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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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文字がない世界

 現代社会に生きる僕たちは情報に晒されている。テレビを付けると日中は何かしらの番組が休みなく放映されているし、パソコンやスマホを開くとYouTubeやTikTokといった動画や、ヤフーといった情報サイトにアクセスできる。もっと情報が欲しければ、検索画面で情報収集が出来るし、最近ではわざわざ検索しなくてもAIが答えを教えてくれたりする。情報の中身も様々で、有名人のスキャンダルや企業の不祥事といった話題性のあるニュースだけでなく、サイエンスや歴史といった学術的な内容や金融や商売に関する相場などキリがない。中には僕のように情報を発信することを趣味にしている輩もいる。これら情報を構成するために活躍しているのが「文字」になる。


 民俗学者の宮本常一著「忘れられた日本人」に、世間師という聞きなれない人々の話があった。ネットでは次のように解説している。

 1、世間に通じていて巧みに世を渡ること。悪賢く世を渡ること。また、その人。

 2、旅から旅を渡り歩いて世渡りをする人。


 宮本が紹介する世間師は2になる。江戸から明治に移った動乱の様子を僕たちは学校の歴史で習う。黒船が来たことによる攘夷運動や、日清日露戦争について情報としては知っている。よっぽど日本は動乱していたのだろうと想像してしまうが、実はそうではない。現代のようにメディアが充実していないので、最新の情報は都市部に限られる。ひなびた寒村ではどうしても情報が伝わらない。温度差があった。そうした村々を旅をしながら情報を伝えていたのが世間師になる。


 登場する世間師は、世間師に成ろうとして成ったわけではない。切っ掛けがあった。明治8年の地租改正で村の山が官有林になってしまう。この時に法律というものが、社会において重要だということを知った。ところが、彼は文字を知らない。だから、法律も読めない。20代で小学校の勉強をした。そんな彼が、文字を知ったことで世間に対する目が開けるのである。日本中を旅するようになった。村々を歩きながら、見聞きした情報を人々に語っていく。そんな世間師が当時は多かったようである。そんな世間師の話を紹介した後で、宮本は、文字について語る。


「これまで回顧して来た年寄りたちは文字を知らないか、知っていても文字にたよる事のすくない人たちばかりであった。文字を知らない者と、文字を知る者との間にはあきらかに大きな差が見られた。文字を知らない人たちの伝承は多くの場合耳からきいた事をそのまま覚え、これを伝承しようとした。よほどの作為のない限り、内容を変更しようとする意志はすくない。――中略――しかし、文字をよみ文字にしたしむ者は、耳で聞いただけでなく、文字でよんだ知識が伝承の中へ混入していき、口頭のみの伝承に訂正が加えられるものである」


 僕は文章を紡ぎ出すことを趣味としているが、この行為は考えることでもある。書きながら考えている。もし、「文字で書く」という行為がなければ、深く考えることは無かったかもしれない。また、インプットされた様々な情報は、アウトプットすることで頭の中に定着する。文字の効能は計り知れない。


 日本の文字文化は、仏教の伝来とともに本格的になった。それ以前の社会は、文字がない世界。そのような世界においては、目上の者が語った情報を信じるしかない。というか、とても素直に信じていたと思う。神社の大きな機能として、先祖代々の活躍を口伝として残す作業があった。有名なものに竹内文書や出雲口伝などがある。その真実性について議論されているが、大切なことはそうした口伝が残されてきた事実を重要視したい。古事記や日本書紀にしても、日本各地の口伝を文字したものになる。歴史家の中には、記紀は捏造されたものだと非難する方が少なからずいる。しかし、それは未来から俯瞰しているからそのように見えるだけで、当時の人々は口伝を正確に文字に起こすことで必死だったと考える。特に、扱う内容が「神」に関する内容なだけに、慎重に扱われていたのではないだろうか。


 聖徳太子以前の世界は、文字のない世界。口伝で語られる神話こそが真実であった。神話は人々が生きていくうえでの規範であり、また法律に該当する。神を中心としたコミュニティの存続こそが大切な価値観で、現代的な人権という概念は全くなかった。何ならコミュニティの為に命を差し出すことが、最も高い価値として考えられていたと思う。例えば、戦争においては神の名のもとに勇猛果敢に戦う姿であったり、儀式においては人身御供も崇高な行為と考えられていた節がある。当時の人々にとって最も恐れることは、神の権威に守られたコミュニティから外されること。それは、死ぬことよりも恐ろしかったのではないだろうか。それくらいに人間が素直だったと思う。文字がないから。


 今日18日、万博にある国立民俗博物館で「ヨーロッパの多神教世界――魔女、女神、ドルイド」という講演会があります。ドルイドは古代ケルト人の宗教で、文字がなかった時代でした。僕は専門家ではありませんが、ドルイドと神道には構造的に共通点があるのでは……と思っています。どのような話をしてくれるのか、今から楽しみです。

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