夜釣り
友達の定義って人によってまちまちだと思います。一度遊んだことがあるだけでも友達だと認識していたり、酒を飲むときだけ連れ歩く知り合いを飲み友達と呼んでみたり。どこまでが友達なのか、簡単には分けることが出来ません。それでも「親友」の定義であれば、おおよそ皆のイメージは似通ってくるのではないでしょうか。
僕は友達付き合いが苦手でして、子供の頃から自分から人間関係を広げようとはしません。そんな僕ですが親友はいます。彼と一緒にいてストレスは感じませんし、自然体で付き合うことが出来ます。何かと面倒くさがる僕の挙動もよくご存じで、そんな僕を上手くリードしてくれます。50歳を超えましたがお互いにまだまだ意気軒昂で、再び音楽に取り組み始めた彼のことを僕は尊敬しています。これからも末永く付き合っていきたい。そんな親友から仕事の手伝いを頼まれました。即答でOKです。その後、二人で夜釣りに行きました。
釣りそのものは僕の趣味ではありませんが、彼からの誘いで色々な釣りを経験しています。バス釣りに始まって、渓流釣り、投げ釣り、ヘラブナ釣り。今回は、波止での夜釣りです。そんな僕が釣りに行く話を、前日のことですが職場にいる釣りバカに語りました。釣りバカが珍しそうに、僕に問いかけます。
「波止で、何をねらうんや?」
「メバルかな?」
「道具はあるんんか?」
「ああ、友達に延べ竿を用意しておけって言われた」
「延べ竿! リールは?」
「使わない」
不思議そうな顔をされました。リールがあれば、棚を色々と探れます。投げることも出来ます。より効果的な釣果を期待できます。でも、僕の親友は、延べ竿一本で魚を釣ることにロマンを感じていました。釣りに対してこだわりのない僕は、それに従います。用意した長い渓流竿に電気ウキをセットして、夕日に沈む大阪湾に向かって糸を垂らしました。
真っ黒な海面の上を、風が流れています。弱弱しいさざ波が起きて、赤い電気ウキの光を線香花火のように散らしました。その様子を、僕はただジッと見つめるのです。その見つめる行為に集中しました。自分がその発光する赤い点になってしまったような感覚に襲われます。ユラユラと波に揺られていると、グッと赤い点が沈みました。慌てて、竿を引き起こします。ブルブルとした振動が僕の手に伝わりました。ヒットです。
魚が走り回り、竿がしなる……そんな大物なら良かったんですけど、小アジでした。でも、嬉しい。その後も、小物ばかりが釣れました。手のひらサイズのメバルが今日一番の大物です。親友は、石鯛の子供であるサンバソウを釣りました。延べ竿だけでは引き上げることが出来なかったので、僕がタモを掴み掬いあげます。大きな黒い縦じまの美しい魚でした。水族館で泳いでそう……。
これまでは親友のことを、大物を釣り上げる事や釣果の結果に対して貪欲な奴だと思っていました。ところが、最近の親友からはそうした必死さを感じません。釣れても釣れなくても構わない。そうした姿勢すら感じます。釣りの道具にしてもどんどんと簡素化していき、竿と糸と針だけになりました。釣りをしてるその行為そのものを楽しんでいる。そんな感じがしました。
親友が繰り返し読んでいた小説があります。ヘミングウェイの「老人と海」です。ご存じでしょうか。運のない漁師の話です。不漁続きで貧乏な老人が、船を漕ぎ漁に出かけました。カジキマグロが掛かるのですが、あまりにも強大すぎて船が引っ張られます。三日間にもわたる格闘の末に、銛を打ち込み捕獲しました。しかし、そのカジキがサメに襲われ食われてしまうのです。疲れ切った老人は、家に帰り眠りに落ちました。次の日、老人の代わりに悔しがる少年に対して、老人は一緒に釣りに行くことを約束します。
夜釣りは楽しかったです。ただ僕の場合は釣りよりも、ビールを飲みながら親友と語り合えたことが楽しかったです。