生きてきた意味
ゴールデンウィークが終わりますね。僕のGWは博物館めぐりでした。今日が雨でなければ、大阪歴史博物館に行くつもりでした。大阪歴史博物館は大坂城の傍にあり、太古の昔にあった難波宮を見下ろすようにして建っています。聖徳太子の小説を書こうと決めてから、この博物館に3度も足を運んでいます。当時の歴史的情景を人形やジオラマを配置して紹介しており、ビジュアル的にも非常に分かり易い博物館です。更に、定期的なセミナーも行っており、歴史を探る上では外せない僕の拠点になっています。
現在、「異界彷徨」という特別展が、大阪歴史博物館で開催されております。人知の及ばない現象に関する資料が展示されているようです。非常に興味があります。太古の人々がこの世の中を、どの様に見ていたのかを感じたかった。古事記でもそうですが、当時の人々は冥界という死んだ人が赴く世界が存在していたと考えられていたようです。天上界、下界、冥界。この三層構造が世界の構成だったと考えられていたようです。日本を舞台とするファンタジーな世界観では定番の設定です。現実と冥界を行き来する物語は沢山あります。そう言えば、新海監督の「すずめの戸締まり」もあの世の「扉」を閉める物語でした。子供と一緒に観てきましたが、非常に面白い作品でした。
大阪歴史博物館の特別展「異界彷徨」はセミナーもありました。ただ、その存在を知ったのは最近でした。慌ててセミナーの申し込みをしようとしたのですが……定員が一杯でした。とても残念です。講師による、日本の「異界彷徨」の講義を聞きたかった。今年、52歳になったのですが、今の僕は若返っています。大学生に戻ったような気分です。兎に角、聖徳太子にまつわる、またその時代を紹介した情報を吸収したい。気になった本は手当たり次第にポチって購入しているのですが、本は読むのに時間が必要です。また、読む為の予備知識が弱いと内容が理解できないことがあります。ところが、セミナーはとても分かり易い。臨場感をもって理解できるので、非常にありがたい。セミナーには参加できませんが、その展示物を見学してみようと思ったのですが、今日は雨でした。僕は、移動に50ccのスーパーカブを利用しているのですが、雨だとカッパを切る必要があります。雨が降らない日にでも、足を運びたいと思います。
若い時は感じなかったのですが、僕の人生も長くてあと20年くらいかなと思っています。父親と母親は69歳で亡くなったので、1年でも長生きして70歳くらいで亡くなれば御の字かな思ったりしています。死ぬことは必然なので、受け入れる心づもりを今から準備しているのですが、死ぬまでに本懐を果たせなかったら悔いを残します。僕は、楽に生きたいとか、得していきたいとか思わないようにしています――いや、思っているんですが、それは恥ずかしいことだと言い聞かせています。人間はいずれ死ぬのですから、そんな事は誤差の範囲だと思うのです。しかし、自分が生きてきた意味を残せないのなら、それは悔いを残すと感じています。
20年て、長いようで短いです。よく言われることですが、歳を取るごとにその短さを感じます。気が付けば、死を目の前にしているでしょう。聖徳太子の小説を書きたいと息巻いていますが、僕自身が納得できる作品を完成させるためには、かなり時間が必要です。現在は、歴史という外堀を埋めています。聖徳太子の一生を俯瞰できるように基本的な情報を仕入れている段階です。これらの情報は、複雑なようでそれほど難しくないと思っています。
そうした情報を仕入れた上で、面白い話を構成する技術が必要です。この世にある大半の物語は、大筋の内容はそれほど大差はありません。太古の昔も現在も、人は恋愛をして、嫉妬をして、争いをして、後悔します。面白さとは、その見せ方だと思っています。これも、それほど難しくはないと思っています。
本当に難しいのは思想です。最終的に、聖徳太子が著した法華義疏を研鑽することになるのですが、この段階で僕は自分の歴史と対峙して悩むと思います。法華義疏を1としたら、それを学ぶためにその10倍、いや100倍は苦しむと思っています。腑に落ちるというか、納得する為に時間が掛かるはずです。
「ああ、そうか!」
その様に思ってしまえば、あっという間に完成すると思います。その思いに至るまでに、僕はきっと悩みます。そんな気がするのです。聖徳太子の小説は、僕のライフワークです。まずは、僕自身が納得できるものを目指したい。その様に思っています。