表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
381/495

雪山登山⑤ゲームオーバー

 「戻る」という選択は、案外と難しい。これまでに積み上げてきた実績が無駄になるからです。博打にしても今までの損を取り返そうとして、人は僅かな希望にすがりつきます。その先は破滅かもしれないのに突き進んでしまいがちなのは、人間の性なのかもしれません。今回の場合、「戻る」が最も安全な選択のはずです。それなのに、僕は「進む」と決めました。


 ――ここまで来て戻れない。


 そんな気持ちで一杯でした。今回は何事もなく帰ってくることが出来ましたが、登山においてはこのような判断ミスが命取りになります。現に、この四日前に樹氷で有名な奈良の高見山に息子と一緒に登ってきましたが、その一週間後に同じ高見山で二人の方が遭難されました。判断を誤ると、氷点下の世界では死を意味します。でも、判断が甘いと思いつつも、僕は歩みを進めました。


 アイゼンがないという現実は、僕をより一層慎重にさせました。同時に、危険な状態に置かれたことで緊張感が増します。深い雪山に僕一人だけ。実はこの状況にとても興奮していました。こんなことを聞いたら、嫁さんは絶対に心配するはずです。でも、やめられない。アイゼンが使えなくなったことで、返って面白くなったのです。


 歩みを進めるごとに汗をかき始めました。段階的に服を脱いでいきます。最終的には、ポリエステルの長袖シャツにレインスーツだけという軽装。氷点下では考えられない服装になりました。脱いだ服はひも状にして腰に巻きます。巻いた服の上にザックが乗っかる形になり、肩ひもの負担が減りました。これはこれで非常に歩きやすい。


 体の中は発熱していて暑いくらいなのですが、指先は凍えました。手袋は二重にしているのですが、それでも指先が痛い。足を止めては手袋を脱いで、指先を口の中にツッコんで温めました。やっぱり氷点下の世界です。


 アイゼンがない歩行というのは、どんなに雪が積もっていても平地であればさほど問題になりません。ただ、階段のない登り坂では工夫が必要でした。アイゼンの爪がないと、どうしても坂道では滑ってしまいます。ここで僕は登り方を発見をしました。雪が堆積した登り坂では、つま先を坂道に蹴り込みます。そうすることで、無理やりに足場を作ることが出来ました。後から知ったのですが、これはスノーシューでも使われる技でした。キックステップと言うそうです。力を込めて大地につま先を蹴り込む。慌てずに、一段一段ゆっくりと足を運びました。標高を上げていきます。


 反対に雪が堆積した下り坂では、足を横にすることで接地面を多くし、登山靴の縁を使ってグリップを利かせました。多少滑ってしまっても問題はありません。降りるのが目的ですから。また、このような上り下りで活躍したのがストックでした。ストックの爪を雪に突き立てて、アイゼンの代わりにします。もしストックがなければ、前に進むことが出来なかったと思います。


 標高が上がるにつれ、森の様子が変わってきました。登り初めは杉の木に囲まれていたのですが、気が付くと杉とは枝ぶりが違います。大台ヶ原ではマツ科のトウヒが繁殖していましたが、それとよく似ていました。後から調べてみると、同じマツ科でモミ属になるシラビソも生えているそうです。ただ、僕にはその違いが分かりません。そうした木々の枝や葉には隅々まで雪が貼りつき、樹氷を形成していました。足元も白なら、僕を取り囲む森も真っ白。正に銀世界でした。天気はそれほど悪くなくて、雲の隙間から青い空が見え隠れしています。回りには誰も居ません。僕一人だけ。歩みを進めていると、時々柔らかい音が聞こえてきます。


 ――フサッ!


