常識について
昨日、白馬岳登山の旅行記を書き上げました。総文字数21,215文字になります。5日間で、一気に書き上げました。こうした旅行記やエッセイ、最近は書いていませんが小説など、毎日ではありませんがなるべく文章を書くように心がけています。小説を書こうと思い立ったのが3年半前で、これまでに180万文字を書いてきました。これは一日平均で1400文字になるので、毎日毎日、原稿用紙3枚から4枚くらいは書き続けてきたことになります。
――誰が読むの?
確かに、いったい誰が読むんでしょうね。商業的にお金になるわけでもなく、自己満足の繰り返し。ただ、僕としてはこれは筋トレみたいなものだと考えています。この3年半で文章力がどれだけ上達したのかは分かりませんが、書き続けない事には上達はしません。それに僕は書くことが好きです。書くことで、色々なことを考えています。
――考えるって、何?
考えるって、常識を疑うことだと、最近は考えるようになりました。僕たちが、常識、当たり前、当然のことと信じている事柄の多くは、パソコンのプログラムみたいなものだと思います。普段の生活では、常識に従っていれば、大きな間違いを犯すことはない。
例えば、青信号の時に横断歩道を渡れば車に引かれることはことはない。車を運転するときは、左車線を走っていれば対向車とぶつかることはない。これは常識なわけです。青信号の時に、渡るか渡らないかを迷う必要がない。常識だから、横断歩道を渡れば良いのです。常識を信じていれば、考える必要が無い。選択の自動化。脳のリソースを最小限の使用に留めて、活動することが出来ます。これが、常識の利点。
しかし、常識は地域性が強く、場所が変われば常識も変わります。アメリカで車を運転する時、左車線を走ったら、対向車と衝突してしまいます。常識は考える必要が無くなる代わりに、使う場所を間違えると大変なことになります。このような常識の特徴を考えるとき、目には見えないけれど、常識はコミュニティの核になっているんだなと思いました。
常識は、複数の人々に同じ行動、同じ選択をさせることが出来ます。常識の集まりは思想へと昇華して、コミュニティの方向性すらを決めていきました。そうした常識は、古来から経験則で引き継がれてきましたが、それを明文化する動きが現れます。法律です。法律とは常識の上位互換であり、違反者に対しては罰則を科すことが出来る力がありました。
僕たちは、自由意志があるように見えて、実は常識というプログラムに意志決定の大半が支配されているのではないでしょうか。
――常識だろう。
――みんなが言っている。
――そうしなきゃいけない。
――決まっているだろう。
誰もが口にしたことがある言葉だと思います。
――貴方が信じているその常識は、貴方の意志ですか?
僕は古代の思想を勉強していますが、古代においては儀式が尊ばれます。そうした儀式は文字が無い世界において、常識を具現化したものではないでしょうか。コミュニティが一つの塊として駆動するためには、同じ思想を共有する必要がありました。しかし、思想は目に見えない。目に見えないものを、儀式として具現化することで、コミュニティで共有しやすくなったと考えます。それは、作法だけでなく、音楽や踊り、はたまた祭りへと変化していったのかな……と思ってみたり。
現代においては、そうした常識はネットの中に存在しています。常識をAIが管理する世界になってきました。インターネットの発展は、地域格差を小さくします。ネットミームのように、ある一つのコンテンツが、ある瞬間から世界中で共有される現象もありました。このようなネット社会で僕たちは、色々な事柄を常識として信じ込まされています。一旦立ち止まって、
――この常識は、自分の意志なのか?
と考えることは大切だと思います。ひょっとすると、そう信じ込まされているだけかもしれません。




