㉘転倒
目が覚めた。枕元に置いてあるスマホに手を伸ばす。時間は4時30分。起きるのに丁度よい時間だ。ここを5時に出発すれば、6時過ぎの日の出に十分に間に合う。真っ暗な部屋の中、ザックの中に手を入れてタオルと歯ブラシを取り出した。足音を忍ばせながら相部屋を出て、トイレと洗顔を済ませる。静かに部屋に戻り、出発の準備を始めた。準備といっても忘れものがないように気を付けるくらいなのだが、部屋が真っ暗なので分かりづらい。ヘッドライトを頭に装着して周囲を確認した。
出発時の服装について昨日と違う点がある。それは、レインウェアのパンツを履いていることだ。前回の大台ヶ原では、朝露に濡れたミヤコザサの中を歩いたせいでズボンがずぶ濡れになってしまった。その対策になる。寝具を畳んだ後ナップサックを背負い、物産展で購入した杖を手にした。忍び足で出入り口に向かう。すると同室の男性客が目を覚ました。暗い闇の中だが、相手に会釈する。
「おはようございます。お先に」
相手の反応は分からなかったが、そのまま観音開きの扉を開けて廊下に出た。階段を下りてロビーに向かう。玄関ではペアの登山客が出発するところだった。僕と同じように日の出を拝むために早起きをしたのだろう。下駄箱から自分の登山靴を取り出して、玄関の上がり框に腰を下ろした。山頂に登り日の出を拝んだ後は、長い下りになる。登りよりも下りの方が膝に負担が掛かると聞く。今日一日、無事に歩き切るという強い決意を込めて靴ひもを固く結んだ。
例年よりも暖かい11月だが、標高が1,500mを越える大台ヶ原の朝は寒かった。吐く息がヘッドライトに照らされて白く煙る。登山口に向かって歩きだして、直ぐに足を止めた。昨日の登山のダメージが足に残っている。両手を腰に添えてアキレス腱を伸ばし、軽く屈伸運動をした。歩けないというほどではないが、膝や太腿に違和感が残っている。杖を購入しておいて良かったとしみじみと感じた。宿から登山口があるビジターセンターまでは、広い駐車場の縁を歩くことになる。ヘッドライトが照らす先は、霧のせいで良く見えなかった。空を見上げても、星どころか空そのものが見えない。前回は雲海から登りゆく見事な日の出を拝むことが出来たが、今回は無理かもしれない。それなのに、実は興奮していた。ガスに覆われた山の中を歩くのは初めての体験になる。冥界に入っていくような感覚に囚われながら歩みを進めた。
登山口からガスが漂う深い森の中に入っていく。視界は不良だが、登山道が整備されているので道に迷うことはなかった。宿から日出ヶ岳までの道のりは2kmほどしかない。登りといっても100mちょっと高度を上げるだけ。昨日の山登りと比べたら山登りですらない。足元に気を付けながら歩いていると、後ろからやってきた若い男性に抜かれた。歩くスピードが速い。僕を追い越したあともドンドンと歩みを進める。次第に姿が見えなくなり、ヘッドライトの光だけが前方でユラユラと光っていた。なんだか負けたような気持にさせられる。追いつこうとして足に力を込めたが、一旦歩みを止める。大きく深呼吸をした。昨日に引き続き、今日も長丁場の戦いになる。こんな序盤から熱くなっては、最後まで歩き通せない。それにサポーターは巻いているが、膝の負担も心配だった。
長い階段を登り切り、日出ヶ岳に到着する。案の定、何も見えなかった。ただ、日の出が近いということもあり辺りは仄かに明るくなっている。真っ白い霧の世界だった。上を見ても下を見ても、白く発光した霧が漂っている。ここが天国かもと勘違いしてしまいそうだった。霧に包まれた先に展望台が見える。展望台は小屋のような造りになっていて、屋根に当たる部分がテラスになっていた。晴れていればここから伊勢湾を展望することが出来る。屋根の下でも展望できるようになっていてベンチが用意されていた。視界確保の為に、柱しかなく壁はない。階段付近が唯一壁になっているのだが、その壁に多くの人が貼りついていた。20人近くはいたと思う。なぜ壁に身を寄せているのかというと、酷い強風だったから。
