学校
僕が子供の頃、学校に行くということは、至極当たり前のことで疑問にすら思ったことがありませんでした。そりゃ、行きたくない時もあったけれど、行けば行ったで案外と楽しく過ごしています。小学校生活の後半は、僕がイジメの対象になってしまい結構な暗黒時代を過ごしたこともあったけれど、それでも学校には行っていました。至極当たり前に……。
大人になり結婚をして、三人の息子が誕生しました。息子たちが幼い頃は色々な経験をさせてやろうと思い、公園や博物館、アスレチック等に連れていきます。僕はスマホを構えて、息子たちが遊んでいる姿を写真に収めました。数えきれないほどの写真がスマホを通じてクラウド上に保存されているようで、時々スマホが通知音を鳴らしてくれます。スマホを開くと、当時の幼い息子たちが笑っている姿を見せてくれます。逞しく育って欲しいと、いつも思っていました。ところが、僕の息子たちは、三人が三人とも不登校だったりするのです。
長男は色々とあったけれど、大学に進学できたことが契機になりちょっと自立しました。その代償として、父親である僕との関係を遮断します。いまだに口をきいてくれないし寂しいことではあるけれど、長男の自立には必要な通関点なのだと思っています。なんにせよ自分で考えて行動していることは、親として評価します。あとは、学校に行こうとしない弟たちです。
好きなゲームやアニメの視聴なら、たとえ10時間でも連続で集中しているのに、学校に行くとなると起きれない。学校に行ったとしても遅刻が当たり前だったりします。行かない理由を聞くと、イジメられているわけではありません。行けば行ったでそれなりに生活をしているようなのです。ただ、朝、学校に行くまでの気力が湧かない。
――怠けるな!
と、叱ってしまいそうだけれど、そうした一言で済ませられない問題だと考えるようになりました。ひょっとすると現代人が抱えている根本的な病巣かもしれません。
そもそも学校というシステムは、誕生してからまだ歴史が浅い。日本には江戸時代頃から寺小屋があり、読み書きそろばんを教えていましたが、全ての子供が対象ではありませんでした。現代の学校制度は、国の政策であり義務教育を採用しています。大昔の生きる為の武器は、腕力という強さだったけれども、現代での武器は頭の良さになります。国家事業として勉強ができる国民を育てるということは、重要な国家戦略だったわけです。学校という箱を建設して、勉強のガイドラインを用意して、効率的に子供たちに勉強を教えていくことで、日本という国は豊かになっていきました。その用意された国のレールから、僕の息子たちは脱線しているのです。親としては、心配この上ない。
大昔の狩猟採取時代は、生きることと獲物を狩ることは同義です。獲物を追いかけて二日三日食事が出来ないことは当たり前で、毎日が生きるか死ぬかのシーソーゲームでした。当時の人々にとって、明日のことも昨日のことも重要ではありません。「今」というこの瞬間を生きることが、全てでした。
ところが現代は違います。生きるということと、仕事もしくは勉強という作業は分割されました。そうした作業は、明日の為の投資でしかありません。たとえ面白くなくてもその作業を続けることが重要で、その努力はいつか花を咲かせると僕たちは信じ込まされています。僕が子供たちに言う「学校に行きなさい」という言葉は、実は人生の投資の強要でしかなかった……。
これは、心と行動の乖離と診断することが出来ます。人間が快適だと感じるのは、心が欲している行為を自然と行っている状態です。つまり、「今を生きる」です。現代社会が抱える問題とは、やりたくもない作業を強要されていることから発しているのかもしれません。またその作業に対して、もっともらしい理屈を乗っけられるから反論することも出来ません。これでは僕でも辛いです。やりたくもない作業に対して、僕たちはどのような心持で接すれば良いのでしょうか。
僕の場合は、面白くもない作業は、音楽やポッドキャストを聞きながら行います。晩御飯を作る時は、心が楽しくなるようにブーストをかけて、包丁を握ります。心そこにあらずなので、指を切りそうでちょっと危ない……。他には、やらなきゃいけない作業は段取り良くさっさと済ませて、残った時間をゆっくりと自分の為に使います。このように、工夫することは出来ますが、根本的な流れは変わっていません。
――将来的に大きな利益を得るために、今を我慢する。
このような行動パターンは、学校の勉強だけではありません。現代において非常に多い。貯蓄や株式投資、年金や福祉、保険や企業の内部保留など、これらは同じ行動原理にのっとって行われています。というか、現代の社会システムや資本主義は、未来を見据えてリスクヘッジすることが基本です。これは「時間」という概念が発達したことが原因でしょう。宗教にしても同じです。
――善根を積んでいけば、死後に天国なり極楽なりに行くことが出来るよ。
同じパターンですね。ただ、この宗教的思考の最大の欠点は、死後は誰も経験していないので分からないということです。株式投資や年金は、不確定な未来でありながらも観測できるサンプルが多い為、高い精度で未来を予測することが出来ます。ところが、天国や地獄は死んで帰ってきた人がいないので分からないのです。それなのに、天国の存在を断定されてもなかなか困るところです。
少し、脱線をしました。先ほど、面白くもない作業をする時の工夫について、僕なりの話をしました。実は、もう一つあります。その作業そのものが好きになることです。毎日のルーチン化された晩御飯を作る時、作り方は分かっているけれど、確認のために写真がたくさん載せられている料理本を開くことがあります。写真を見ながら、その料理の美味しさを想像するのです。また、その料理にどのお酒を合わせれば美味しいのかを考えます。ビール、日本酒、焼酎、赤ワイン、白ワイン……。すると、僕の中の食べたいテンションがどんどんと上がっていきます。そうなるとしめたものです。美味しい料理を作るために、僕は夢中になるのです。
息子たちの学校についても同じです。何も、学校の全てが悪いわけではない。勉強が嫌いなら、クラブが好きでも構わない。友達や恋愛の為でも良い。なにか心の琴線に触れる出来事が、きっとあると思うのです。でも、関わらなければ見つけることも出来ない。息子たちには逞しく育って欲しいなと、パパは考えています。