王宮と生産遺構の大規模化
前回は、王宮の名前と名代・子代の名前に関係性がある話を紹介しました。今回は、その王宮の特徴から、話を発展させていきたいと思います。大和王朝は、奈良の纏向や飛鳥が有名ですがそれだけではありません。京都の宇治には菟道宮がありましたし、大阪の上町大地の北端には難波高津宮がありました。他にも、今城塚で有名な継体天皇は、淀川沿いの葛葉に王宮を構えたことがあります。講演会で配布された資料には、25もの王宮が一覧になって紹介されていました。大和王朝は、なぜこれほどまでに王宮の引っ越しを繰り返したのでしょうか?
それらの王宮にはいくつかの共通項があります。まず一つ目は川が近くにあることです。当時の輸送手段として、船は欠かせないものでした。奈良の纏向にしても、盆地の奥にはなりますが大和川の上流になります。川を使うことで大阪湾にアクセスすることが出来ました。また、幾つかの王宮は交通のに要衝に築かれたものがあります。額田宮は奈良盆地の中央に位置し、奈良盆地を流れる川が集まる地域でもありました。北の山城国、西の河内国、南の纏向や飛鳥へアクセスするためのハブ機能として発展したと思われます。
王宮周辺の発掘作業を進めていくと、他にも共通項が見受けられます。窯業や鍛冶、玉作りといった工業の生産遺跡が見つかるのです。他にも、倉庫の遺跡や市場らしき遺跡などもあります。つまり、王宮は当時の最先端技術である工業と密接に関わりながら街を形成し、引っ越しを繰り返していたようなのです。そこには戦略的な意図もあったかもしれません。
例えば、大阪の南部にある泉北ニュータウンの周辺には陶邑窯跡群があります。古代では日本最大の須恵器の生産地で1000本からなる登り窯が確認されました。この陶邑が建設された意図ははっきりとしています。周辺には、仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥・古市古墳群があります。その建設に関わりました。この近くには、仁徳天皇の息子である反正天皇が、丹比柴籬宮を築いたとされています。
応神天皇や仁徳天皇の御代は、4世紀後半から5世紀初頭と考えられております。この頃の朝鮮半島は戦国時代であり、戦乱から逃れてきた流民が日本に多くやって来ました。その渡来人が日本に窯業や鍛冶といった大陸の技術を日本に持ち込んだとされます。その様子については日本の文献である記紀にも記されているのですが、その時代の確定が出来ません。
考古学に携わる学者先生が凄いのは、発掘された遺跡からその時代区分を特定していく技術になります。博物館に行ったことがある方なら分かると思うのですが、発掘される須恵器や埴輪は粉々に壊れた状態で発掘されます。その破片をパズルを組み合わせるようにして原型を復活させるのですが、その作業だけでもかなり大変そうです。でも本当に大変なのはここからみたいで、その遺物の出土状況や形状をデータ化して、他の遺物と比較できる情報として整理する必要があるのです。あまりにも専門的な部分なので、僕にはその大変さは分かりません。ただ、今回の講演会の一つの肝は、その情報から導き出された時代の流れなのです。
機内で確認されている大規模な生産遺構に、窯業・鍛冶・玉作り・製塩・馬匹飼育があります。
「窯業」 陶邑窯ーー大阪府南部の丘陵地帯
千里窯ーー大阪府吹田市
「鍛冶」 大県遺跡ー大阪府柏原市
森遺跡ーー大阪府交野市
布留遺跡ー奈良県天理市
「玉作」 森ノ宮ーー大阪府大阪市
曽我遺跡ー奈良県橿原市
「製塩」 小嶋東遺跡ー大阪府岬町
西庄遺跡ー和歌山県和歌山市
「馬匹飼育」 蔀屋北遺跡ー大阪府四条畷
鳴神山遺跡ー和歌山県和歌山市
この資料は、僕にとって非常に重要なものです。今までは、このようなまとまった資料がないので手探り状態でした。古代の経済的な仕組みを考えるうえで、とても参考になります。ただ、古代に生産されていたものはこれだけではありません。養蚕業や機織、木器や漆といったものも生産されています。ただ、先生も仰っていましたが、そうした遺構は残りません。仕方がないのですが、それらのことも知りたい……。
