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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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chatGPTと宗教

 僕は聖徳太子について調べていますが、彼と関係のあった人物の一人に秦河勝がいます。秦河勝は、渡来系一族である秦氏の族長で山城の国を治めていました。山城の国とは現在の京都市になります。秦氏という一族は5世紀ごろに日本にやってきて、大陸の先端技術を日本に持ち込みます。土木技術や製鉄技術、それに有名なところでは養蚕と機織りの技術を日本に伝えました。秦氏は「はたうじ」と読み、機織りを「はたおり」と読むのは、秦氏が関係したからといわれています。


 秦河勝は聖徳太子より10歳以上年上で、聖徳太子をが無くなった後も活躍したようです。西暦645年に乙巳の変がありました。中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我入鹿を宮中にて殺害した政変です。この政変に、秦河勝が関係していたという話があります。もしそうであれば、その頃の河勝は80歳を超えるお爺ちゃんになります。ちょっと無理がある話だなと思うのですが、その前年の西暦644年にも秦河勝の記述があります。「常世の神」事件です。


 静岡県の富士川の辺りで、大生部多という人物が奇妙な宗教を始めました。長さ4寸ほどの蚕のような虫を指して、神と崇めたのです。


 ――この虫を祀れば、富と長寿が得られる。


 普通に考えれば可笑しな話です。でも、この宗教が広く民衆に広まりました。信じた人々は財産を差し出し崇めました。仕事もしなくなります。その弊害は大きく、都にまでその様子が伝えられました。事態を重く見た朝廷は、秦河勝にその解決を当たらせます。現地に赴いた秦河勝は、大生部多を捕らえて打ち据えました。


 ――太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも。


 太秦とは、秦河勝のことです。当時の人々が、神を打ちすえた秦河勝を称え歌にしました。それ以来、「常世の神」の信仰が廃れるのです。この事件は、日本書紀に記されています。八百万の神を信じる当時の人々にとっては、小さな虫であっても神聖を感じたのでしょう。


 たかだか小さな虫を、神様として祀る。妙な新興宗教ですが、昔のことだから……という単純な話ではありません。現代でも、同じような事例があります。壺を買ったら運勢が良くなるとか、希少な宝石を身に付けたら金運が上がるとか、パワースポットに訪れると幸せになれるとか、そうした話は現代にも沢山あります。血液型占いや星座占いも似たようなものだと思います。


 スピチュアルな原始的宗教にしてもそうです。神の言葉を代弁する巫女の存在は絶対でした。国や村で何らかの決断を迫られた時、その行方について巫女が吉凶を占います。そうした祭祀が、政治へと発展していきました。また、巫女はこの世界の成り立ちを語ります。神の絶対性を説きました。宗教的な規模が違っても、キリスト教や日本の神道も本質は同じです。崇める神の対象が違うだけです。


 ――信じる者は、救われる。


 そうした占いなり宗教に共通するパターンは、幸せなり金運がアップする理由が「神」の存在で語られていることです。神は人々に影響を与える存在で、人間は受ける身分。その理屈の開示や、存在の確認は出来ません。一見不親切に見えますが、信じる者にとってはそうした理屈よりも結果が欲しい。幸せだと感じることが出来れば、信者はそれ以上考える必要がないのです。また、神を説く宗教からしても、その方が都合が良い。信者に知性は求めていません。下手に勘繰られて、神聖を汚される方が問題です。アダムとイブは、林檎を食べたことでエデンの園から追放されました。なぜでしょう。林檎を食べたことによって賢くなったからです。この逸話は、神様にとって賢い信者は必要ないという譬えに、僕は思えてしまいます。


 信者に知性を求めないパターンは、国の政治にも当てはまる場合があります。例えば、劣悪な独裁国家なんか顕著です。独裁者は、国民が素直に税金を納めれば良いのです。この「素直に」というのがポイントで、人民の思想コントロールに宗教が利用されました。国の統治と宗教の神聖性は、太古の昔から二人三脚な関係だと考えます。表裏一体といっても良い。時の為政者は自身の権力基盤を強くするために宗教を利用し、また宗教関係者もその見返りとして地位の安定を求めました。この場合の宗教は、広義の意味で社会主義思想も含まれると思います。対して、科学や哲学といった学問は真理を探究しました。


 ――なぜ?


