語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
以前、嫁さんに紹介された「ゆる言語学ラジオ」について紹介したことがあります。水野さんと堀元さんという二人のパーソナリティーが、YouTubeやPodcastを舞台に言語学に関してのゆるいトークを繰り広げています。開設は2021年1月で、現在のYouTube登録者数は2023年5月現在で19万人、動画本数は239本になっております。題名に「ゆるい」を関していますが、全くゆるくありません。軽妙な二人の掛け合いが面白く、いつも笑わせられているのですが内容は深い。時に難解で僕の知的好奇心を刺激してくれます。第1回から順番に聞いていて、もうすぐ第50回に届こうとしています。
第45回は言語学的な内容ではなくイベント回でした。だからと言って手加減はありません。二人が知識を駆使してし、知的にマウントを取り合う内容でした。その中で、ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」が紹介されていました。彼は20世紀の有名な哲学者になります。僕は読んでいないのですが――多分、難しすぎて理解できないと思いますが――関心はありました。彼は、その著作の最後で次のように述べています。
――語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
読んでいない僕が解説するのもなんですが、僕たちが普段何気なく使っている言葉は、現実の生活に即して発展してきました。例えば、目の前に二匹の動物がいたとします。どちらも四つ足で哺乳類なのですが、それぞれ特徴がありました。片方は、比較的小柄でミャーミャーと鳴きます。もう片方は、比較的大柄でワンワンと吠えました。それら二匹の動物を、人類はそれぞれ「猫」と「犬」と二つに「分けて」認識することにします。この様にして単語が生まれました。
「猫」一つを取り上げても、様々な種類がいます。三毛猫やペルシャ猫、それにネコ科の大型動物ライオンもいます。同じ猫でも、それぞれに違う。そうした「仕分ける」作業の事を、僕たち人間は「分かる」と言いました。そうなんです、「分かる」という語源は、この世の事象を細かく仕分けして認識することを意味していたのです。ゆる言語学では、物事に対する理解がより深まったとき、「解像度が上がった」と表現したりします。デジカメの世界でも、解像度は低いよりも高い方が表現力が高いですよね。お洒落な言い回しだと思います。
「仕分ける」作業は、生物学的な分類に限った話ではありません。広義では「猫」という認識は、サンリオのキティーちゃんにも当てはまるし、児童アニメの「トムとジェリー」のトムにも当てはまりますし、猫型ロボットのドラえもんにだって当てはまります。更には、「吾輩は猫である」の語り部である猫も、夏目漱石の想像の産物ですが「猫」と定義することができます。僕たちが「分かった」と呼んでいる対象の切り分け作業は広義に応用され、自然に使われていることが分かります。これって、実は凄いことです。「猫」という一つの単語に、様々なカテゴリーの意味が載せられているのです。いま話題のchatGPTだって、苦労すると思います。
そうした「言葉」によって、僕たちは「この世界の認識」を人々と共有して社会を維持してきました。「言葉」という共通ルールが無ければ、この社会を維持できないことが分かると思います。それほどに重要な「言葉」に対して、ヴィトゲンシュタインは一つの結論を導き出します。それが「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」です。彼は「神」や「道徳」といった目に見えない対象に対しては「語りえない」としました。
「神」や「道徳」は見ることが出来ない抽象的な事柄です。目に見えないものを「仕分け」して、「言葉」として抽出するのは、かなり困難な仕事に見えます。何故なら、見えないからです。語り手によって意味合いが変わる危険性が避けられません。つまるところ彼は、人によって前提条件が変わってしまう「神」を論理的に考察することは出来ないと断定したのです。もし、分かると判断したのなら、それは人間の驕りだと言い切りました。それこそ、「言葉」の齟齬が、この世の中に争いを起こす引き金になると考えたようです。なんだか、ソクラテスが言った「無知の知」に通じる様な結論です。
僕は彼の本を読んでいません。これまでの話は、僕なりの見解です。そこの所、注意してください。ところで、沈黙したヴィトゲンシュタインは苦労人でした。孤独と鬱に悩まされ、度々自殺をすることを考えます。一面では「神」を否定しつつ、それでもキリスト教に対する信仰を深めていったそうです。
仏教においても、神ではありませんが真理である「仏」の境地は、難解すぎて理解できないとします。法華経の冒頭では、仏の知恵は「難信難解」という言葉が何度も使われます。ヴィトゲンシュタインが言う「語りえない」ことをまず示すわけです。その上で、同じ法華経で次のような言葉を述べます。
――等覚一転名字妙覚
漢字ばっかりで難しそうですが、少し解説します。「等覚」とは「仏」の境地に比肩する菩薩の悟りのことを意味します。仏教という世界は、自身の生命境涯を「開く」ことを目的とします。迷った境涯のままでは人間は苦しむばかりなので、修行をして開いていきます。具体的に行動を起こす人のことを菩薩というのですが、この菩薩にも五十二位といって段階があります。その菩薩の最高位が「等覚」なのです。
ところが、「等覚」は「仏」に比肩するのに、それでも「仏」には成れない。大切な要素が一つ欠けているとします。それが「名字」です。「名字」とは名字即といって、「仏」の言葉を聞いて発心する、最初の志の段階です。平たく言えば一心不乱な「素直な心」です。何も分からないけれど、前向きな心の姿勢を釈迦は高く評価した。「等覚一転名字妙覚」とは、最高の知恵だけでも駄目、素直な心だけでも駄目、二つの境涯が合わさって「妙覚」、つまり「仏」なるとしたのです。
「ゆる言語学ラジオ」の第46回と第47回は、「数の誕生」について解説されています。その中で、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」が紹介されます。この本も僕は読んでいないのですが、次のような言葉が紹介されているようです。
――人間が小麦を栽培化したのではなく、小麦が人間を奴隷化したのだ。
最近の僕は狩猟採取から農耕文化に移行した様子を調べているので、非常に分かります。人間は農耕を始めとする高度な社会を構築する代償として、広義の奴隷化を余儀なくされました。現代社会でも、会社の歯車には成りたくないといった訴えを聞くことがあります。「ゆる言語学ラジオ」の堀元さんが呟きます。
「狩猟採取時代の方が、人間の幸福度は高かったよね」
分かるような気がします。人間の一生においても、何も分からない子供は喜びを全開に表します。成長して様々なことを勉強してこの世の社会システムを理解していった大人の方が喜びを素直に表すことが出来ない。深い思索の先で沈黙することを選んだヴィトゲンシュタインですが、次のような言葉も残しています。
「幸福に生きよ!」




