宗教って何?
僕がなぜ聖徳太子の小説を書きたいのかというと、宗教や哲学といった思想に関心があるからです。聖徳太子が生きていた飛鳥時代は、それまでのアミニズム的な信仰から発展した神道系の宗教が一般的でした。そういした世界観に、大陸から仏教がやってくるのです。その受容について物部と蘇我の間で諍いが起こり、丁未の乱へと発展していきました。ところで、日本由来の神道と大陸からやってきた仏教と何が違うのでしょうか。何か困ったことが起きた時に「神様、仏様~」と一緒くたにして叫んだりしますが、困ったときの神頼みは効果があるのでしょうか。身近にあるけれど良く分からない宗教について、僕なりの見解を整理してみたいと思います。
1年前に、ハラリ著「サピエンス全史」を読了しました。衝撃的な内容でした。全編通して面白いのですが、特に魅かれたのは前半の「認知革命」になります。人類にとっての最初の革命は、火を含めて道具を使うことでした。映画「2001年宇宙の旅」では、モノリスの影響で猿人が棍棒を振り上げて、道具を使い始めます。とても印象的なシーンでしたが、そうした道具革命よりもさらに大きな革命が「認知革命」になります。
猿人のスペックを比べるのであれば、ホモサピエンスよりもネアンデルタール人の方が優秀だったとの研究があります。体が大きいだけでなく脳の容積も大きい。更にはスペインの洞窟にはネアンデルタール人の壁画が残されているそうで、芸術的なセンスもあったようです。それなのにネアンデルタール人は居なくなり他の猿人も全滅して、ホモサピエンスだけが繫栄しました。何故なんでしょうか。その原因となるのが認知革命だったのです。
認知革命を端的に説明するとしたら、「創造した価値をコミュニティで認知し合う力」と表現できます。少し長いので文節に分けて考えてみます。まず「創造した価値」についてですが、「価値」って何でしょうか。哲学者カントは「真・善・美」の三つを挙げましたが、人間が生きていくうえでより豊かになるものと解釈して良いと思います。真理も善行も美しさも人々が求めたい価値になりますが、お金も価値があります。お店で特売商品を見つけると、僕たちはより価値があるものとして認識します。
ところで買い物をするときお金を使いますが、このお金を犬に渡しても犬はその価値を理解できません。これがエサのように目に見える価値なら犬でも理解が出来ます。「豚に真珠」という諺がありますが、お金の価値も真珠の価値もこれらは人間が定義した価値になるのです。つまり、創造された価値。このようなホモサピエンスの仲間内でしか通じない価値はまだまだあります。絵画、音楽、数学、物理、道徳、物語、挙げだしたらキリがありません。古代においては、そうした創造された価値の最上位に「神」が居ました。
これらホモサピエンスに創造された価値は、コミュニティの中で共有されるときに最大の効果を発揮します。価値を共有できない動物社会では、コミュニティを形成するときにボス一匹の力に頼りました。圧倒的な腕力でハーレムをまとめ上げます。しかし、どんなにボスの力が強くても、組織の規模はそれほど大きくは出来ません。限界は150だと考えられています。ところが、ボスを「神」に置き換えると、コミュニティの規模は、1万でも10万でも際限なく大きく出来るのです。これが宗教の力でした。
古代社会において宗教の効果は、組織の結束に欠かせないものでした。コミュニティの中で神の存在を認知し合うという行為によって社会が発展していきます。同時に、人間が生きていくうえでの規範も提示しました。時代が進み、現代においては神や宗教に対する認識が変わりましたが、それに代わるものが誕生しています。近世では、啓蒙思想から資本主義や社会主義が生まれ、ナショナリズムの潮流は世界大戦を引き起こしました。現代で顕著な動きは、法律とお金とSDGsと個人主義とそれらのバックボーンとなるネット環境だと僕は考えています。
過去から現在において、創造された価値や信奉される価値は変遷しましたが、その構造は同じだと考えます。このようなホモサピエンスの世界において、生きていくうえでの幸福感も大きく影響を受けてきました。古代はコミュニティの価値が高かったので、仲間の為に命を懸けるという世界観が支持されました。現代では、自由と平等という概念がクローズアップされたので組織よりも個人の権利を守る動きが顕著です。価値の基準は変わっても、創造された価値の中に幸福を見出そうとする動きは一緒でした。
また今も昔も、価値あるものを自分に集めることで、幸福を実現しようとする行為も見られます。お金、宝石、地位、知識、体力、武力、芸術、人間関係、承認……。そうした個人の幸福に関係する価値に特徴的なのは、他者と比較できることです。多いか少ないか、強いか弱いか。そうした相対的な差を感じることで、僕たちは安心することが出来ました。
このように創造された価値と人類の関係を見ていくとき、コンピューターの世界と似ていることに気が付きます。コンピューターの世界は0と1を組み合わせた世界ですが、ここにルールを設けます。これが最初の価値です。それら価値を積み上げていくことでOSを作り出しました。OSは、コンピューター世界の宗教であり法律になります。OSが全体を管理するすることでコンピューター社会は円滑にプログラムを実行することが出来るのです。
「神」の存在をコミュニティの中で認知し合うことで、古代社会は成り立っていました。そのような認知革命に支えられた世界を否定するかの如く誕生したのが仏教になります。現代においては、神も仏も同じように考えられていますが、両者は全く別物になります。認知革命を破壊する仏教的な言葉を取り上げるとすると「諸行無常」になりますが、ここでは説明しません。仏教は「人間にとっての幸せは何か?」という問題に対して切り込んでいきます。端的には「悟り」を得ることを目的としました。僕自身、まだまだ概念的な理解に留まっているので「認知」の域を出ていませんが、悟りを得ることを成仏といい、悟りを得た人を「ブッダ」と呼びました。
聖徳太子の物語を書くとき、主人公である聖徳太子に、それまでに信じてきた世界の喪失感を感じてもらいたい。その喪失感を体験する出来事が丁未の乱になります。この時、若干14歳。この戦争の前後で、世界の認識が180度変えられます。変わったからといって、聖徳太子は幸せになるわけでありません。より苦しみながら、前に進んでいくことになります。そのような物語にしたい。
――現代において、このような物語に意味があるのか無いのか。
意味があると考えています。そのような物語を創造したい……。僕が紡ぎ出そうとしている物語も、結局のところ「創造した価値」になります。ホモサピエンス的な構造的世界の中で、僕も生きています。




