護、ミヤケの管理といった仕事に専属で従事させるのです。その対価として、食料を分配しました。ここにお金といった媒介はありません。社会構造だけをみたら、これはまさに共産制です。
しかし、この共産的に成長した大和王権にも歪みが生じます。それは、蘇我馬子の存在でした。丁未の乱を経た大和王権内において、蘇我馬子は天皇以上の存在感を示します。聖徳太子は、叔父である馬子に対してどのような想いを抱いていたのでしょうか。色々と想像が膨らみます。