 そうした真理に対する問いかけが、現代社会を作ったと言っても過言ではありません。真理の探究は、様々な技術を生み出し応用されていきます。星の運行から暦が生みだされ、安定した稲作の技術に転用されます。数学や化学、物理学や哲学といった学問は、「神」によって隠されていたベールを一枚一枚剥がしていきました。真理を浮き彫りにしていくのです。現代においては、ロケットが宇宙に飛び出し、生物の設計図であるDNAが解析され、人工知能が人間の知恵を凌駕しようとしています。まさに神をもしのぐ勢いです。そうした中、最近の話題はchatGPTが誕生した事です。


 chatGPTについては、デジタルネイチャーという題名で以前3回に分けて言及したことがあります。話題になっているので、皆さんもご存じのことと思います。凄い技術だと思います。どのような理屈で生み出されているのか、僕の頭では全く理解のしようがありません。そんなchatGPTの特徴を一言で説明すると、どのような質問にでも答えてくれる便利な賢者です。


 何らかの知識を必要とした時、賢者chatGPTは論理だてて答えてくれます。その答えが頓珍漢で嘘八百なら必要性を感じませんが、その精度が高すぎるから話題になります。本来であれば、多くの文献を参照して勉強しなければ得られない知識を、chatGPTなら瞬く間に答えてくれます。知識を手に入れるまでの、タイムパフォーマンスが良すぎるのです。


 そうした賢者chatGPTの存在に、警鐘を鳴らす人がいます。学校の勉強に、子供たちがchatGPTを使わないようにするために議論が始まったようです。反面、chatGPTの使用に肯定的な意見も見られます。誕生してしまったchatGPTを封じ込めることは出来ませんし、今後はもっと凄い技術が生まれるでしょう。僕たち人間に出来ることは、そうした最先端の科学技術を使う場合の副作用を理解する必要があると思うのです。


 科学技術の発展は、本来人間が行っていた作業を簡便にしてくれます。例えば、稲作を鋤と鍬で行うのは大変ですが、コンバインがあれば楽に田畑を耕すことが出来ます。暗算でしていた計算も、そろばんが生まれ、電卓が生まれ、コンピューターが生まれて、更に高度な計算が出来るようになりました。真理を探究した副産物として、人間の生活が楽になったのです。その一方で、人間は自分を鍛えなくても答えという果実が手に入る様になりました。ここに落とし穴があると思うのです。ここで問題です。


 ――マラソンの面白さって何だと思いますか?


 42.195kmを自らの足で走り切る競技に、30代の後半から40代の後半まで夢中になった事があります。フルマラソンは、練習せずに走り切れるような距離ではありません。そもそも人間の身体は、走り切れるような体になっていません。それは、ガソリンを満タンにした車が1000kmを走り切れないようなものです。血液中のグリコーゲンを燃焼して走るのですが、それだけでは人間は30kmしか走れません。残りの12kmを走り切るためには、長期間の反復練習がどうしても必要になります。


 フルマラソンの最終目的は、ゴールすることです。走ることはとても辛いですから、もっと簡単に取り組めないでしょうか。このゴールという果実を手に入れるだけなら、実は簡単な方法があります。科学技術を使うのです。例えば、自転車とか車に乗ってゴールするのです。


 ――馬鹿野郎!


 そんな言葉が聞こえてきそうです。マラソンの面白さというのは、大会に申し込んでから、本番でゴールするまでの過程にあります。辛い練習を繰り返しながら、自分の身体が成長していく実感。実際に走り切った時の開放感や感謝という気持ちが、マラソンの醍醐味だと思います。自分が生きていることを正に実感できる競技だと、僕は考えています。


 僕たちは長い人生において、効率性を追求しがちです。お金を出せば欲しいものが直ぐに手に入る時代です。そこには過程が欠落しています。労せずして手に入れた結果というのは、とても表面的なものです。chatGPTにしても同じことが言えると思います。勉強は知識を手に入れることが目的ですが、真に大切なことは知識を手に入れるまでの過程なのです。あーでもない、こーでもないと試行錯誤して考え抜いた知識は、本当の知識として身に付きます。chatGPTで手に入れた知識は、知った瞬間に忘れ始めるでしょう。


 真理を追究して生み出された科学技術によって、返って人間は弱くなり始めました。chatGPTは、人間から考えるという大切な行為を奪いかねません。ネットのインフルエンサーの影響力に、直ぐに振り回される現代人です。chatGPTが生み出す知識を鵜呑みにする社会が形成されるとしたら、それは虫を神と崇めた「常世の神」信仰と同じ構図に見えてしまいます。


 現代においての最大の宗教は、インターネットかもしれません。一人一人がスマホという端末を持ち、手放すことが出来ません。そうした事柄を、僕は否定したいわけではありません。ただ、その副作用を理解して付き合わないと、ネット信仰に取り込まれてしまうと思います。ただ、上手く付き合えば、とても刺激的で面白い世界だと思います。

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