物語性
2週間ほど前に、動画編集に取り組んでいることをお伝えしました。スマートフォンで撮影した動画をパソコンに落として、AviUtlという動画ソフトで編集します。ソフトの基本的な操作方法は理解できたので、ため込んだ動画を切り貼りして繋げていっているのですが、これが面白い。
内容は、地域コミュニティーに集まる皆さんの笑顔を集めて編集しています。ご年配の方から小学生の子供まで幅広い世代が集うのですが、スマートフォンで撮影した多くの動画データは時間も場所もバラバラなうえに、家族というような強い血縁関係でもありません。同じコミュニティーという共通項があるだけです。そうした家族に比べると薄い繋がりのコミュニティーから、一本のドキュメンタリードラマを作成するというのは、結構難しい。
例えば、家族で観光旅行に出かけた場合の写真アルバムというのは、特に凝った編集をしなくても家族にとっては価値があります。写真がバラバラに貼り付けられていたとしても、既に体験した物語が記憶として残っているのでページを開くたびに頭の中でドラマが再生されます。ところが、僕が作ろうとしているドキュメンタリー動画は、そうした強い繋がりが無いうえに共有できる体験も少ない。
半月後に皆が集まるので、その時に皆で視聴します。是非とも、喜んでいただきたい。バラバラの動画素材を組み合わせていく作業は、ジグソーパズルに似ていると思いました。ただ、ジグソーパズルと違うのは、僕の動画編集は完成図がありません。動画を繋ぎますが、意味もなく繋ぐだけでは全く面白くありません。僕なりに面白い完成図をイメージして、動画の並べ方を考える必要があります。あれこれと作業をしながら、物語性を持たせることが重要だと気づきました。これは、小説を書くこととまったく同じです。
そうした作業をしながら、人間には物語が必要なんだと感じました。以前に、ハラリ著「サピエンス全史」を読んだことを紹介したことがあります。あの本の最初の山場は、虚構を信じるという認知革命でした。猿が人類に進化する為には骨格的な変化だけでは駄目で、虚構を生み出しお互いに認識し合うという精神面での変化こそが必要でした。その最初の虚構が「神」であり、その神を神話として表現したものが「物語」だったのです。
人間というのは単純なもので、因果関係が明確な物語を提示すれば信じることが出来ます。トラックにはねられて死んだら異世界に転生するという物語があります。異世界では、魔法だったりエルフだったり現実世界とは全く違う世界が展開されるのですが、僕たちはそうした世界観を苦も無く楽しむことが出来ます。これは物語の力です。
他にも、木から林檎が落ちた時、ニュートンは万有引力の法則を発見しましたが、これも物語です。事象の変化をつぶさに観察して、万有引力があるのかどうかは分からないが、そのような物語を信じたほうが分かりやすかった。僕は専門家ではないので適当なことを書きますが、アインシュタインの相対性理論の出現により、万有引力の解釈がアップデートされました。でも、僕たちが生きていく上では、ニュートン的な万有引力の法則という物語で十分なわけです。
動画編集において物語性を持たせるというのは、因果関係をはっきりさせるということに通じます。例えば、道端で転んだ人を客観的に見ている人がいたとします。何故転んだのか原因が分からない場合は、首を傾げるしかありません。ところが、転んだ人の足元にバナナの皮が落ちていると、笑いに転じることが出来ます。バナナの皮という原因と、転ぶという結果が、物語として繋がるからです。
僕は、地域コミュニティーに集まる皆さんの笑顔を集めました。しかし、編集においては、
――なぜ、笑顔なのか?
という原因をあらかじめ提示する必要があります。現在、その為の素材を新たに集めています。動画編集をしてみて、その構造は小説を書くことと似ていることに気づきました。かなり面白いです。




