機が熟す
ここ数年で、結構な量の書籍を購入した。主にアマゾンで購入することが多いのだが、ヤフオクもよく利用する。古書の場合は、なおさらヤフオクじゃないと手に入らない。絶版だから。僕のライフワークである聖徳太子に関連する書籍を購入しているが、どれも漫画のように気楽に読めるような内容ではない。読み始めて数行で、本を閉じたくなるような書籍が多い。いつかは読むだろうと積み上げていると、ホームセンターで売っている三段ラックからあふれ出た。欲に言う積読。
そんな積読の中に、瀬川拓郎著「縄文の思想」があった。瀬川拓郎氏はアイヌ文化の研究者なのだが、この本をいつ購入したのか覚えていない。というかこの本の存在すら失念していた。最近、僕の知識だけで「縄文の思想」というエッセイを書いてみたのだが、なんと同じ題名。でも、先方は専門の学者、当方は在野の素人。内容には雲泥の差があった。読み始めると面白い。その内容に惹き込まれた。
積読が良いか悪いかは別にして、書籍との出会いは一期一会。購入していて良かったと思う。書籍「縄文の思想」を購入した時も縄文の思想について関心があったと思うが、その頃はページを開いたまま閉じてしまっていた。多分、機が熟成していなかったと思う。今の僕は、縄文に対する考察を僕なりに構築した後なので、購入当時のような白紙ではない。瀬川拓郎先生の考え方と僕の思考を、比較しながら読むことが出来る。この関係性は、お酒の発酵とよく似ていると思った。
――機が熟す。
歴史においても、個人の人生においても、このような現象に当てはまる事柄は沢山あると思う。今は無理でも、時間を掛けて自分が変化していくことで、新たな方向性が開けていく。行動においても思考においても、これは当てはまるのではないか。面白い。




