言葉の不思議
最近、嫁さんがポッドキャストを聞きながら一人で笑っているのです。笑いながら、僕に番組を勧めてくれました。「ゆるコンピュータ科学ラジオ」という番組です。イヤホンを借りて聞いてみました。爆笑です。二人のパーソナリティーの対談なのですが、ゆるくパソコンサイエンスにまつわる話を聞かせてくれます。その回はサイエンス的な内容ではなく、雑談会でした。しかも、僕が知っている漫画が紹介されていたのです。森恒二原作の「ホーリーランド」です。ご存じですか? 内容は紹介しませんが、夢中になって読んだ作品です。その番組についてリンクを張っておきます。
ゆる言語学ラジオが漫画化したら、口を斬られるかもしれない【雑談回】#19
https://www.youtube.com/watch?v=5CEvUcfAXQw
ゆるコンピュータ科学ラジオのパーソナリティーは、堀元見さんという情報工学の専門家と、水野太貴さんという言語学の専門家です。彼らはこの番組以外にも「ゆる言語ラジオ」という番組も公開しています。サイトがあるので貼り付けておきます。
https://yurugengo.com/
「ゆる言語ラジオ」は、一年前に長男に勧められて聞いた覚えがありました。その番組のあるテーマがバズったことがあります。そのテーマとは、「像は鼻が長い」という文章の主語は何か? についての考察でした。一見何のことか分からないかもしれませんが、かなり奥深い内容です。僕たちが普段、何気なく話している日本語の特徴が分かります。僕は「文章を書く」という行為で、自身を表現しようとしているので、尚更興味深い話でした。
「ゆる言語ラジオ」は、言語に関する様々なテーマについて分かりやすく紹介してくれるのですが、最近のお気に入りは「赤ちゃんの言語習得が無理ゲーすぎる」です。赤ちゃんはどのようなプロセスで、言葉を習得するのでしょうか。僕たちはいつの間にか喋れるようになっていたので、そんなことを考えることは、まずありません。ここで問題です。赤ちゃんになったつもりで、次の言葉の意味を考えてみてください。
「ココデハキモノヲヌイデクダサイ」
言葉が連続しているので分かりにくいのですが、区切ってみると分かりやすくなります。
「ココデハ キモノヲ ヌイデクダサイ」
温泉の脱衣場が思い浮かびます。ところが、この同じ言葉を、料亭の玄関で言われたら変ですよね。玄関で着物を脱ぐ人はいません。もし脱ぎ出したら、えらい騒ぎです。ここでもう少し考えてみます。区切り方を変えてみましょう。
「ココデ ハキモノヲ ヌイデクダサイ」
着物ではなく、履物だったら納得がいきます。僕たちは、この連続した文章の中から、単語を見つけることが出来ます。「ココ」「キモノ」「ハキモノ」「ヌグ」といった単語を知っているので、シチュエーションに合わせて自然と理解することが出来ます。ところが、赤ちゃんには、そうした予備知識がありません。単語という概念もありません。連続した音が聞こえるだけなのです。この連続した音から単語を切り分けるのは、大変なことです。
赤ちゃんが成長して、単語を聞き取れるようになったとします。しかし、その単語に意味があることを認識するのは別問題です。母親が赤ちゃんの名前を呼んだとします。仮に「ヒロちゃん」としましょう。赤ちゃんにすれば、「ヒロちゃん」という単語が何なのかが分かりません。自分自身に名前があるという認識もありません。もしかすると、「おっぱいを吸いましょう」かもしれないし「おむつを替えましょう」かもしれないし、母親が赤ちゃんをあやしているだけかもしれません。真っ白な状態から、赤ちゃんが言語を習得するという現実は、アインシュタインが相対性理論を発見するよりも難しい。二人のパーソナリティーは、そのように結論付けていました。
そんな話を聞きながら、進撃の巨人との類似性を考えていました。主人公のエレン・イェーガーは謎に包まれた巨人の世界で活躍します。巨人の謎のベールが剝がれる度に、物語が大きく展開しました。そうした話を以前にしましたが、段階的に情報を開示して物語を組み立てていく手法は、小説を書くうえで非常に有効だと思います。人間が子供から大人に成長するように、物語も読み進める度に、物語そのものが成長していくような展開は自然です。とても分かりやすい。
ただ、この手法の問題点は、説明すべき内容をエピソードで展開するので、文字数が多くなりやすい。いま読んでいる推古天皇の物語は、物語の途中で直ぐに注釈が入ります。資料として読む分には有効なのですが、これでは物語に入り込めない。躓きながら読んでいるようなものです。そうしたフラストレーションを、この作品から感じています。僕的には、主人公に憑依するような一人称視点の物語のほうが読みやすい。
一人称といえば、日本語は英語に比べて、一人称視点の性質が強いことを「ゆる言語ラジオ」で知りました。例えば、「富士山を見る」を英語で表現したとします。
「I see Mount Fuji.」
「私」という主語が、富士山を「見る」という行為をします。これを日本語にします。
「富士山が見える」
「私」という主語がありません。「私は富士山を見る」と言っても良いのですが、日本語的には、ちょっと変な感じです。文法的には正しいのですが、普通は「私」という主語を省きます。また「見る」ではなくて「見える」と表現します。
英語は、主語を大切にします。行為の対象が、「私」なのか「あなた」なのかを明確にしないと文法が成立しません。三人称的な視点がとても強い。ところが、日本語は、「私」という主語が消えて、述語である「行為」や「存在」が強調されます。この言語の性質の違いは、思想的な違いともリンクしています。これは新しい考え方でかなり面白かった。
宗教が一神教的な英語圏は、言語も神視点である三人称的な性質が強い。対して、日本語は一人称的な性質が強く、見えている対象に注力されています。その傾向は、単語にも現れているのですが、深く掘り下げるのは、僕の理解力がまだ追いついていません。ただ、八百万の神的な日本は、相対する個々の対象に対しての観察力が深い。「青」という色一つを取り上げても、「水色」「紺」「藍」「空色」「群青」など様々な青を見つけます。そうした、日本的な特徴を感じれたのはとても参考になりました。
小説を書くようになってから、日本語というものを僕は再認識しています。僕は、まだ何も知らない。知らないことが多すぎます。そんなことを感じれている50歳を過ぎた今が、一番面白い。