山岳信仰と女神、そして血の穢れ
山岳信仰が知りたいことを、昨年から何度もご紹介してきました。ネットで調べると、古来から山の神は、女神であると信じられてきたそうです。山は樹木を生み出し、獣を生み出し、川をも生み出す場所として神聖視されてきました。その生み出すという現象が、女性のメカニズムと関係づけられたようです。また東北では、山で生活する狩人をマタギと呼びました。このマタギという言葉は、二股の木が転じた言葉だそうで、つまり、女性の股を意味しています。生命が誕生する山で生きる人といった意味が、マタギという呼び名に込められていたんですね。面白い。
そうした山の女神を喜ばせる供物に代表格がありました。それが「オコゼ」なのです。オコゼって、ご存じですか? 浅瀬の岩場などに生息する魚で、煮魚にすると美味しい。ただ、背びれに毒棘があるので取扱は注意しないといけません。特徴的なのはその顔でして、かなり不細工なのです。伝承では、山の女神は醜女であるとされていて、とても嫉妬深いと考えられてきました。自分より醜いものがあれば喜ぶだろうと忖度したようで、顔が醜いオコゼを山の女神に供える習慣が全国各地に残っているのです。
――なんで?
オコゼはともかく、山の女神が醜いと考えられてきたのは何故なんでしょうか。山岳信仰を調べ初めて最初にぶつかった疑問になります。それ以来、幾つかの山に登ってきましたが、その疑問は解消されません。大台ヶ原に登った時は雲海の美しさに心を打たれましたし、北アルプスの白馬岳では白銀の斜面から見下ろす大パノラマに言葉が出ませんでした。そうした山に対して、感動こそすれ醜いというイメージは想起されません。
そんな折、一冊の本を読みました。瀬川拓郎著作「縄文の思想」になります。山岳信仰と縄文思想、一見すると関係なさそうに見える両者ですが、大いに関係していました。この本から、エッセンスをご紹介したいと思います。
瀬川氏の専攻は、アイヌ文化になります。DNAの話になりますが、僕たち日本人には縄文の遺伝子が残っています。本土で10%、沖縄で20%、アイヌで50%以上。本土に比べると北と南に縄文の遺伝的が濃く残されているわけですが、濃く残っているのはDNAだけではありません。神話的な民間伝承も残されていました。
古事記のエピソードに因幡の白兎があります。ワニを騙して海を渡ろうとした白兎が、怒ったワニに皮を剥がれてしまい、その後、大国主命に助けられたお話です。ところで、ワニってなんですか? 日本にはワニはいませんし、そもそも海に生息していません。このワニとは鮫のことで、古い言い伝えにはこのワニが良く登場します。
「古老が伝えて言うことには、和尓が、阿伊の村におられる神、玉日女命を慕って、川を遡ってやってきた。その時、玉日女命が石で川を塞いだので、会うことが出来ないで愛おしく思っていた。だから、恋山といった」
――出雲国風土記
サメもしくはワニが、女神に会いたくて山を登っていく構図は、出雲だけでなく肥前国風土記にも残されていました。また、アイヌの伝承にも残されています。
「沖の神であるシャチは、山の神の娘に会うために、高山へ向かって川をのぼる。途中、サマイクル神やオキクルミ神からさまざまな妨害をうけるが、土産をもってなんとか娘のもとへむかい、山の神にほめられる」
――アイヌ伝承
サメがシャチに変わっていますが、これらの伝承の特徴は、山の上に女神がいて、海に住む男神が会いに行くという構図でした。男神は女神のことを慕っていますが、何かと障害があって会いに行くことが難しい。時には、女神本人から拒絶されてしまいます。これらの伝承は、何を意味しているのでしょうか? 結論から先に申し上げると、山の上とは他界のことでした。つまり、愛しい女神は、既に亡くなっていたのです。
山の上に他界があるという信仰は、縄文由来の祖霊信仰だったようです。そしてこの他界への入り口が洞窟と考えられていました。瀬川氏の専攻がアイヌということもあり、北海道での遺跡発掘資料が多いのですが、南から北まで日本の沿岸には海蝕洞窟を埋葬地とする風習が数多く残されていました。洞窟に埋葬された死者は、黄泉である地底を通り、死者が住むとされる山の上の他界へと赴きます。その聖地は沖縄であればニライカナイと呼ばれていました。
ここまでの話を聞いて、察しの良い方は気が付いたと思います。記紀でも似たようなモチーフがありました。亡くなった妻のイザナミを恋しく思ったイザナギが、黄泉の国へと赴くエピソードです。記紀では伝承よりも一歩踏み込んでいて、黄泉の国の食事を口にすると生者の世界に帰れないとする黄泉戸喫の話が描写されていました。この考え方は、アイヌにもあります。
