味覚と小説と山登りと
人間は食事をするとき、五つの味覚でもって美味しさを理解しているそうです。その味覚とは、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味になります。現在の僕はたぶんコロナの影響でしょうが、味覚障害になっています。これら味覚のうち、甘味、酸味、塩味が良く分かりません。毎日、晩御飯を作りながら感じていますが、甘味、酸味、塩味は、味覚の柱です。何を食べても美味しくない。だから晩御飯を作る時も味見が出来ません。経験値で大体の味付けは出来るのですが、最後のさじ加減は息子にお願いしています。鍋や餃子、お好み焼きといった料理はポン酢やソースで食べるので、味付けの過程が省かれて、とっても楽です。
そんな僕の味覚ですが、苦味、うま味は分かります。日本茶が美味い、コーヒーが美味い、焼酎が美味い。先日、ラム酒が飲みたいと思い、BACARDIのBLACKを買いました。このバカルディがすこぶる美味い。ロックで飲んでいるのですが、ついつい飲みすぎてしまう。嗅覚は通常運転なので、香りを楽しむ嗜好品にドはまり。今回の味覚障害で、美味しさの解像度が一段階、上がったような気がします。来週以降は、味覚障害が段階的に回復していくと思うので、総合的な美味さについてもう少し深く感じてみたい。
最近は大台ヶ原関連の文章ばかり書いていますが、現在の文章は絵画でいうところのデッサンみたいな位置づけと考えています。大台ヶ原と僕の人生をクロスさせた内容を、あーでもないこーでもないと頭を捻りながら文字にしています。一通り書き終えたら、全て推敲しなおして、一本の完成した小説にするつもりです。そんでもって、どこかのコンクールに応募します。
ポリシー的には、コンクールに応募するのは嫌なんです。以前に、なろうコンで最終選考に残ったことがあります。あの時は、受賞するのかどうかで一喜一憂してしんどかった。誰かに評価されるのは嬉しいことですが、その評価を欲している僕が嫌なんです。小説に限らず芸術という作業は、二つの方向性があると考えています。商業的に成功する作品を目指すのか、自分だけが納得する作品に徹するのかです。
一般大衆に喜ばれる作品を目指すのならコンクールは重要です。受賞すれば道が開かれます。ただコンクールという存在は、商業的に出版社が利益を得るためのツールだと考えています。小説を書く目的が受賞するためになってしまうと、僕の中の価値観が歪んでしまいそうで怖い。
僕は、いま感じていることを表現したい。僕という人間をどこまでも掘り下げていく作業に徹したい。結果的に評価されたとしたら、それは素直に嬉しいです。結果は後から付いてくる。この姿勢で臨みたい。今は精進あるのみなのです。
と言いつつ、力試しをしたい僕もいます。現在の僕がどのように見られているのか、正直なところ関心があります。僕の文章は大衆受けはしません。そんなことは自分が一番わかっています。それでも、面白いと感じてくれる読者がいるのであれば励みになります。
僕は、芸術という作業はコミュニケーションだと考えています。発信する僕と、受け手の大衆。発信する僕の文章は、稚拙ではいけません。結晶化した光り輝くダイヤモンドでありたい。今は石ころですが、磨き続ければ、いつかはものになるかもしれません。
来週、また山に登るつもりです。樹氷を見てみたい。登山靴に装着するチェーンスパイクを購入しました。準備は進めています。場所は、奈良の天川村の周辺になります。どの山に登るのかは、まだ検討中です。何故かというと冬季の道路閉鎖が始まっていて、登れるのかどうか、いまひとつ状況が分からないからです。第一候補は標高1915mの八経ヶ岳ですが、この山は多分登れない。第二候補として、標高1719mの山上ヶ岳を考えています。山頂はすでに雪だらけで、登山の難易度は上がっています。十分に気を付けたい。そんな僕の話をお客さんとしていたら、面白い提案をしてくれました。
「山の上で、美味しいコーヒーを飲んだら?」
最高の提案、ありがとうございます。ナップザックに、コーヒーセットを積んでいきたいと思います。風がビュービューと吹き荒ぶなか、樹氷に囲まれながら、お湯を沸かして、豆を挽いて、熱いコーヒーを淹れる。想像するだけで最高のシチュエーション。いや、日本茶にしようかな、ついでにラム酒も持っていく?




