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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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今年の抱負……かな

 1月3日、朝の6時過ぎに玄関を飛び出してランニングに行ってきました。外はまだ暗いですが、空気が冷たく澄んでいて清々しい。自然と走るペースが上がります。少し息苦しいけど、気分が高揚してきました。ところが3kmを超えたところで、右足の不調が始まります。故障している足は左膝なのですが、今回は反対の足のアキレス腱が痛い。無理して走っていると右膝まで痛くなってきました。


 ――マジか~。


 大事を取って走るのをやめました。踵を返してテクテクとあるいて帰ります。道中で色々なことを考えていました。僕は常々「聖徳太子の小説を書く」と宣言しています。聖徳太子に関する基礎知識を勉強するために色々と本を読んできたのですが、知識だけでは物足りない。実際に現地に足を運ぶようになりました。僕は摂津市に住んでいるのですが、周辺は古墳時代や飛鳥時代に関係する史跡が多い。継体天皇の墳墓とされる今城塚古墳は勿論の事、スーパーカブに乗って奈良の明日香村も度々訪れました。他にも、物部守屋の拠点である八尾や、秦河勝の地盤である京都へと散策します。昨年の正月、急に思い立ってスーパーカブで伊勢神宮に行きました。そのまま2泊3日で紀伊半島を一周します。


 ――2泊3日なら遠方に行ける。


 仕事柄、長期的な休みが取りにくいのですが、祝日を使った2泊3日なら何とかなります。もっと史跡を巡りたい。昨年は、各地に遠征しました。ゴールデンウィークは丹後半島を巡り、お盆は出雲大社に赴きます。奈良から離れているとはいえ、聖徳太子の小説を書く上では、外せない地域でした。


 物部守屋の配下に捕鳥部万ととりべのよろずがいます。狩人である彼は、僕が小説を書く際の最初の主人公になります。彼がどのような生き方をしてきたのか分かりませんが、その一端でも理解したい。狩人のフィールドである山に興味を持つようになりました。また、日本における信仰の原点に山岳信仰があります。山に登ってみようと、急に思い立ちました。紀伊半島には登ってみたい山があります。それが大台ケ原でした。9月と11月とコースを変えて、2回も大台ケ原に登ってきました。12月に入ると、大峰山で有名な山上ヶ岳にも登ります。この時は膝まで埋まる新雪で、銀世界を堪能することが出来ました。


 とまー、昨年は本を読むというよりも、動き回って肌身で歴史を感じてきた1年でした。今年もどこかに行くかもしれませんが、どちらかというとじっくりと腰を据えて本を読もう。その様に考えています。


 走りながら考えていたことがありました。天照大御神、月読命、須佐之男命の三貴子は兄弟とされますが、天照大御神、月読命は天津神、出雲の祖となった須佐之男命は国津神になります。天津神は渡来系の人々で水田稲作を日本に持ち込んだと、僕は考えています。水田稲作という文化を日本に持ち込んだと言えば聞こえは良いですが、詰まるところこれは支配的な行為でした。神武東征の話はロマンがありますが、やっていることは武力的な支配です。


 で、須佐之男命はどうだったかというと、天津神と袂を分かって単身で出雲に赴きます。出雲には、青森、長野とも縁が深いとされる日本土着の出雲族がいました。その出雲族の櫛名田比売くしなだひめと結ばれ帰化します。水田稲作を伝え出雲の祖になりました。ある意味、天津神を裏切ったデビルマン的な立ち位置になります。同じ水田稲作を伝えたといっても、天津神の神武天皇と須佐之男命ではそのプロセスが違いました。暴れ者のイメージが強い須佐之男命ですが、僕は彼の行動にとても魅かれています。そんな出雲ですが、結局のところ国譲りによって天津神に下ります。


 第10代崇神天皇は、疫病を治める為に出雲の神である大物主を三輪山に祀りました。考え方は色々あると思いますが、単純に出雲が信奉する神の祟りを恐れたのだと思います。ただ、崇神天皇が凄かったのは、その事実を利用した事でした。祟り神を宗教的な権威にまで昇華して四道将軍を日本各地に遠征します。そのルートに沿うがごとく、前方後円墳が建設されていきました。


 僕なりには、前方後円墳は円墳と方墳がくっ付いたものだと理解しています。その真意は、天津神と国津神の結合。天津神が円墳で国津神が方墳くらいに考えていますが、このことに関しては明確な資料はありません。ただ、前方後円墳の形に大きな意味があったと思うのです。これは、和平の象徴であり、新たな宗教の誕生だったと思うのです。このシンボルマークが日本に流布していきました。


 日本の古代史を考える時に重要な立ち位置にいるのが継体天皇になります。皇族の血筋がこの時点で途絶えたかもしれないと議論の的になる人物になります。僕なりの見解では、皇室の血筋問題は飛鳥時代以降に重要視されたと思っています。もちろん血筋は大切なのですが、何故、血筋が大切なのかという議論がなされていない。血筋にこだわった理由は、先祖を祀る信仰の影響が大きかったのではないでしょうか。日本では、神様を数える時「柱」を使いました。どうして「柱」を使ったのでしょうか。


 「柱」は、家を支える大事な支柱になります。古代の日本は様々な豪族が存在していたのですが、豪族にはそれぞれの神がいました。その神とはご先祖様なのです。豪族の統領が亡くなると、神となって一族を護ると考えられていました。だからご先祖様の系譜が口伝として伝えられてきたのです。ご先祖様なのだから、その加護は子孫にしか反映されません。当時の価値観として、一族を率いていくうえで神であるご先祖様の権威は重要でした。大和王権ともなると、多くの豪族を従えなければなりません。各地の豪族は、大和王権に従っているのではありません。崇神天皇から続く、大和王権の「神」に従っているのです。その神を手放してしまったら、大和王権の地位は崩壊です。


 そのような背景の中で、継体天皇が担ぎ出されました。ただ、継体天皇は応神天皇の5世の子孫ではありますが、生まれは滋賀県高島郷になります。その後、越前を統治する王になりました。この地域は海部族の支配地域であり、出雲とも縁が深かった。つまり、継体天皇は国津神が支配する地域の王でもあったわけです。それまでの天津神の傾向が強かった大和王権が、継体天皇以降では国津神の色が濃くなるのです。


 継体天皇の動きについては諸説ありますが、僕は大阪北部に拠点を築いたことに注目しています。天皇になったのに大和に入らなかったのは、北部地域で軍部を増強していたからと考えています。そのような継体天皇の息子に欽明天皇がいますが、この御代にこれまでの歴史に登場しなかった蘇我稲目が突然に表われ、天皇の片腕である大臣に抜擢されました。こいつ、誰やねんって話です。これには諸説あります。ありますが、蘇我一族の出自を確定させない事には、僕は小説を書けません。色々と文献は手にしているのですが、まだ読めていません。これらの書籍を中心して読み込むというのが、今年の僕の抱負に……なるのかな。


 他にもやってみた事があるんですよ。山登りに興味を持ったので、もっと難しい山に登りたいとか。狩人の生活を知りたいので、そのことを調べたいとか。それこそ弓を引いてみたいとか……。


 最近は、ゲーム「NieR:Automata」をやり込んでいるのですが、これも聖徳太子の小説を書くためです。このゲームって主人公が3人もいるんです。3人の視点から世界観を俯瞰するという手法は、僕が小説で行ってみたいことでした。なるほどな~と感心しながら、世界の作り込みを堪能しています。


 僕はまだまだ何も知らない。もっと色々なことを知りたいし、作品として昇華したい。作品完成のゴールは60歳と考えていますが、案外と時間は少ないぞ。

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