鏡に映った影
僕の子供たちはネット動画を夢中になって観ていますが、僕が小学生の頃の最大の娯楽はテレビでした。ネット動画は観たいときに観れますが、テレビは番組の時間割が決められているので放送時間に合わせてテレビの前に座る必要があります。あの頃は、テレビに時間を拘束されていたようなものですね。土曜日の夜になるとドリフターズの「8時だよ!全員集合」を家族そろって必ず観ていましたし、夕方になると何かしらのアニメ番組が必ず放映されていました。だから、外で遊んでいても、時間になれば急いで家に帰ります。当時のアニメに、僕は強く影響を受けてきました。特にルパン三世が大好きで、僕の著作「逃げるしかないだろう」のネタとして使っています。
大人になっても僕という人間はあまり変わりません。アニメや漫画がいまだに大好きです。今年は、映画館でスラムダンクやブルージャイアントを観ましたが、素晴らしいの一言でした。僕も、そうした物語を創造してみたいと常々夢想しています。ただ、そうは言っても素晴らしい作品や面白い作品というのは、簡単には生み出せるものではありません。これまで何本かの小説を書いてみましたが、嫌っていうほどにその事を感じさせられました。人気作品の二番煎じであれば、今の僕なら書けるかもしれません。しかし、それでは僕自身が全く面白くない。きっとモチベーションも上がりません。僕にしか描けない世界観を生み出してみたいのです。天空の城ラピュタを宮崎駿が発表した時、こんな発言をしました。
――冒険の舞台は、もう空にしか残されていない。
初期のSFの作品では、海底や地底を舞台にしたものがあります。舞台を変えることで新しい冒険活劇が生まれました。宮崎駿はその舞台を、大空に求めたということです。僕の場合は、それが聖徳太子でした。
聖徳太子が生きていた飛鳥時代、あの時代の作品は実は意外に少ない。山岸涼子の「日出所の天子」がありますが、有名どころはそれくらいです。それどころか、聖徳太子は存在していなかったとの論説もあったりします。これほどまでに聖徳太子が注目されない理由は簡単です。尾ひれがついた超能力者のような聖徳太子の話ばかりが残されていて、正確な資料があまりにも少ないからです。だから、無責任に何とでもいえるのです。
――聖徳太子が本当に実在したのか?
という話には、僕は全く関心がありません。正直なところ、僕にはどっちでも良いのです。なぜなら、僕が新しく創造するからです。これって、作者の特権だと思いませんか。僕が事実と全くを違う話を創造したとしても、誰も証明することは出来ません。
ただ、歴史に記されている痕跡はキレイにトレースしていきたいし、ディティールも細部にこだわって表現していきたいと考えています。僕は流通の世界で仕事をしているので、当時の商売の世界はかなり関心があります。その頃って、貨幣がありません。商売は、物々交換が基本でした。それでも、お金に変わるものはあります。それが、米や塩、それに絹や鉄だったようです。その上で僕が創造するのは、聖徳太子の内面世界になります。
僕は、思想というものにとても関心があります。思想は、その国の民衆の行動を規制します。現代の僕たちは、自由と平等を謳い基本的人権に守られて生活していますが、この思想はとても歴史が浅い。日本においては太平洋戦争が終わってからやっと始まったので、たかだか80年弱の歴史しかありません。それまでの日本では、天皇陛下は神様でした。敗戦以前と以後では、思想形態が全く違うのです。最近、性の歴史を自分なりにまとめて紹介しましたが、人類の思想の多様さに僕自身が驚きました。思想というOSが社会に与えた影響は、はかり知れません。ただ、思想はとても難しい。もし、僕が小説の中で思想の説明を始めたら、誰も読まないでしょう。表現するにしても、そこは工夫が必要になります。
僕は、聖徳太子の論文ではなく物語を書きたい。物語は、面白くないと誰も読みません。今年の春は、進撃の巨人のアニメが面白くて一気に観ました。本当に面白かったです。あの壮大な世界を創造した原作者、それに関係者の皆さんに感謝です。その最終章がこの冬に放映されるそうで、とても楽しみにしています。最近は、呪術廻戦のアニメを観ています。これも面白いですね。
面白さというのは捉えどころがなくて、とても難しい概念です。馬鹿馬鹿しい仕草に大笑いすることもあれば、逆境に立たされた主人公が「面白い」と口遊むこともあります。近年流行りの転生ものであれば、力や知識による圧倒的なチート能力で主人公が無双することに面白がったりするかと思えば、反対にチート能力が与えられなかった主人公のドタバタ劇を楽しむ作品もあったりします。恋愛ものであれば、愛し合う二人のすれ違いにヤキモキと心が踊らされたり、悲しい結末に涙を流すことで心が浄化されたりすることもあります。面白いには様々なパターンがあり、これらを全部ひっくるめて僕たちは「面白い」と表現しています。面白いって、何なんでしょうね。
呪術廻戦の面白さはジャンプ漫画が得意とするところで、一般的には格闘系と表現されたりします。この格闘系の漫画は沢山ありまして、ドラゴンボール、北斗の拳、ジョジョ、ワンピース、ハンターハンター、鬼滅の刃等々。これらの漫画には、基本的なパターンが存在しています。
まず、戦いの為のリングが用意されます。このリングは格闘に参加する登場人物に何らかの制約をかけるものです。例えば、制限時間内に解決しないと時限爆弾が爆発するとか、空手家なのに足場のない水の中で戦わなければならないとかです。この様な外的な要因は、主人公の負けた姿をイメージさせるので物語に緊張感を生み出します。
その制限された環境の中で、登場人物は自分の個性を引き出して、勝利の為に駆け引きを繰り広げます。その駆け引きが漫画家の腕の見せ所でして、説得力が無くてはいけません。また、スピーディーでないと飽きられてしまいます。物語は戦いが繰り返されていきますので、一見単調なパターンに見えます。しかし、一つの勝負が次の勝負の伏線になっていると、物語に重みが増していきます。また、一つ一つの戦いが入れ子構造になっていて、更に大きな世界観を読者に提示できると、読者はその世界に酔いしれることが出来ます。進撃の巨人は、その世界観の展開の仕方が俊逸でした。
こうした格闘系漫画のパターンは、週刊誌というサイクルで磨かれた技法だと思います。とにかく週刊誌の作家は、毎週毎週原稿を仕上げる必要がありました。人間業ではない回転速度を要求されるのです。その場合、何かしらのパターンがあると仕事の効率が上がります。入れ子構造の格闘系のパターンは、週刊雑誌によって磨かれたのかもしれません。
僕が聖徳太子の物語を作るときも、そうした使えるパターンは拝借したいと思います。ただ、そうした戦いの連鎖は、正直な所キリがありません。象徴的なのは、ドラゴンボールです。強さのインフレーションが高まり過ぎて、収拾がつかなくなりました。人類の歴史もそうです。戦い続けて現在がありますが、まだ戦いを止めようとはしません。経済の戦い、科学の競争、環境問題の戦い、AI技術の競争、人権の戦い、更には戦争。
僕は、戦いや競争を完全否定するわけではありません。ただ、その事にとらわれ過ぎると、幸せの本質を見失ってしまうと思うのです。多くの人は他人との比較の中で、自己の幸福感を測ろうとします。貧しいより裕福が良い。醜いより美しいが良い。弱いより強い方が良い。しかし、それらの幸福感は、他者との比較から生まれた差に過ぎません。鏡に映った影みたいなものです。本質的な幸せではないのです。その事を理解した時から、初めて「自分」という存在を意識し始めるのではないのかなと……思っています。そんな物語を、創造してみたい。