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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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日本語が見ているもの

 また「ゆる言語学ラジオ」からの話題です。第57回のよもやま話で、次のようなテーマが出てきました。


 ――文学には二つの芸術がある。翻訳しても移せるものと、言語に依存する芸術だ。


 この言葉だけを読むと、何じゃらほいです。このテーマの説明の為に、川端康成が著した「雪国」の冒頭の書き出しと、その英訳について紹介されました。


 ――国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。


 このトンネルは、群馬県と新潟県をまたぐトンネルで全長が9702m。建設当時は日本一長いトンネルだったそうです。ところで、英文に訳すとしたらこの文章の主語は何でしょうか。パーソナリティーの一人堀元さんが答えます。


「”I”じゃない?」


 出題者の水野さんが、詰め寄ります。


「じゃ、動詞はどうします?」


「えっ!……う~ん……”go"みたいな?」


「主語は”I”なのに、電車目線?」


 そうした掛け合いが為されます。この「雪国」という作品は、川端康成がノーベル賞を受賞する切っ掛けになった作品ですが、その英訳はエドワード・ジョージ・サイデンステッカーが行っています。彼の英訳は次のようなものでした。


 ――The train came out of the long tunnel into the snow country.


 主語は”The train”で、動詞は”came out”です。一見すると、何も不都合を感じない二つの文章です。しかし、そのニュアンスの違いについて、一つの試みが提案されました。


「この情景にあう絵を描いてください」


 如何でしょうか。想像してみてください。もう一度、二つの文章を並べてみます。


 ――国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。

 ――The train came out of the long tunnel into the snow country.


 まず、英訳からです。主語が”The train”なので、主役は汽車になります。トンネルから汽車が出てきて雪国を走っている情景が想像できると思います。


 対して、川端康成の文章には主語がありません。主語を問いかけられた時、水野さんは「”私”、じゃない」と答えました。そうなんです。日本人は、主語がないこの文章から、主役は「私」であることを感じ取ることが出来ます。主人公の「私」が、座席に座り車窓を見つめています。トンネルの中なので、真っ暗です。その時、電車がトンネルを抜けました。突然、白い銀世界が目の前に広がるのです。


 この二つの文章には、日本語と英語の特徴の違いが如実に表れています、それは視点です。専門的には、川端康成の文章は一人称視点で、英訳は三人称視点になっています。同じ内容を表しているはずなのに、見えている世界が違うのです。英語は、主語と動詞を確定させないと文章を作ることが出来ません。雰囲気的には、この世界を空から俯瞰しているニュアンスが感じられます。


 日本語は主語がない文章が多いですが、それは自分の目で見ている世界を表そうとするからです。例えば山を見た時、「私は山を見た」とは言いません。日本人は「山が見える」と表現します。また、自分の立ち位置を起点として空間を表す言葉も多い。例えば、「あそこ」「そこ」「ここ」という具合に、対象との距離感を単語を使い分けることによって表現したりします。


 補足ながら、「雪国」の書き出しは時間の経過も表現しています。短い文章ながら、汽車がトンネルを抜けていく動きが感じられるからです。文章を分解してみます。


 「国境の長いトンネルを抜け」「ると」「雪国だった」


 前半部分は、汽車はまだトンネルの中です。後半は、トンネルを抜けて雪国になります。時間の経過を表現している言葉は「ると」です。この言葉を「たら」とか「たので」では、美しさも損なわれてしまいます。日本語は、一人称の没入感を表現しやすい言語だと言えると思います。


 僕は、小説を書くとき、このエッセイもそうですけど、一人称を大事にします。ただ、聖徳太子の物語を紡ぐときは三人称にするのかどうかで、ずっと迷っています。歴史的な小説は、ほぼ三人称で書かれていると思います。その世界観を表すのに都合が良いからです。また、三人称が生み出す硬質な表現方法は、歴史を俯瞰している気分にさせてくれます。対して、一人称は自分視点なので、現代を表現するのなら、その世界観を説明する必要がありません。しかし、世界観を表現しようとすると工夫が要ります。一人称の僕が、いちいち世界観を説明していたら、ちょっと変だからです。


 ――文学には二つの芸術がある。翻訳しても移せるものと、言語に依存する芸術だ。


 僕たちが普段何気なく使っている言語には、特徴があります。「ゆる言語ラジオ」で、そうしたことを感じれたことが、僕には大きかった。

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