これらの大規模な生産活動は急に始まったわけではありません。その時代的な流れを今回は紹介してくれました。生産活動の初期の痕跡は大阪湾をグルっと囲むようにして、4世紀後半から現れます。それらの生産地はまだ小規模で分散していました。5世紀の中ごろになると、大阪府南部にある陶邑窯跡群や大阪府岬町にある製塩活動が大規模化していきます。四条畷にある蔀屋北遺跡でも、馬の飼育が活発になりました。製鉄業である鍛冶だけは少し時代が遅れて、6世紀になってから大県遺跡で大規模化していきます。
これらの変化は、大和王権の成長過程と密接にリンクしています。王宮は大王が変わるごとに引っ越しが繰り返されたのですが、そこには明確な政治的な意図があったと考えられます。バラバラであった生産地を一カ所に集約することで、生産量を拡大していくことが出来ます。しかし、その為には現地に赴き人々を指導する必要がありました。その拠点として王宮が存在していたと考えるのが自然です。具体的な考察はまだ出来ておりませんが、王宮の変遷をたどっていくことで大和王権が思考した政治的な思惑が見えてくるかもしれません。
僕は、聖徳太子の物語を綴りたいと常々宣言していますが、その為には、その生産地と当時の豪族を結びつける必要があります。当時の大和王権は分業制でした。生産活動ごとに部民が設けられ、専門的に従事しています。そこには利権が絡み、権力闘争が生まれたはずなのです。そのドラマを描きたい。色々と調べていくと、最近は聖徳太子よりも蘇我馬子に関心があります。かなり魅力的な人物です。それこそ、馬子を主人公にした方が面白い物語が出来るのではと考えてみたり……。
蘇我馬子は、日本書紀において悪者として描かれています。その理由は簡単で、蘇我入鹿を殺害したのが中臣鎌足と中大兄皇子だからです。自分たちの正統性を掲げるためには蘇我の一族を悪者にする必要がありました。伝承なので正確ではありませんが、馬子の息子の蝦夷にしても本来の漢字では無かったようです。元々は毛人だったみたい。更には、馬子と入鹿を合わせて、「馬鹿」といった言葉遊びをしたという話もあります。本当のことは分かりませんが、日本書紀の記述だけでは、本当の蘇我馬子像が分からないのは確かだと思います。
前回の繰り返しになりますが、蘇我馬子を知る上では「馬」がキーワードだと思っています。馬子を担ぎ上げたのが渡来系の秦氏だろうと推測しているからです。それともう一つ気になるのが年齢なんです。正確ではないのですが、蘇我馬子は父親である蘇我稲目が46歳の頃に生まれたようです。兄弟に堅塩姫と小姉君がいるのですが、姉達とは親子ほどに離れています。姪である推古天皇は4歳ほど年下なので、ほぼ同世代。それくらいの年齢差は現代でもありますし、不思議ではないのですがここにドラマがあると思うのです。
ここからは僕の勝手な推測です。文献では蘇我稲目には二人の妻がいました。兄弟なのにここまで年齢に開きがあるということは、堅塩姫と小姉君とは腹違いの姉弟だった可能性があります。大王家に嫁いだ堅塩姫と小姉君は正妻の娘で、馬子は妾の息子だったのかもしれません。父親の稲目が66歳で没するのですが、同じころに欽明天皇も崩御します。その後すぐに馬子は大臣の役に就任します。正確な年齢は分かりませんが、僕の推測だと22歳。かなり若い。妾の息子なのに父親の後を継いで大臣に就任した。これはとても面白いシチュエーションだと思うのです。このドラマを面白くするためには、馬子の才能だけではなく強力な後ろ盾が必要です。それが秦氏だったらとどうだろうと考えています。当時の豪族の力関係も調べないといけないので考えを固めてしまうのは早急ですが、蘇我馬子が面白いキャラクターであることは変わりありません。かなり脱線してしまいましたが、歴史を勉強しながらそんなことを考えています。