鳥取氏と捕鳥部万
奈良と大阪を行き来する場合、生駒山を越えなければなりません。生駒山の南端には大和川が流れており、渓谷を成しています。その天然の関所を護るようにして柏原市がありました。柏原市には大小多くの古墳が確認されていますが、南隣の羽曳野市のように皇室関係の巨大古墳が無いのであまり知られてはいません。
続日本紀によると、養老4年(720)11月27日に「河内の国の堅下郡と堅上郡を合併して大縣郡という名称にした」と書かれています。それ以来、柏原市の北部地域を占める生駒山脈の南端は、大県郡と呼ばれてきました。柏原市の遺跡は古墳だけではありません。古代の鍛冶の遺構が数多く集積しています。これを大県遺跡と呼びました。
以前に古代史のセミナーに参加した時に、この大県遺跡に関して学んだことがあります。4世紀ごろまでは大阪の各地に分布していた鍛冶の遺構が、5世紀後半になるとこの大県に集約されていきました。その動きを先導したのが物部の一族だったのは間違いないでしょう。物部は大県を含む河内一帯を支配していました。豪族である物部一族の特徴は、鉄器と兵器の製造になります。現在の八尾市周辺は弓矢を生産する一大拠点だったわけですが、その矢の先端に取り付ける鏃は鉄を鋳造して作ります。その鍛冶場として、大県遺跡は発展したのでしょう。物部は朝鮮半島の百済と関係が深かったようで、交易によって鉄の原料を輸入していました。現代ではこの大県で鍛冶は行われていませんが、そうした鍛冶の痕跡が残されている場所があります。
大県郡東端の堅上の山間部には、金山彦神社と金山媛神社がありました。祭神の金山比古神と金山比売神は共に鍛冶の神様になります。古事記によると神産みにおいてイザナミは、火の神であるカグツチを産んだ事により火傷で苦しみ亡くなりました。その苦しんでいる最中に嘔吐した吐しゃ物から化生した神が、金山比古と金山比売になります。金山比古と金山比売を祭る神社は全国各地にあり、多くが鍛冶や鉱山に関係しています。
柏原市にある金山彦神社と金山媛神社に、スーパーカブを走らせて行ってきました。金山彦神社は新緑に包まれた小さな社で、小さな池の傍にあります。鳥居の近くには神社の略記が掲げられていました。内容は事前に調べた情報と大差はなかったのですが、応神河内王朝との表記を見つけます。奈良の大和王朝から独立した応神河内王朝の存在を唱える論説があることは知っていましたが、河内の大和に対する対抗心を感じれて面白かった。
余談ですが、聖徳太子の晩年はこの柏原市の南にある太子町と縁が深い。太子町は三方が山に囲まれており、奈良の明日香村と良く似た土地柄で、難波から見た呼称として近つ飛鳥と呼ばれていました。この近つ飛鳥には、聖徳太子の御廟だけでなく、用明天皇、推古天皇、敏達天皇の前方後円墳と小野妹子の墓があります。応神河内王朝の存在は信じていませんが、河内と飛鳥の力関係的なシーソーゲームはあったのではないでしょうか。聖徳太子が薨去されてからの奈良の遠つ飛鳥は、蘇我馬子の影響力が強くなっていきます。聖徳太子と蘇我馬子の対立は今後小説を書く上で意識しなければならないテーマですが、感情的な確執や、利害関係といった矮小化した摩擦にはしたくない。已むにやまれず已まれず……といった苦渋の決断でなければドラマにならないからです。まだ、イメージは出来ていませんが。
堅上の西隣の高井田には、天湯川田神社と宿奈川田神社があります。それぞれの祭神は、天湯河板挙と少名毘古那になります。そのうち僕が注目するのは天湯河板挙を祀る天湯川田神社でした。天湯河板挙という人物を紹介するために、ここで記紀のエピソードを紹介したいと思います。
第11代垂仁天皇の最初の皇后は、従妹である狭穂姫命になります。彼女には、狭穂彦王という兄がいたのですが、二人は兄妹でありながら愛し合っていました。ある時、狭穂彦王は妹の狭穂姫命に問いかけます。
「お前は夫と私、どちらが愛おしいか?」
彼女は「兄が愛おしい」と答えます。すると兄は、妹に短刀を手渡し、天皇を暗殺するように命じました。短刀を受け取った狭穂姫命に暗殺のチャンスがやってきます。大王は狭穂姫命の膝枕で寝ていました。今なら殺すことが出来ます。でも、出来ませんでした。泣いている狭穂姫命に、大王が質します。彼女は真相を話しました。狭穂姫命の反逆に驚いたものの、大王は彼女を深く愛していました。更には、彼女は大王の子供を身ごもっていたのです。ところが、監視の目を掻い潜って狭穂姫命は兄の元へ戻ってしまいました。
