性的嗜好
今回は、性について少し込み入ったお話をしたいと思います。最近、NHKスペシャル「性の欲望 デジタル技術“解放”か“堕落”か」を拝聴しました。司会進行は俳優の鈴木亮平になります。鈴木亮平といえば、最近ネットフリックスの実写版「シティーハンター」を見たのですが、あの物語の主人公である冴羽遼を演じていました。視聴した多くの方が認めるはまり役で、スケベでモッコリな冴羽遼そのものでした。そうした印象が残ったまま、NHKでは鈴木亮平が性のことについて真剣に語っているのです。これもまた、はまり役でした。性というのは、どこかオブラートに包んでしまいたい内容になります。はっきりと口に出せない。それだけに、スケベで性に素直な冴羽遼が性について語るというのは説得力がありました。
ナレーターが淡々と語り続けるNHKスペシャルですが、内容は性になります。性といっても話題の中心は「セルフプレジャー」、僕たちの世代でいうところの「オナニー」でした。セックス以上に語りにくい内容になります。僕が子供の頃は、原っぱの隅っこにエロ本が落ちていることが良くありました。現代のようにインターネットやコンピューターが発達していないので、当時のおかずといえばエロ本が中心だったのです。僕が記憶する困難な冒険も、朝の6時ごろに自動販売機でエロ本をゲットしたことでした。ドキドキワクワクで、周りに人がいないことを見計らって、自販機に千円札を押し込んだ記憶があります。当時は中学生でした。
現代のおかずは、エロ本という古代遺物もありますが、最も普及しているのはネットポルノになります。スマホやパソコンで、手軽に動画や漫画を視聴することが出来ます。番組冒頭で子供のころからネットポルノ依存症になってしまった男性が紹介されます。その弊害は、女性との性行為における勃起不全でした。
――ん! これって俺のこと?
実は、僕も体験者でした。「子供が3人もいながら、何を言う~」って、ツッコミを入れられそうですが、そうした僕を妻が認めてくれたから、僕は結婚することが出来ました。詳細は語りませんが、女性が嫌いなわけではありません。むしろ好きです。目が合わせられないくらいに、女性のことを意識する僕がいました。当時の僕にとって、女性との絡み合いは僕の想像の中でしか存在していません。現実の女性との性行為にいたると起たないのです。
個人的な分析になりますが、僕は超が付く独りよがりだったと思います。性の刺激だけなら、現実の女性を相手にするよりも、想像の世界のほうが100倍も刺激的でした。夢のような世界、ファンタジー。現実に女性と対峙するのは、ストレスでしかありません。そんな僕を受け止めてくれたのが、妻でした。初めて、自分以外の他人を意識した瞬間かもしれません。妻をやたらと持ち上げていますが、彼女は聖女ではありません。妻も心に傷をもった人間だったのです。互いに歩み寄った歴史が僕たちの結婚生活だったと、今更ながらに感じています。
番組のテーマがAIと性の関係から、人間の二足歩行と性の関係に移っていきます。動物と人間の性行為について、その違いを見ていきましょう。人間以外の動物には繁殖期があります。メス側が、オスの精子を受け入れる準備が整った時期になります。メスは、体に婚姻色が現れたりフェロモンを漂わせました。その変化に、オスの性行動が刺激されるのです。このように、動物の性は種の保存に直結しており、繁殖期以外は性行動を起こしません。――厳密にはマウント行為を含めて、疑似的な性行為は見られるそうですが。
猿から進化したとされる人類は、二本足で立ちあがることで両手が使えるようになります。道具を使うという行為が人間の脳を刺激して、人類の発展に大きく寄与しましたが不具合もありました。それが、出産になります。四つ足と比べて二本足は、構造的に産道が細くなります。つまり、生み出される子供が小さくないと出産が出来ませんでした。多くの動物の赤ちゃんは、誕生と同時に生きるための最低限度の能力が備わっています。対して、人間の赤ちゃんは、目は見えないし歩けない。母親が育ててやらないと直ぐに死んでしまします。
子供が生まれてからも大変でした。母親は、子供に母乳をあげるなど24時間つきっきりで育てなければなりません。その母子を護るのが父親の役目になります。居住施設や食料を、母子のために用意するために働きました。人間の場合はその期間が長い。子供の成長に時間がかかるからです。不謹慎な話になりますが、父親は、母子を見捨てて養育を放棄することもできます。ここで、父親と母親の関係性を繋ぐために、性が独自に進化しました。繁殖期という束縛がなくなり、自由に性行為を行うことが出来るようになります。種の保存の性行為から、楽しむための性行為に変化したのです。そうした性行為が、父親と母親が愛情を確かめ合う手段として利用されました。
この自由になった性衝動は、思わぬ副産物を生み出しました。それが、セルフプレジャーになります。本来は、種の保存の為に性行為が存在していました。性行為にはオスとメスが必要です。しかし、セルフプレジャーは個人で完結するのが特徴でした。セルフプレジャーは一人で行うので、何かしらの性的な関心を高める対象が必要になります。現代であれば、エロ本であったりネットポルノでした。
――あなたは、何を見て興奮しますか?
下品な言い回しになりますが、男性であればオッパイやお尻を見て興奮するのは自然です。女性であっても、イケメンに想像を膨らませるのでしょう。でも、もっともっと詳細に見ていくと、SMであったり、ショタコンであったり、略奪愛であったりシチュエーションに興奮したりもします。このように個人レベルに落としていくと、性の対象は多岐にわたります。このような性的対象の多様化は、性的な嗜好の違いと考えることが出来ます。この性的嗜好の特徴は、自分本位で一方通行でした。男と女が性行為をするという従来的な概念から大きく乖離しています。
過去の歴史を振り返ると、同性愛も、近親相姦も、羊との獣姦も個人の性的嗜好が具現化した姿と捉えることが出来ます。生身の女性ではなくフィギアに性的衝動を覚えるのも、僕がエロ本に執着したのも、個人的な性的嗜好でした。また、NHKの番組では、AI的に発展したダッチワイフと性行為をする風俗店が紹介されます。他にも、ネット世界で生成された理想の男性と、性的な会話をすることで満たされる女性も紹介されていました。これら全てが、個人レベルの性的嗜好を満たすための行為だとみることが出来ます。
僕なりの見解ですが、これらはすべては消費される性であり、性の代替品だと考えます。種の保存から独立した性行為は、確かに独自の発展を遂げてきました。それを否定するわけではありません。僕には僕の性的嗜好があり、その性的嗜好は僕という個人を形作っているピースの一つになります。今更否定できるものでもありません。
ただ、それでもなお、人は人とのつながりを求めようとしている存在だと考えるのです。在るのか無いのかは別にして「絶対の愛」的なものに、多くの人が憧れています。古今東西の物語には、必ず「愛」が描かれていました。なぜなら、それは人と人とを繋ぐ大切な感情だからです。仲間を護る英雄譚も、姫を助け出す王子様の物語も、子供を護るために罪を犯す親の話も、そこに「愛」があるから感動します。
行き過ぎたセルフプレジャーは消費される性行動ですが、その先に求めているのはやはり「愛」なのでしょう。セルフプレジャーは一方通行の愛です。僕は、このことに気づくことが大切だと考えます。愛情とは、相手の存在を認める行為です。自分の一方的な愛を押し付けているだけなら、セックスをしていたとしてもそれはセルフプレジャーに他ならない。お互いに心を交換して混ざり合い、認め合う。そんな関係を維持するための性行為が出来れば、とっても素晴らしいと思います。




