コミュニティーを形成するもの
今晩、近所の公民館で自治会の会合がある。4月の会合では、この一年間の総括とこれからの一年間の事業計画が発表されるが、そうした議題は毎年同じ内容だからそれほど重要ではない。最も紛糾する議題は、次の人事になる。実は、次の会長が決まっていない。現会長は、今年度で降りることを明言している。次の会長に立候補する人は居ない。この会合に向けて水面下では、自治会を存続させるための動きがあったが功を奏していない。このままでは、今晩にも解散という結果が訪れる。今日は、そうしたコミュニティについて考えてみたい。
僕は中央卸売市場にある仲卸で仕事をしている。会社組織に属している理由は、給料をもらえるから。もし給料がなければ仕事はしない。これは僕に限った話ではなくて、現代社会で生きている多くの人がそうだと思う。生活するためにお金が必要だから、会社や役所に勤めて給料をもらっている。お金とは体の中を流れる血液みたいなもので、このお金が社会の中で循環しているから、個人だけでなく会社も存続することが出来ている。そうした会社組織と違って自治会は給料がない。給料がないのに面倒な仕事をしているのはなぜなのか。それは、少しでも地域に貢献しようという小さな善意で僕は動いている。
自治会の仕事は、大きく二種類ある。一つはゴミの収集や清掃それに防犯といった、町の治安に関するもの。もう一つは夏祭りや秋祭りといった、祭祀に関するもの。神輿を担ぐ秋祭りに参加したおりに、現会長が僕に語ってくれた。
「私たちは神様の子供で氏子と言うんだよ」
現在の自治会は市役所の下部組織として動いている。しかし、その源流を辿れば地域にある神社を中心とした氏子の集まりだった。僕が住む摂津界隈は、どこもかしこも家やマンションばっかり。しかし、昔は見渡す限り田んぼだった。僕は経験したことがないが、百姓の仕事は一人ではできない。村の皆で協力することで、秋の実りを確かなものにしていた。この仕事に、現代社会の様な給料は発生しない。コミュニティを結束させていたものは、神社を中心とする信仰だった。その信仰心を支えるものとして、祭りがあった。神社には宗教的な教義はないが、コミュニティの精神的な支柱として重要だった。
僕が所属する自治会は、田んぼが無くなり皆が協力する必要性が薄れていった。また、自分がどの神社に所属しているのかも知らない。外部からの転入者も多くなり、神社と縁して来た人の割合も少なくなった。自治会の活動は完全にボランティアになる。給料をくれるわけでもない。このような環境の中で、自治会が衰退していくのはしかたがないことかもしれない。
高度成長期の日本では、この信仰心が会社への忠誠心に置き換わっていた。会社に対する篤い思いが、高度成長期を支えていたとみることも出来る。ところが、現代の日本にそうした忠誠心を見出すのは難しい。なぜなら、会社組織と従業員の関係性は、給料だけで計られているから。現代の最大の宗教は、拝金主義だと思う。お金さえあれば、生活に必要な事柄は全て揃う。お金は直ぐに功徳を顕現してくれる。とても便利で分かりやすい。
今年の大河ドラマ「べらぼう」は、江戸時代に活躍した“蔦重”こと蔦屋重三郎の波乱万丈の生涯。毎週楽しみに見ているが、石坂浩二扮する老中首座・松平武元が、財政の改革者・田沼意次に心中を吐露した場面があった。
「金というものは、いざという時に米のように食えもせぬば、刀のように守ってもくれぬ。人のように手を差し伸べてくれもせぬ。そなたも世の者も金の力を信じすぎておるように儂には思える」
拝金主義の行きつく先は、個人主義だと思う。社会がこの世界が、目には見えないがゆっくりと風化している様に、僕には見える。これは見間違いだろうか? 今晩の自治会が心配です。