立つこともままならない程の強い風が、山頂に吹き荒れていた。小屋の下は風の通り道になっていて、かなり寒い。立っているだけで体温を持っていかれた。そのような中、空いているベンチに僕は遠慮なく座る。ナップザックからおにぎりが入った弁当を取り出した。朝食を摂ることにする。このまま待っていても、日の出を拝むことは出来ない。腹が減っては戦ができぬ。これからの戦いに備えることにした。ただ、風はかなり厄介だった。小物を手から放すと、たちまちに風に持っていかれてしまう。包装紙や割りばしの袋は、ナップザックのポケットに先に突っ込んでおいた。強風に晒されながら、氷のように冷たくなったおにぎりを食べる。正直なところ、全く美味しくなかった。宿が用意してくれたおにぎりが不味いのではない。0度に近いこの環境下が悪いのだ。それでも機械的におにぎりを噛みしめる。その時、後ろから声を掛けられた。
「おはようございます」
驚いて振り返ると、受付でお湯を求めた男性が立っていた。弁当とお箸を持ったまま、男性を見上げる。
「おはようございます」
「日の出は見れそうにないですね」
「本当に……、前回に来たときは、雲海から登る太陽を拝めたんですが……」
「山頂でガスに見舞われるのは良くあることです。こればっかりは仕方がないですね」
「今日は、このまま大台ヶ原を回られるんですか?」
「ええ、ガスが残念ですが、大蛇嵓を見てこようと思います」
「そうですか……ガスが晴れたら良いですね」
「本当に……」
空になった弁当の包みをナップザックに仕舞う。立ち上がった。
「さてと、」
「もう、出発されますか?」
「ええ、エネルギーの補給が出来たので」
「じゃ、僕も出発するとしますか」
「昨晩は山の話、面白かったです。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそとても楽しい夜でした」
「では、さよなら」
頭を下げる。
「さよなら」
日出ヶ岳から東に延びている登山道に向かって、杖を突きつつ歩みを進めた。この道を進む人が見当たらない。山頂にいるほとんどの人は、大台ヶ原まで車で来ている。大台ヶ原だけを周回して帰っていくのだろう。僕は違う。大杉谷に停めてある相棒のスーパーカブと再会しなければならなかった。後ろは振り返らない。さようなら、大台ヶ原。
僕の目の前に、急な下り階段が待ち構えていた。昨日登ってきた道なのに、下りは全く印象が違った。急な斜面というだけでなく、崖を下りていくような足場の悪さだった。階段のステップとスッテプの間が酷く浸食していて段差が深くなっている。歩き難いことこの上ない。更に僕の足は昨日の登山でダメージを受けていた。段差を下りるときに、膝や太腿がミシミシと軋む。コンディションは万全とはいえなかった。この制限をかけられた状況下で、杖が大いに役に立った。杖を先に突いておくことで、バランスを崩さずに下りることが出来る。
ゆっくりとした足取りで、階段を下りていく。降りるごとにだんだんと霧が晴れていった。深い森の中に、僕一人だけ。山を登っている時は、目標に向かっているという向上心に似た高揚感があった。対して、下りの目的は家に帰ること。同じ山道を歩いていても、気持ちのベクトルが全く違う。祭りの後のどこか切ないような気持ちにさせられた。大きな落差を下りるときに杖を突く。体重をかけた時、その杖が折れた。
――パキ!
前のめりに体が転がった。慌てて手を付き出す。背中のナップザックがクッションになった。階段の縁に引っかかる。それ以上は落ちることはなかった。浸食によって階段が平坦でなかったことが幸いする。穴に落っこちたような格好で、空を見上げた。白く霞んでいる。とても静かだった。鳥のさえずりも聞こえない。長男ダイチのことを思い出した。




