熟成中
最近は、歴史に関する記述が進んでおりません。もし、心待ちにしている方がおられましたら、すみません。勉強は進めております。ただ、文章にできるような内容は、まだ僕の中にインプットしきれておりません。色々な情報を詰め込んで、グルグルと混ぜ込んで、熟成されていくと、僕の中から溢れだそうとします。その時になれば、怒涛のように文章化できると思います。
今、勉強している個所は、聖徳太子が20代の頃の軌跡になります。その頃の社会的変化の最大のトピックは、建国した隋の朝鮮半島に対する圧力になります。聖徳太子が25歳の時には、隋が高句麗に侵攻して戦争が始まりました。高句麗は隋の30万の軍隊を撃退し勝利するのですが、だからといって隋の脅威が収まったわけではありません。勝利したはずの高句麗は、隋に対して謝罪を行い従う姿勢を見せます。隋を刺激することは国益を損なうと判断したのでしょう。
高句麗の脅威は隋だけではありません。南にある新羅も脅威の対象でした。この新羅を制圧するために、高句麗は百済と日本と同盟を組み新羅征討を計画します。日本は、日本初の寺院である法興寺の建設のために、高句麗から僧や技術の援助を受けていました。同盟国である高句麗からのこの提案を無下に断るわけにはいきません。また、新羅征討という軍事行動の対価として、欽明天皇から悲願である任那復興が現実味を増すのです。
聖徳太子が29歳の時、実の弟である来目皇子を将軍として2万5千の軍隊が編成されて筑紫に派遣されました。いよいよ戦争が始まるというその直前で、来目皇子は病気のために薨去されます。結局のところ、日本は新羅征討という軍事行動に参加しませんでした。この後に、冠位十二階や十七条憲法が制定されていくのですが、そうした国家の柱を打ち立てていく政策とこれらの国際的な緊張感は無関係ではないと思います。
このような歴史的事実の中で、聖徳太子がどのような考えを持っていたのかを考えるとき、仏教的な思想は無視できません。この部分に、僕は非常に関心があります。従来の大和王権が考えていた思想と、仏教的な思想には当然大きな違いがあります。それらの思想を比較することで、聖徳太子が何を考えていたのかという精神性に迫りたい。
これに関しては、まだまだ言語化できません。というか、そうした精神的なカルチャーショックを表現するために小説を書こうと考えています。思想は、体系的に論述することは出来るけれども、そうした文章はとても表面的です。思想は、感情から生まれてくるものです。深く傷ついて、悲しんで、後悔して、どうしようもないやるせなさの中から、生きる希望として生まれてきたものが、僕なりには本当の思想だと思います。僕は聖徳太子にはなれませんが、それを疑似体験できる小説なら、もしかすると書くことが出来るかもしれない。そうした希望を持っています。