大王はすぐさま狭穂彦王の討伐軍を編成します。反逆した狭穂彦王は劣勢に立たされ屋敷に火を掛けられました。火が燃え盛る中、狭穂姫命が皇子を出産します。子供は道連れに出来ないと考えた狭穂姫命は、皇子だけは大王の元に返すことを伝えました。大王は皇子と一緒に狭穂姫命も助け出そうとしましたが、狭穂姫命は断ります。そのまま焼け死んでしまいました。この時に誕生した皇子が、誉津別命になります。
誉津別皇子は、三十歳になって鬚も生えているというのに、物が言えず幼子のように泣いてばかりいました。ところが白鳥を見た時に、「あれは何だ?」と言葉を発したのです。皇子を溺愛していた大王は、あの白鳥を捕ってくることを天湯河板挙に命じました。天湯河板挙は、白鳥を追いかけて因幡の国、現在の鳥取県まで旅をします。一月後に、見事その白鳥を大王に献上しました。その功績から姓を与えられ、彼は「鳥取造」と名乗るようになります。これが鳥取部の誕生でした。
長い引用になりましたが天湯川田神社には、この天湯河板挙が祀られています。古来から高井田は鳥取部の支配地域で、鳥坂寺もありました。ここで注目したいのは姓である鳥取は、エピソードにもあるように白鳥を捕ってきたことによる褒章であって、鳥を捕獲する部民ではなかったかもしれないということです。多くの部民は、その職能によって姓が授けられていました。例えば、弓削部や矢作部ならそれぞれ、弓を作り矢を作ります。民俗学者の谷川健一氏によれば、鳥取部は鍛冶の集団だったと考えていました。大県遺跡は鍛冶の里です。鳥取部が、鍛冶集団だったとしても不思議ではありません。ただ、それとは別に気が付いたことがありました。
聖徳太子の物語を考えるうえで主要人物である捕鳥部万を、僕は調べていました。彼は、物部守屋の配下であり弓の名手になります。日本書紀においてその武勇を語られた人物なのですが、名前から狩人だと思い込んでいました。狩人は山に入るので山岳信仰を信奉していたのではないかと当たりを付け、これまでに縄文時代と山岳信仰の関係性を調べてきました。そのことで飛鳥時代には、仏教と神道と縄文思想の三層の思想的レイヤーがあることに気づいたのです。捕鳥部万を縄文時代を源流とする山岳信仰の山の民と位置付けて、手始めに神道の代表である物部一族と衝突させて、思想的な違いを表現してみてはどうか……とアイデアを温めていました。ところが、捕鳥部と鳥取部が漢字違いの同じ姓かもしれないことが、ここで判明したのです。
――あら?
ご都合主義で、捕鳥部万だけは縄文思想を体現した山の民でも良いのですが、ちょっとしっくりきません。そんな折、本を読んでいると谷川健一氏が次のような指摘を紹介していました。高井田の名前の由来は「竹原井」で、更には「鷹原井」だったのではないかというのです。また大県郡には高尾山があるのですが、これも「鷹巣山」だった可能性があるというのです。鳥取部の名前の由来が先ほどの記紀のエピソードに準じていたとしても、それ以前に土地と鷹は縁があったわけです。そう考えると、捕鳥部万だけ漢字が違うという秘密に迫ることが出来るかもしれません。
文献は忘れましたが、水田稲作を行っていた人々は、稲が実るのは山から神が降りてくるからだと信じていました。だから、神の住居である山の中に入っていって動物を狩ることはしません。また、狩りによる血の穢れを特に嫌いました。なので、狩りは山の民に任せていたようなのです。つまり、山の民と里の民は相互に経済的な交換が行われていたことになります。そう考えると、鳥取部から捕鳥部万だけ独立させて活躍させる場面を作っても祖語は生じない……様な気がする。
ただ、鳥取氏にはもうひとつの伝承がありました。大阪の南に位置する岸和田市に波多神社があるのですが、ここの主祭神は鳥取氏の祖と伝えられる角凝命でした。これ以上の詳しい来歴は無いのですが、この地域に捕鳥部万は関係しているのです。
丁未の乱において物部守屋が討たれた後、捕鳥部万はこの波多神社の周辺に逃げていきました。何故なら、ここに妻がいたからです。その後、蘇我馬子の討伐軍に追いかけられ自害したのもこの辺りになります。つまり、捕鳥部万の出身地はこの岸和田の周辺だったのです。柏原市の鳥取氏と、岸和田市の鳥取氏、いったいどのような関係だったのでしょうか。この辺りにドラマを作る要素がありそうです。




