中宮寺の菩薩半跏像
奈良国立博物館で開催されている「超 国宝―祈りのかがやき―」展に行ってきました。なんと二回目。同じ展示会をリピするなんて人生初めてです。4月に開催されて直ぐに足を運んでいたのですが、あの時は中宮寺で所蔵されている菩薩半思惟跏像は後期に出展される予定だったので見ることが叶いませんでした。見るだけなら、斑鳩の里にある中宮寺に足を運べば良いわけですが、展示会ならグルリ360度間近で見ることが出来ます。あの真っ白な丸い空間で展示されている菩薩半跏像を拝顔したかった。
いつものごとく、奈良までスーパーカブで行きました。大阪から生駒を越えて奈良に入り、平城京の赤い朱雀門を横目に東に向かいます。奈良県庁と興福寺に挟まれた大通りを抜けると、そこが奈良国立博物館。いつものごとく鹿がわんさかといます。その鹿に、海外の観光客が絡みまくり。当の博物館は、平日の朝9時過ぎにも関わらず、4月の時よりも人が多かった。長蛇の列。ここ奈良国立博物館は正倉院展をはじめとして、何度か足を運んできました。スーパーカブをそのまま乗り入れて、無料で駐車できるのでとても助かります。
「超 国宝―祈りのかがやき―」展の最初の目玉は、法隆寺所蔵の観音菩薩立像になります。通称は百済観音。真っ黒な展示室で見学者を最初に出迎えてくれます。高さが210.9cmもある仏像で、ユラユラ~と立っています。奈良・平安時代の仏像ってどこか定型化されていて記号の様な硬質さを感じるのですが、この百済観音はどこか生きている様なリアルさを感じます。幽玄の世界からこの現実世界に次元の狭間を通じてやってきたような儚さがあり、喜怒哀楽を押し殺した落ち着きがあります。左手に首長の小さな花瓶を持っているのですが、その手つきがどこか艶めかしくて色っぽい。多くの人で会場が賑わっているはずなのですが、百済観音の周りだけとても静か。みな押し黙っています。雷神のように目力で黙らせるというのでなく、その存在感から黙らざるを得ない。百済観音にはそうした空気感がありました。
二回目の来館なので、一度は目にしたものばかりなのですが、伊藤若冲の動物綵絵「雪中鴛鴦図」と「大鶏雌雄図」は眼福でした。計算された構図、今にも動き出しそうな躍動感、艶やかな色彩。じっくりと堪能させていただきました。でも、今回の最大の目的は中宮寺の菩薩半跏像(伝如意輪観音)。会場の最後のブースで展示されています。一目散に向かいました。
とても考えられた展示方法でした。百済観音の真っ黒な展示室に対して、こちらは真っ白な展示室。菩薩半跏像は真っ黒な漆黒なので、そのコントラストから浮かび上がっているように見えました。百済観音もそうなのですが、この菩薩半跏像も聖徳太子が亡くなられた後の西暦650年頃に作られたと考えられています。百済観音は法隆寺所蔵でありながらその履歴が無い謎の仏像なのですが、菩薩半跏像は聖徳太子のお母さんである穴穂部間人皇女がモデルになったのでは……との伝承があります。
特徴的なのがそのアルカイックスマイルで、レオナルドダビンチのモナ・リザと比較されたりします。非常に美しい微笑みでした。こちらの仏像も、妙にリアルでまるで生きているようです。写実的なリアルではなく、命を吹き込まれているような瑞々しさ。片足を組んで座っているのですが、そのまま立ち上がったとしても驚きません。それくらいに存在感がありました。チャーミングなのが、頭の上でまとめられた髪の毛。二つのお団子が横に並んでいました。この像は、京都の広隆寺にある宝冠弥勒をモデルにしたと推測されています。どちらも半跏思惟像なのですが、京都は宝冠を頭に被っていて、こちらはお団子頭。可愛さが違います。また、どちらも聖徳太子に縁がありました。
京都にある宝冠弥勒は、朝鮮半島の新羅から渡ってきたものらしく、聖徳太子が秦河勝に授けました。河勝はその仏像を安置するために京都の太秦に蜂岡寺を建設します。僕も現地に赴き実際に見学したことがあるのですが、非常に良かった。この宝冠弥勒は、国宝第一号になります。対して、中宮寺は聖徳太子が母親の穴穂部間人皇女の為に建てた尼寺で、菩薩半跏像はその本尊でした。製作されたころは、おそらく穴穂部間人皇女は亡くなった後なので、モデルにしたというのは無理があります。でも、僕はそのつもりで対面しました。長いこと見つめます。とても良かった。
奈良国立博物館を辞した僕は、スーパーカブを走らせて斑鳩の里に向かいました。この辺りには聖徳太子に関係するお寺が幾つかあるのですが、そのうち法起寺を見学したあと、法隆寺は何度も足を運んでいるので素通りして、藤ノ木古墳に向かいます。ここは比較的小さな円墳で未盗掘。1985年に初めて発掘されました。男性二人の被葬者が確認されたのですが、小さな古墳にしては副葬品がかなり豪華。現在の研究では、聖徳太子の叔父で穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子である宅部皇子の可能性が高いとされています。二人は共に、蘇我馬子に暗殺されました。
足早に斑鳩の里を後にして、次に大阪の柏原に向かいます。大和川に沿って国道25号線を走れば直ぐそこなのですが、今回は走りたい道がありました。龍田古道です。奈良から難波に向かう時、幾つかのルートがあるのですが、生駒山や二上山に阻まれているために峠を越える必要がありました。そうしたルートのうち、大和川沿いの龍田古道はもっとも標高差が低く多くの方に利用されていたようです。丁未の乱においても兵士がこの道を進軍したと思います。かなり細い小道ですが、スーパーカブならスイスイ。生駒山の南端に当たる堅上に到着しました。
ここ堅上から高井田、堅下は、日本で最も古いデラウェアの産地になります。若い頃は仕事柄、この辺りの生産者の方たちと懇意にさせていただきました。とても懐かしい地域なのですが、今回は別の目的があります。それは神社でした。詳細については、長くなってしまうので次回にします。




