自業自得
久々に文章を書きます。ここ最近は、進撃の巨人のアニメを見返したり、推古天皇の書籍を読んだり、考古学のセミナーに何度か足を運びました。セミナーは大阪城の隣にある大阪歴史博物館で行われていて、僕が参加したテーマは「古代の史料の話 ー類聚三代格ー」と「発掘からみた中世大阪の沿海開発?難波砂堆」でした。
類聚三代格は平安時代の資料で、律令制度を具体的な法令集としてまとめたものを「格」と呼びます。当時は太政官が国政を統括していました。大臣や大納言です。その下に、中務省や兵部省、また大蔵省や宮内省があります。太政官がそうした組織に命令することを「符」と言います。その「符」の内容が「格」になり、まとめた物が類聚三代格になります。本文は全て漢文ですし、かなり難しいのですが面白い講義でした。当時の様子を伺い知る上では貴重な資料になります。
中世大阪の沿海開発も面白かった。縄文時代の大阪は海の下に沈んでいました。僕が住んでいる摂津市はまさに海の底だったようです。大阪城がある辺りは上町台地と呼ばれ南から北に向かって岬になっていました。大阪湾は交易の窓口であり要所であります。岬の先端でもある上町台地にはその昔、難波宮があり日本の中心地として栄えた時期もありました。その台地の西側に、難波砂堆と呼ばれる土地が時代と共に形成されていきます。20年ほど昔の考察では、難波砂堆は荒地だと認識されていました。ところが発掘調査が進み、その認識は覆されます。古代から中世にかけて既に耕作地が広がっており、海との境界には堤が設けられていました。堤は海からの影響を遮断する為のものです。水路や溜池も整備されており、想像以上に沿海開発が為されていたことが分かりました。
聖徳太子の小説を書く上で直接的な情報ではありませんが、そうした情報は僕の想像を膨らませるのに重要です。進撃の巨人にしたって、僕には非常に重要な資料です。物語の構成を考える上で、非常に勉強になっています。そもそも聖徳太子の小説を書きたい理由は、当時の仏教に対するカルチャーショックを表現したいからなのです。ここで仏教以前と仏教以後の思想的な変化を考えてみたいと思います。
古事記には、日本の神話が描かれています。冒頭ではイザナキとイザナミの国生みの話があり、その後イザナミが火の神を生んだことにより亡くなります。イザナミが恋しいイザナキは黄泉の国に向かい、妻であるイザナミを連れ戻そうとします。ところが、イザナミは「私を見てはいけない」とイザナキに告げます。見るなと言われれば、見たくなるのが心情です。イザナキは見てしまいました、醜くなったイザナミの姿を。イザナキは逃げ出してしまいます。かなり端折りましたが、有名なエピソードです。この話の中から、二つのキーワードをピックアップします。「黄泉の国」と「祟り――たたり」です。
仏教以前の日本の死生観には、黄泉の国の存在があります。イザナミは神様ですから人間に置き換えて考えるのは無理があるかもしれません。それでも、死んだら黄泉の国に行くという思想はあったという事になります。更に、イザナキはイザナミから逃げます。怯えています。死んでしまった人が、生きている人に何かしらの影響を与えることが出来ると考えています。日本には「祟り」という言葉がありますが、日本の怪談話の多くはこの「祟り」です。四谷怪談も同じです。だから「祀る」という行為が重要視されます。日本の各所にある神社は神を祀っていますが、その起源を見ていくと荒ぶる神をなだめる為に祀っています。この考え方が、基本的なベースだと考えます。
対して仏教はどうでしょうか。仏教は輪廻転生を説きます。人間だけではなく、この世の万物は何度も何度も生まれ変わってきたとします。最近、桜の花が咲き始めました。でも、いずれ散ってしまいます。散ってしまった桜も、来年になればまた花を咲かします。その様に、人間は何度も何度も生まれ変わる。その根拠として、原因と結果を説きました。
人間は平等と言いつつも、生まれてくるときは差別があります。金持ちの家に生まれたり、日本で生まれたり、男で生まれたり、病気がちで生まれたり、僕のように生まれてすぐに死にかけたりもします。全ての人間が一様ではなく、様々な差別をもってこの世に生まれてきます。その違いは、過去世の行いが原因だとするのです。最近、「親ガチャ」という言葉を耳にしますが、その両親に元に生まれてきたのは、ガチャではなく必然だったとするのが仏教の考え方です。
例えば、僕が借金をしたとします。返さなくてはなりません。でも考えるのが嫌で、布団に潜り込み寝ることにしました。次の日、目が覚めます。寝たからといって僕の借金の返済は免除されません。やはり返さなくてはなりません。飛躍した考えになりますが、人間の死も同軸上で考えます。生きている間に重ねてきた行為は、来世に結果として現れる。だから、全ての人に差別がある。仏教は、このように考えます。自業自得という言葉は、これが由来です。
飛鳥時代に仏教が伝来しました。この仏教の考え方に、聖徳太子は驚いたと思います。黄泉の国どころではありません。これまでは人間にとって不幸な出来事は、神様の祟りだと考えられてきました。しかし、仏教的にはそのようには説きません。――お前が悪い!――なのです。驚きだったと思います。ショックだったと思います。
――じゃ、どうしたら良いの?
ここからが、仏教の本題です。現代的には、神様仏様と一緒にされていますが、内容は全然違います。仏教はかなり論理的な哲学です。あまりにも論理的過ぎて難しいので、単純に神様扱いされていますが、それは本意ではない。僕はその様に考えています。