 木の枝に貼り付いていた雪が、風に吹かれたことによって塊になって雪の上に落ちる音でした。音の方に視線を向けると、細かな雪が残り香のように舞い降りています。氷点下の寒さの中、あらゆる活動が氷漬けにされているように見えますが、それでも森は生きている。そんなことを感じました。


 登り始めて2時間が経過し、12時を回りました。下山する方とすれ違うようになります。すれ違いながら、どうしても相手の足先を見てしまいました。誰もがアイゼンを装着しています。中には、スノーシューを履いている方もいましたが、僕はただの登山靴。ちょっと恥ずかしくなりました。すれ違う時に挨拶をするのですが、登山靴をワザと雪の中に沈めてみたり……。


 更に2時間歩くと、板尾辻に到着しました。ここにはトタンを貼り付けた簡易な避難小屋があります。この避難小屋周辺で6人の登山客が休憩していました。男性がこのグループの中心者らしく、残りの5人は女性。休憩といっても、小屋の中に入っているわけではなく、青空の下で立ちながら談笑していました。小屋の中は腰を下ろせるような椅子はなく、土がむき出しの土間のみ。更にとても暗かった。誰も入ろうとしません。そんな避難小屋に、僕は入ります。ベタッと座り込みました。とても疲れていたからです。そんな僕に、中心者の男性が話しかけてきました。


「こんにちは」


「こんにちは」


「もしかして、テン泊ですか?」


「ええ、そのつもりです」


「いやー、こんな時間に登ってくるから、そうかな~と思いました」


「八経ヶ岳まで登りたいんですけど、今日は狼平で宿泊かな~と思っています」


「狼平か~、まだありますね」


「今日は、八経ヶ岳まで行かれたんですか?」


「いえいえ、雪が多くて行けていません。そこの天女の頂に登ってきて、これから戻るところです」


「そうですか。雪が多いんだ……」


「天女の頂なら、あともうすぐですよ。頑張ってください。では!」


「ありがとうございます」


 立ち上がることが出来ず、この後30分近く座り込みます。4時間ほどの山登りで、かなりの体力を消耗していました。小屋の中から外を眺めていると、僕と同じようにテント泊をすると言っていた男性が目の前を横切っていきます。負けていられません。僕も腰を上げることにしました。


 ここ板尾辻から天女の頂までは、階段のない登り坂になります。木が生えておらず地表が剥き出しで、積雪が少なかった。風の影響で雪が堆積しにくい場所のようです。アイスバーンになっていました。


 ――ん?


 登ろうとしましたが、靴底が滑ってしまい登れません。雪が少ないので、靴を蹴りこむキックステップも使えません。ストックを打ち立てて登ろうとしましたが、傾斜がきつくなると滑り落ちてしまいます。アイゼンを片足だけ装着して登ろうとしましたが、かなり危なっかしい。その時に、ふと考えました。


 ――登ったあと、降りることが出来ないんじゃないか?


 やっと踏ん切りがつきました。ここでゲームオーバーです。ぐるりと見まわすと、板尾辻の避難小屋が見えました。トタンで出来たバラックで、狼平や弥山のような立派なログハウスではありません。それでも、雪と風を凌ぐことが出来ます。扉がないので寒さを防ぐのは無理ですが、それでも雪中泊に比べるとなんぼかマシです。今夜の宿泊地が決まりました。


 時間は14時を回っていました。普段なら宿泊の準備は、日没の1時間前くらいから始めます。今から晩御飯の用意を始めるのはいくら何でも早すぎました。夕方までの2時間がかなり暇すぎます。取り合えず、避難小屋の中にテントを設置しました。テントは、雪山用のコンパクトなソロテントになります。普通はあるはずの、ベンチレーション機能がありません。一見するとシングルウォールのドーム型テントですが、内側にメッシュのもう一枚の壁があり保温性能を高めています。このテントは、山男だった従兄の遺品でした。大事に使わせてもらっています。


 それにしても、晩御飯までの時間が暇です。2時間くらいは時間を潰さないといけない。アマゾンプライムで映画をダウンロードしていたことを思い出しスマホを取り出しました。しかし、電波が届かないので、アマゾンプライムを開くことが出来ません。結局のところ、映画を観ることは出来ませんでした。不貞腐れて、寝袋に潜り込みます。そのまま昼寝をしました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