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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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古代の埋葬ー男尊女卑というイデオロギー

 お盆になると、先祖を供養する風習が日本にはあります。子供の頃は父親に連れられてお墓参りに行きました。僕が父親になってからも、息子たちを連れて墓参りに行っていましたが、近年はお盆の墓参りはしていません。昨年はスーパーカブに載って出雲大社まで二泊三日の野宿旅行に行きました。親不孝な僕ですが、お盆という長期の休みは貴重なのです。


 ところで、人が亡くなると墓に埋葬するという風習は古代からみられました。墓の形態は様々で、縄文時代であれば村の集落の中心部に埋める例もあるし、海岸にある洞窟に埋納する場合もありました。お墓の建造が最も隆盛を極めたのが古墳時代になります。以前に、前方後円墳の形について言及したことがありました。出雲のとある研究サイトからの拝借なのですが、円墳と方墳が合体したのではなく、円墳と二等辺三角形が合体した姿が前方後円墳だと。円墳は女性を示しており、尖がった二等辺三角形は男性。つまり男女の交合を表しているのではないかと……。男か女かはともかく、円墳と方墳が合体したのが前方後円墳なのは間違いありません。この合体には意味があったと考えます。


 実は弥生時代にも古墳は存在しており、形状は方墳が中心でした。古墳時代の始まりは、前方後円墳の建造が始まった3世紀からというのが一般的です。僕なりの解釈になるのですが、記紀の「国譲り」とは大和王権が出雲王権を取り込んだ神話になります。この大和と出雲が合体した姿が前方後円墳なのではないでしょうか。方墳が出雲系で、円墳が大和系、二つを合わせて前方後円墳……なのかもしれない。


 そうした古墳は、時の権力者である王の為に建設されたと考えられていました。例えば、大仙古墳であれば仁徳天皇になります。ところが、古墳を発掘し調査していくと、そんな単純な図式ではないようです。最近読み始めた本があります。清家章著作「埋葬からみた古墳時代」。まだ半分しか読めていないのですが、古墳時代前期の特徴をいくつかご紹介します。


 ①古墳には複数の埋納者がいる。個々に棺桶が用意されていたり、同じ棺桶に複数人が収められている場合もある。また、棺桶が設置される玄室ではなく、別の場所に埋納されている場合もある。


 ②複数の埋納者の関係性は、親子・キョウダイという血縁関係に限られる。


 ③初葬者は首長と考えられ、男女を問わない。古墳前期から中期においての男女比は1対1。中期からは、女性が首長だと考えられる古墳は見られなくなる。


 ④夫婦の合葬は後期になってから。しかも数例しかない。配偶者が亡くなった場合、原則は自分の国に戻され埋納されたと推測される。


 先ず、一つの古墳に複数の埋納者が存在していることが驚きでした。僕の家のお墓にも祖父母や両親が埋納されているので、感覚的には理解できます。ですが、古墳に関しては大王の為の墳墓というイメージがありました。古墳がドンドンと大きくなっていくのも大王の権威を見せつけるため、との説明をよく見かけます。しかし、複数の埋納者がいるとなると、少し捉え方が変わりました。家族という関係性が加味されるからです。生活する家も、小さいよりも大きい方が快適です。黄泉の国での生活空間をより快適なものにしたい……と考えていたのでしょうか。


 現代と古代では、家族に対する捉え方が違いました。現代的な家族は、夫婦を核に考えます。古代において、より重要なのは血縁関係でした。配偶者は家族の協力者ではあるけれど、血が違うのであれば家族には組み入れません。死後においても、家族とは考えない。ただ、古代は母親が違えば、兄妹婚は頻繁になされていました。血縁関係に対する執着の強さを感じます。


 そう言えば、古代においては妻問婚が一般的でした。男性は好きな女性の家に通いますが、一緒に生活をしません。やることをやったら、朝には妻の元を去りました。極論を言うと、種付け行為だけが欲しいのです。古代の家族観は、子供を産むことができる女性を中心に考えられていました。一族の財産にしても娘に譲渡されます。この家族の捉え方が、古墳にも反映されていました。


 古墳時代中期になると、女性が首長と考えられる古墳がなくなり男性のみに変わっていきます。この理由は、大きく二つ考えられました。一つは、前回の三角縁神獣鏡でも紹介した道教の影響になります。男尊女卑の思想から、女性が首長に成ることが制限されました。二つには、戦争です。高句麗にある広開土王碑には、4世紀後半に倭国が半島に攻め入った様子が記されていました。列島内でも各地で戦争があります。戦争は、男だけが武器を持ちました。そうした戦争が、一族の父系化を強く促していったのでしょう。


 僕が注目するのは、3世紀の古墳時代中期までは男女の差別がなく、4世紀から父系社会が強くなっていった事実です。この様子は、記紀からは読み取れません。記紀はあくまでも大和王権の歴史であり、日本全体の歴史ではないのです。機内には、数多くの部族が存在していました。最終的に大和王権が覇者になったわけですが、その過程で日本古来の価値観を保持した部族は消えていくのです。そんな様子を、この本を読みながら感じました。


 少し話が脱線するのですが、西暦600年に第一回遣隋使が海を渡りました。この記録は日本書紀にはありません。隋の記録によると、倭王はアメノタラシヒコで男性になっています。しかし、この時の大王は推古天皇であり女性でした。この食い違いについて様々な論説があります。僕なりには、男尊女卑の隋に対して、倭王が女性であると言えなかった……と考えています。隋の王と会見するとき、倭の要人が直接に対応することはありません。間に通訳が必要になります。通訳は中国通であり、なんとしても外交を成功させなければなりません。そうしたプレッシャーの中、大王が男であると方便を使ったのではないでしょうか。


 古代の日本において、女性の地位や立場が次第に貶められていく様子は、聖徳太子の物語を書く上で重要な要素になります。父系社会であった大和王権において推古天皇を擁立できたのは、蘇我馬子だから可能だったと考えます。なぜなら、蘇我馬子は古代の日本のイデオロギーを保持していたから。ガチガチの大和王権の考え方では、女性を大王に擁立するという柔軟な対応は出来なかったでしょう。


 古墳の話はまだ続きます。次回は「夫婦の合葬」について言及してみたい。

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