ただ、一点だけ大きな違いがありました。女神が亡くなり男神が慕うところまでは一緒なのですが、縄文的な祖霊信仰では女神が男神を追い返します。対して記紀では、男神が醜くなった女神を恐れて逃げました。構図が反転しているのです。これはなぜでしょうか? この反転は、山岳信仰の醜女の女神とオコゼの話とも、どこか通じていそうです。ここからは、僕の考察になります。
縄文というと、長野県の火炎土器や黒曜石が有名なので、内陸で生活していたイメージもありますが、多くは海岸で生活していた海の民になります。春から夏にかけては、貝やウニ、鯛やマグロ、大物ではクジラやサメを食べ、秋は栗や果実を収穫し、冬になると山に入り獣を狩猟します。つまり一年の半分は、海の幸に依存していました。そのような縄文の人々は航海術に長けており、沖縄から北海道まで、船を使って移動をしていたようなのです。
その痕跡は、様々な例を挙げることが出来ます。これまで述べてきたように、同じ構図の伝承が北から南まで広く分布していました。また遺跡からは沖縄のゴホウラ、イモガイ貝が北海道で発掘されていますし、南九州の隼人には、アイヌ語の影響がみられるそうです。
長野県の北アルプスのふもとに安曇野という町がありまが、この安曇野は記紀に登場する阿曇氏が治めた地域でした。古事記では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されており、出身地は北九州の海民になります。つまり、海民が内陸にまで影響を与えていた一例になります。
これまで日本人のルーツは、縄文人と弥生人の二系統が混ざり合ったと考えられてきました。ところが、DNAの最新研究によるとこれが三系統だったと提唱され始めています。4万年前に日本列島に最初のホモサピエンスがやってきて、1万6千年前くらいから縄文時代が始まりました。3千年前に北東アジアから人々がやってきて農耕を日本に伝え弥生時代が始まります。ここにもう一つの系統が日本にやってきて古墳時代が始まりました。その源流がどうも東アジアみたいなのです。
この流れは、食の歴史から考えても納得が出来ました。水田稲作の源流を辿ると揚子江流域に行きつくそうですが、米の歴史をもっと辿るとネパールに辿り着きます。ちょっと広範囲ですし漠然とした話になるのですが、米の歴史と対をなすのがコウジカビになります。和食はこの米と麹と大豆の歴史と言い切っても良いくらいなのですが、この文化は北東アジアではなく、ネパール~揚子江周辺で発達した食文化でした。また、ネパールでは神に娘を捧げる文化があり、特徴的なのが娘の血を嫌います。生理が始まると、娘は穢れたものとして、家族と一緒に生活することが出来ませんでした。そうした痕跡から推察するに、大和王権の源流は、このネパール~東アジア系の移民だったのではないでしょうか。
血の穢れの思想は、縄文時代にはなかった考え方だと思います。古墳時代に、神武天皇に率いられてきた大和王権によって、この娘の血を忌避する思想が広まったのだとすると、山岳信仰において女神が醜女になってしまった話も納得がいくのです。
文化というものは、ゆっくりと変化していくもので、急に変革したりはしません。もし変わったとすれば、それは人間が入れ替わったと考えるべきです。縄文土器から弥生土器にガラリと変化したのは、北東アジアの人々が移入してきて弥生文化を展開したからだと思います。弥生時代から古墳時代に移行したのも、東アジアの人々が移入したことによる変化だったのでしょう。そのように考えていくと、漠然とした考察ですが、次のようなストーリーが考えられます。
国譲りを迫った天津神は、東アジア系の移民で前方後円墳をシンボルとする古墳文化を展開した。出雲を拠点とする国津神は、北東アジアの系の移民で弥生文化を広げた。海部氏、和珥氏、阿曇氏、それに隼人、蝦夷、土蜘蛛は日本古来からの縄文人だった。今のところ、このように整理して考えています。
ところで古墳ですが、大陸からやってきた文化ではありますが、死生観は山岳信仰とよく似ています。詳細は省きますが、前方後円墳の横に、祭壇である造り出しがあるのですが、ここが黄泉の国への入り口でした。埴輪によって、死者が生活する場所を整えます。入り口には、川を渡る船があり、鳥が先導して他界へと誘います。他界とは山の上であり、古墳で表現したようなのです。最近読んだ本にそうありました。
これまでの話は考察であり、本当のところは分かりません。ただ、そんな気はします。今年のお盆は、計画倒れになってしまった霊峰白山に登るつもりです。福井県は継体天皇の出身地でもあり、是非とも行ってみたい。謎は深まるばかりです。