政教分離
池田大作先生が亡くなられました。ご冥福をお祈りします。このことに関連して19日夜、岸田首相が創価学会本部に弔問しましたが、その記事に対して批判が多く集まっています。その理由が政教分離に反している――というものでした。これまでに統一教会と政治の関係が注目されていましたので、ことさら宗教に関して国民がナイーブになっています。今回は、この政教分離について僕なりの所感を述べたいと思います。
まず最初に、批判する多くの方は「政教分離」という言葉の意味を理解していないと考えます。政治と宗教は分離すべきだという意味ではその通りですが、分離ってどのような状態の事ですか? 何かしらの宗教を信仰している人を政治の世界から除外することでしょうか。それとも、政治家が宗教関係者に関わることでしょうか。多くの方は、感覚的にこの「政教分離」という言葉を使っているように思います。ここで少し歴史をさかのぼってみます。
もともと、政治と宗教は分けることが出来ないくらいに密接でした。政治のことを「政」――まつりごと――といいますが、これは「祭」から来ています。僕が勉強している古代社会は正にそうでした。祭祀によって、国の運営を行っていたのです。ところがこの政治の世界が、国家運営を行う政治部門と、儀式的な祭祀を行う宗教部門とで分離されていきました。長らくずっと分離されていたのです。この分離されていた政治と宗教が結びついたのが明治維新になります。天皇のもと大日本帝国憲法が制定され、日本国民は天皇の子供になりました。
この関係は、当初はうまく機能していたようです。日本の国力は飛躍的に向上していきました。日露戦争に勝利した日本は、今度は太平洋戦争に突入します。圧倒的な戦力差に疲弊する中、日本の軍部政府は天皇を旗印にして神風を信じました。戦争に反対する人を非国民と断じて、より戦争に加担することを強要します。天皇の為に死んでいくことが、国民の道だと説きました。2発の原子爆弾が落とされて、日本は敗戦します。この経験を踏まえて、政教分離が行われました。
――これらの歴史を踏まえて、政教分離って何ですか?
宗教というのは、ある特定の集団を強固に団結させる力があります。軍国主義の日本は、その力を使って日本をまとめ上げました。これが問題なのです。政教分離とは、国が国民に対して宗教を強要しないことなのです。別の言葉で表現すると「信教の自由」になります。これがまず基本的な考え方です。宗教はそれ単体では何もできません。言うなれば宗教は道具です。道具は人間が扱うものです。宗教だけでは何もできません。悪いのは、宗教を利用した軍国主義のリーダーたちです。だから、岸田さんが弔問することぐらい何ら問題はありません。
ただ、政教分離にはもう一つの側面があります。それは、お金のやり取りです。何かしらの便宜を図るために、両者にお金のやり取りがあれば、これは大いに問題があります。でも、これは宗教に限ったことではありません。企業や何かしらのコミュニティーであっても、これは選挙違反になります。
戦後、多くの新興宗教が雨後の竹の子の如く誕生しました。中にはオウム真理教のように、国民に害をなした宗教もあります。だから、現代の日本は宗教に対して何かしらの不信感を持っています。
――何だか良く分からないけど、怖い。
この何となくの気分が、政教分離という四文字言葉に乗っかりました。「よく分からないけど、分けてしまえ!」みたいな感覚だと推察します。ただ、ここで考えて欲しいのは宗教が持つ思想性なのです。この思想の高低浅深について、多くの国民は留意しない。100万円の壺を買ったからといって幸せは舞い込んではきません。そんなことを唱える宗教は詐欺だ!――と見破る目が僕たちに必要です。ここから先は、政教分離とは違う話になるので展開はしません。
村八分。イジメ。仲間外れ。僕たち人間が、つい行ってしまう行為です。西欧では、魔女狩りもありました。自分たちが所属するグループの結束を固めるために、誰かを生贄にする。過去から何度も繰り返されてきた行為です。誰かを犠牲にすることに論理性は必要ありません。何となくで構わないのです。ただ、このグループの決定に従わなければ、今度は自分が生贄になる。そんな恐怖感が、人を倫理的ではない行為に向かわせます。
僕たちに必要なのは、正しく物事を見ようする姿勢だと思います。正しく見るということが難しくても、片方の意見のみに踊らされてはいけない。それでは一方的な正義になってしまう。政教分離と叫ぶ行為に、僕は一方的な力を感じます。