コンタクトレンズ
正確な視力は憶えていませんが、僕はド近眼です。メガネなしだと僕に見えるこの世界はルノアールの抽象画のように、輪郭がありません。ボワッと滲んでいるだけです。昔とちがいメガネのレンズはかなり薄くなりましたが、ド近眼だとそれでも分厚くなります。だから、メガネは細長いものを選ぶようにしています。その方が、レンズの厚みが気にならないからです。
若い頃は、眼科もすすめるのでコンタクトにしようか迷ったことがあります。でも、やめました。何故かというと、僕はとってもズボラだからです。コンタクトを毎日管理する自信がありません。若い頃は、飲み過ぎて二日酔いになることも多かった。そんな僕が酔っぱらいながら、コンタクトを外して、洗浄して、専用ケースに入れて、保管する……そんな事出来るわけがありません。なら、使い捨てのコンタクトを使用するという選択肢もあるのですが、これもね……。
友達たちと海に遊びに行った時のことですが、素潜りを楽しんだことがあります。僕は水泳部出身ということもあり、泳ぎには自信があります。現役時代は、潜水で75メートルくらいなら泳ぐことが出来ました。競技で泳ぐだけなら、目が少々悪くても問題はありません。ただ、海に潜るとなると、目の悪さは不便でした。抽象画の世界が、ただ広がっているだけだからです。なんにも分からない。そんな僕に、友達が勧めてくれました。自分が使っている使い捨てのコンタクトレンズを。
使い捨てのコンタクトレンズって、意外と大きいものだったんですね。全く知りませんでした。目を大きく広げてそのコンタクトレンズを入れようとするのですが……これが出来ない。自分の目に異物を入れるという行為が、かなり怖かったのです。何度も怖気ずきながら、やっと装着することが出来ました。友達が使っているコンタクトレンズですから、僕の目に合うはずもありません。でも、見えたんです。抽象画だったこの世界の輪郭が。今までよりもずっとクリアに。何て素敵なんでしょう。
早速、ゴーグルを装着して海に潜りました。海の中が、ハッキリと見えます。太陽の光が海の中に差し込み、ユラユラと白い光のカーテンが揺れていました。その光に合わせる様に、辺りの岩場に張り付いている海藻類も揺れています。その海藻の間では、色鮮やかな小魚がかくれんぼをして遊んでいました。両手を大きくかき分けて深く潜ります。まるで空を飛んでいるかのような浮遊感。それまでの僕にとって、海という世界はぼんやりとして曖昧なものでした。それがコンタクトレンズを装着したことで、その世界をはっきりと認識することが出来たのです。海って、こんなにも賑やかだったんだ……。
海から出た後、コンタクトレンズを外すのにかなり苦労しました。だって、自分の眼球を直接触るんですよ。そうしないとコンタクトレンズを外すことが出来ない。かなり四苦八苦しました。その不快感からコンタクトレンズの使用は断念したのですが、見えるということの素晴らしさを再発見できたことは、僕にとって良い思い出でした。
僕は、聖徳太子の物語を紡ぎたい目標があります。しかし、その世界を知るのはとても大変です。文献は少ない上に、あったとしてもかなり誇張された太子像です。馬に乗って空を飛んだ逸話まであるんですよ。そんな聖徳太子を調べ始めて分かったことは、聖徳太子だけを調べても聖徳太子は分からないという現実でした。
まず、聖徳太子が生きてきた時代背景を知ろうとしました。太子は王家の血筋で皇子です。当時の大和王朝を知ることは、古墳時代を含めた世界を知る必要があります。とても呪術的な世界だったと思うのですが、文献はありません。この間、今城塚古墳で行われたセミナーに参加しましたが、発掘された遺跡という事実に触れることは出来ました。しかし、事実は何も語りません。それらの断片をかき集めて想像するしかないのです。ただ想像するといっても、僕の少ない知見だけでは限界があります。世の中には専門的な先生が著した書籍があるので、手当たり次第に読むようにしています。積読状態の物もたくさんありますが……。
最近、嫁さんに勧められてポッドキャストのコテンラジオを聴くようになりました。これはかなり有用でした。これまで知らなかった世界史を俯瞰できたのはとても良かった。歴史は繰り返すと言いますが、聖徳太子の時代と比較しながら、別の歴史を知ることはかなり思考が深まります。ただ、知れば知るほど、底無し沼に足を取られたような感覚にも見舞われています。いつまでたっても抽象的で、ボンヤリとした輪郭の聖徳太子像しか見えない。
僕はね、コンタクトレンズを付けて海に潜る様に、聖徳太子の世界をハッキリと感じてみたい。当時の人々の息遣いや衝動を、手に取る様に分かりたいんです。歴史が分かるコンタクトレンズが欲しいのですが、なかなか見つかりません。それどころか、最近は老眼が進んで困っています。眼をショボショボさせながら本を読むのは、集中力が切れるんです。何処かにありませんか? 歴史が分かるコンタクトレンズ。