物語のイメージ
ここ最近は、出雲での旅行記を書いていましたが、今日は休憩して、今ぼんやりと考えている聖徳太子の物語のイメージを備忘録的にご紹介したいと思います。
有吉佐和子の「悪女について」という作品をご存じでしょうか。謎の死を遂げた女実業家である富小路公子の一生について、公子と関わった27人の人々にインタビューした内容だけで物語が構成されています。この物語の面白さは、人によって公子に対する評価が全く違うことでした。詐欺だペテン師だと悪く言う方もいれば、まるで女神のように慕う方もいるのです。インタビューでありながら、主人公は紛れもなく富小路公子になります。若い頃に読んだので内容は覚えていませんでしたが、構成の面白さに、膝を打ったものです。
漫画の神様である手塚治虫のライフワーク「火の鳥」をご存じでしょうか。というか知らない人は居ないのではないかというくらいに有名ですね。初めて読んだのは僕が小学校4年生の頃でした。読んだ時の衝撃は、今でも忘れられません。永遠の命を通して、人間の幸福について考えさせられた物語になります。全11巻の構成は、過去と未来を行ったり来たりしながら、現代へと向かっていきます。一説によれば、発表されなかった最後の主人公は手塚治虫本人だったとの話もあります。とにかくスケールが大きな作品で、全編を読むことで千年万年という単位で人類の栄枯盛衰を感じることが出来ます。それぞれの物語には、ナギ、猿田、ヤマトオグナ、我王、レオナといった主人公が存在するのですが、全編を通してのテーマ的主人公は火の鳥になります。
これら二つの物語に共通するのは、様々な物語が一人の主人公を中心にして巧みに関係しあっていることです。それぞれの物語は、単体でも十分に読み応えのある物語でした。それぞれの主人公が己の正義のために藻掻いています。藻掻けば藻掻くほど、富小路公子や火の鳥の存在感が大きくクローズアップされていきました。素晴らしい構成です。僕も真似たい……。
当初は、大河ドラマ的に時系列に従って聖徳太子の物語を書くつもりでした。でも、それだと、聖徳太子の視点だけに偏ってしまい、スケールの大きな物語にし難いことを感じました。正義というのは、立場によって変わるものです。様々な立場から、聖徳太子を考察する方が面白いと思うのです。
差し当たって、最初の主人公は以前にもご紹介した捕鳥部万にしたい。彼は狩人で、弓の名手になります。腕を乞われて物部守屋の重鎮として活躍するのですが、丁未の乱のおり殺されてしまいます。大和王権のために働いてきたのに、蘇我馬子のクーデターによって大和王権によって殺されてしまいます。日本書紀に記されている彼の最後の言葉をご紹介します。
「万は、天皇の楯となり、その武勇を示そうとした。しかし今、誰もそれを問い質すことはない。反対に窮地に追いやろうとしている。共に語る者は来るがよい。殺すのか、捕らえるのか、それを聞きたい」
正義について考えさせられるセリフです。彼は、一介の狩人でした。そもそも政治闘争には無関係だったのです。そんな万さんには、一庶民の目線から古代の生活習慣やアミニズム的な宗教観を読者に紹介する役割を担っていただきたい。当然、聖徳太子とも絡んでもらいます。初期の段階では、話すことも憚られる高貴な存在として聖徳太子が登場しますが、後半は万さんが憎む相手に変わっていきます。
他にも、聖徳太子と同い年で日本で初めて尼さんになった善信尼や、聖徳太子のお母さんである穴穂部間人皇女、善信尼の甥で仏師として名を馳せた鞍作止利といった面々も主人公として描きたい。それぞれの話は、独立していて一つの物語として完結させます。読み切りとして一つの物語を楽しむこともできますが、全編通して読むことで、聖徳太子が何を考えていたのかを、大きなスケールで感じれる作品にしたい。最後の主人公は、聖徳太子になります。自分の半生を思う存分に語っていただきたいと思います。
とは言いつつ、まだボンヤリとしたイメージだけです。今は、勉強あるのみ……なのです。




