④雲海
目が覚めた。スマホに手を伸ばして時刻を確認する。液晶の眩しさに目を細めた。朝の3時。もう起きなければならない。普段の朝ならグズグズして布団に包まっているのに、すぐに寝袋から飛び出した。ジッパーを走らせてテントの入り口を開放する。靴を履き表に出た。立ち上がって大きく伸びをする。見上げると、相変わらず数えきれない星々が夜空を埋め尽くしていた。
野宿の朝は、コンロで湯を沸かしインスタントラーメンを食べるのがいつものパターンだった。ただ、今回は食べない。大台ヶ原で日の出を見るために、出来るだけ早く出発する必要があったからだ。日の出の時刻は、5時31分。残された時間は、あと2時間半。それまでに大台ヶ原にあるビジターセンターにスーパーカブを停めて、更に日出ヶ岳まで登らなければならない。うかうかしていると間に合わない。
使用したテントと寝袋は、寒暖差によって湿気ている。いつもなら朝食の間だけでも乾かしていたが、今回は時間がない。タオルでテントの表面を拭いた。朝露でタオルがグッチョりと濡れる。乾かすことは出来ないがそのまま強引に収納袋に収めてしまう。手早くパッキングを済ませて、ヘルメットを被った。相棒にキーを差し込み、エンジンをかける。ヘッドライトが点灯し、暗い森が照らされた。
吉野川に沿った国道169号線を使って、川上に向かって登っていく。真っ暗な山道では、スーパーカブのヘッドライトの光量は弱すぎて前方を照らしきれない。せめて満月であれば闇夜でも視界が良好なのに、今夜は新月だ。前方が不確かなためスピードを上げるのが怖い。真夜中の奈良山中。走っているのは僕だけかと思っていたら、後方からトラックが迫ってきた。エンジン音を響かせながら、僕を追い抜いていく。釣られるようにして、僕もスピードを上げた。トラックの赤いテールランプが道標になりとても走りやすい。離されないように追いかけた。下り坂で追いつくことが出来ても、上り坂では離される。しばらくトラックとの追いかけっこを楽しんだ。しかし、長い上り坂がはじまった途端、離されてしまう。赤いテールランプが小さくなっていき、また一人になった。
大迫ダムを越えた辺りから、気温の低下を感じた。前方が良く見えない。視界がぼやけている……霧だ。安全のためにスピードを落とす。しばらく走っていると、目の前に黒くて大きな口が迫ってきた。栗の木トンネルの入り口だった。比較的新しいトンネルのようで、内部の照明が明るい。走りやすいが、延々と上り坂が続くトンネルだった。僕のスーパーカブではスピードが出ない。ノロノロと走っていると、左にどんどんと曲がっていく。トンネルを抜けるとパッと開けた。そこは白い霧の世界だった。
大きな谷間を左に弧を描きながら橋が伸びている。霧は濃さを増しており谷底は見えない。まるで雲の中を走っているようだ。橋の縁に沿って街灯が等間隔に並んでいる。橋を上から照らしているが、霧によって光が乱反射していた。背の高い街灯の光が、まるで強大なタンポポの綿毛のように見える。白く丸く、ボーッと光っていた。強大なタンポポを見上げながら、白い世界を走っていく。橋の上を走っているのか、空を飛んでいるのか判別がつかない。幻想的で、メルヘンチックで、この世とは思えなかった。また、黒くて大きな口が迫ってくる。僕のスーパーカブはまたトンネルに飲み込まれた。
トンネルを抜けてからは、ずっと霧の世界が続いた。スーパーカブのヘッドライトでは視界が悪すぎる。分岐点にやってきた。看板を確認する。右に曲がると大台ヶ原ドライブウェイと表示されていた。いよいよ、大台ヶ原だ。しかし、登山口までまだ20kmもある。スピードを上げたいところだが、急な上り坂のためスピードを出すことは出来ない。ギアを1速に落として走り続ける。狭い道だった。車での双方向が難しいくらいだが、車の往来はない。右に左にと連続するカーブを曲がっていく。
しばらく走ると、道が広がった。山の尾根に沿って道が続いている。起伏も緩やかになり走りやすくなった。アクセルを回す。グングンとスピードを上げながら気が付いた。霧が晴れている。更には太陽が昇り始めており、前方が白ばみはじめていた。右手の谷底を見ると、白い雲で満たされている。雲海だ。どうやら雲の層を突き抜けたようだ。見上げる空に雲はない。
走りながら、大きく息を吸った。初めて見る雲海に、ただ見惚れていた。同時に焦りが生じる。最大の目的は、日出ヶ岳で日の出を見ることだ。緩やかなワイディングロードを、車体を傾けながら走る。一分でも一秒でも早く到着したい。大台ヶ原ビジターセンターまで、あともう少しだ。




