ストーリーとドラマ
芸術の分野には技術を育成するために専門の学校があったりします。例えば、絵を描くのなら美大、音楽なら音大、アニメなら専門学校というように。小説であれば文学部になると思うけど、小説を書くための専門機関というよりは、過去の名作を研究するといったイメージが強い。小説家を輩出するための学校もあるにはあるだろうけど、あまり記憶にない。小学校の作文など、誰にでも文章は書けるけれど、プロとして人に読ませる文章を書くのであれば、そこには専門の技術や理論がやはり存在します。
昨日からオーディブルで「物語のつくり方」という書籍を聴き始めました。実は冒頭から目から鱗。ここ4年くらい、文章上達の練習と考えて小説であろうとエッセイであろうと、文章を書くという習慣を自分に課してきました。それはそれで間違いではなかったし、文章に対する理解は今まで以上に深まりました。ただ、僕は肝心なことが分かっていませんでした。
――物語は、ストーリーとドラマで構成されている。
感覚的には何となく理解していたのですが、言語化が出来ていませんでした。どちらも似たようなイメージで使いがちですが、意味は全く違います。「物語のつくり方」では、ストーリーはお皿、ドラマは料理と表現していました。ストーリーとは、出来事の流れもしくはプロットになります。対して、ドラマは、「心の動き」でした。僕は聖徳太子の物語を書くために、歴史を勉強しています。その歴史から、ストーリーとドラマの違いについて紹介したいと思います。
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厩戸皇子には、同い年の幼馴染がいました。名前を「嶋」といいます。嶋のお父さんは馬の鞍を製作する仕事をしており、蘇我馬子の配下でした。西暦584年に11歳になった嶋は、僧侶になるために出家しました。恵便に師事して善信尼と名を改めます。彼女は、日本で初めての出家者でした。ところが、翌西暦585年に仏教を弾圧していた物部守屋は、蘇我馬子が建てた仏塔を燃やします。更に、12歳になった善信尼と他2名の尼僧を捕縛しました。海石榴市と呼ばれた市場まで連れて行かれます。市場には、多くの人が往来し買い物をしていました。そうした大衆が見つめる中、善信尼達は着ていた服を剥がされ鞭打ちの刑に処されるのです。これは見せしめでした。
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上に説明した善信尼の内容は、ストーリーになります。時系列に、出来事を説明してみました。しかし、この文章は俯瞰的で、善信尼の心の動きまでは見えません。歴史の教科書ならこれで良いのですが、物語にするなら登場人物の心の動きを表現する必要があります。
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海石榴市の横を流れる大和川を飾るようにして、椿の赤い花が咲き乱れていた。椿の花の開花時期は3月。冬の寒さを残した風が、市場の中を吹き抜けていく。普段であれば買い物客の喧騒で賑わっている市場が、この時ばかりは静まり返っていた。多くの買い物客が固唾をのんで広場の中央を見守っている。そこには物部守屋の配下である衛士たちが三人の娘を取り囲んでいた。甲冑を付けた衛士の一人が、前に進み出る。野次馬たちに向かって大きく叫んだ。
「我は物部の衛士で万である。正月を迎えてからこれまで、役病の猛威が治まらぬ。日を追うごとに多くの者たちが死に至っている。これは、漢土からやってきた邪神、仏の所為である。その仏に使えているこの娘どもをこれから処する」
衛士の一人が、足元で蹲る善信尼の着物の衿首を掴んだ。力の限り引っ張り上げる。小柄な彼女は、強引な力で立たされ、そのまま服を引き剥がされてしまった。白い餅の様な肌が露わになり、野次馬の目に晒される。恥ずかしさに彼女は再度うずくまる。両手で肩を抱き、固く唇を噛んだ。恥ずかしさで顔を上げることが出来ない。残りの娘たちも同じように、着物を剝ぎ取られた。衛士は、剥ぎ取った着物から鞭に持ち変える。身を寄せ合う娘たちを一瞥して、鞭を振り上げた。
「ひとぉつ」
ヒュッと風を切る音がした。容赦なく、善信尼の白い背中に叩き落される。ビシッ。
「ヒィ!」
彼女は思わず声を出してしまった。白い背中に赤い線が浮き上がる。まるで背中を這う一匹の蛇のようだった。あまりの痛みに、善信尼は目を見開いた。歯を食いしばる。容赦のないその鞭は、繰り返し繰り返し打ち下ろされた。白かった背中が赤く腫れあがり、血が流れ始める。気を失いそうになった。
――これが法難なのか?
虚ろな記憶の中で、法難を諭す師の姿が浮かんだ。出家したことを後悔しそうになる。その時、群衆の中をかき分けて、一人の男の子が躍り出た。
「嶋~」
法名ではなく、彼女を「嶋」と呼ぶ男の子は一人しかいない。上宮に住む厩戸皇子だった。身分の違いから、愛することは叶わないけれど、嶋が心から好きだった男の子だ。ある意味、皇子のことを忘れる為に出家した嶋にとって、皇子の登場は嬉しくもあり、それ以上に恥ずかしかった。裸にされ辱めを受けている自分の姿を、皇子に見られてしまったことが、どうしようもなく屈辱だった。鞭で打ち据えられているこの状況で、先ほどの後悔しかけた心が霧散する。怒りで打ち震えた。
――絶対に負けない。
唇を嚙みしめながら、善信尼は鞭打ちの刑を耐えた。
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思い付きで、エピソードをそれっぽく書いてみました。中途半端ではありますが、ドラマっぽくはなっていると思います。最近、映画「ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング」が話題ですが、あの映画って滅茶苦茶に面白んですが、観終わった後にストーリーを解説できる人って少ないんじゃないでしょうか。記憶に残るのは、生きるか死ぬかのハラハラドキドキのシーンばっかりだったりします。
ストーリーはとても大切ですが、感動は心に刺さるドラマによって沸き上がります。そのドラマをどのように演出するのかが技術でした。そうしたドラマを演出するためには、主人公は不幸にならないといけない。どうにもならない不幸な状況から立ち上がる人間ドラマを表現しろと、「物語のつくり方」では解説していました。ただ、ドラマばかりでストーリーが無ければ、それはそれで主人公が何をしたいのかが分からなくなります。ストーリーとドラマは両輪のようなものなので、バランスはとても大切でした。
現在の僕は、古代史を勉強しています。これらの勉強はどちらかというと、ストーリーの勉強になります。今後は、ドラマについても勉強する必要がありました。ある意味、人間観察です。面白い作品を仕上げたいと思ってはいますが、まだまだ道のりは遠い。