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だるっぱの呟き  作者: だるっぱ
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書評「エンタメ小説家の失敗学」

 拙書「逃げるしかないだろう」の投稿が終わり、腑抜けてしまいました。軽くですが、風邪を引いたみたいです。仕事を早退させてもらいました。一日布団の中で過ごします。休みながら本を一冊読みました。


「エンタメ小説家の失敗学」――売れなければ終わりの修羅の道――

著者 平山瑞穂

 

 何と言いますか、身につまされる様なお話でした。僕はプロではないので大げさかもしれませんが、物語を創作することの意味について考えさせられました。


 小説家って、高尚でどこか仙人のようなイメージで、文章を書いていれば生活が出来る――そんなイメージを持たれるのではないでしょうか。しかし、実際は生き抜くことに必死で、足掻きまくっています。


 著者が体験した様々な失敗談を、具体的に紹介しています。読めば読むほど、小説家なんかになるもんじゃない。そんな気持ちにさせられます。本書の具体的な内容には触れませんが、作者の失敗には、一つのパターンがありました。


 ――理想と現実の乖離


 一口に小説といっても、様々なジャンルがあります。推理小説、SF小説、ファンタジー小説、恋愛小説、歴史小説、ノンフィクション、エッセイ、私小説、最近ではなろう系といわれる異世界物が人気です。


 そうした小説を、日本では慣習的に大きく二つに分けています。純文学と大衆小説。小説の世界には、すぐれた作品に賞を与えるコンテストがあります。純文学では芥川賞が有名で、大衆文学では直木賞が有名です。純文学と大衆小説の違いについて説明するのは難しいのですが、僕なりの解釈を述べてみます。


 純文学は、新しい挑戦を評価します。内容にしろ、書き方にしろ、これまでになかった価値を求めます。絵画でいうと、現代美術みたいなものでしょか。抽象的で、哲学的で、一見すると何のことか分からない。しかし、そこには作者の熱い情熱が注ぎ込まれています。文章を書くうえでは起承転結が必要だと言われます。しかし、純文学は問いません。オチが無くても良いのです。読者の心を引っ掻く、新しい何かがあれば良いのです。


 対して大衆小説はエンタメ小説とも言われ、エンターティメント性を求めます。世間で発表されている多くの小説は、この大衆小説に分類されます。大切なことは、面白くないといけません。しかし、面白さの追求は、非常に難しい。なぜなら、面白さというのは、千差万別で人により趣向が違います。


 例えば、推理小説ならトリックの巧みさを面白がります。誰も見たことのないトリックを仕込まれると、読者は面白がります。歴史小説は、時代考証の斬新さやその深堀を楽しみます。恋愛小説なら、恋する二人のすれ違いを楽しみます。ハッピーエンドにしても悲哀にしても、恋愛は古来からの重要なテーマですね。


 この面白さという価値観は、とらえどころがありません。特に、昔と違って現代は多様化の時代です。人によって面白がる内容が違います。その多様化は、インターネットの発展と共に、更に加速しているように思えます。この面白さを、世に問うということは、非常に難しい仕事なのです。


 この作者は、本来、純文学を目指していました。新人賞に作品を送りますが受賞できません。ところが、たまたま送り込んだ、作者としては中途半端だと感じる作品がエンタメ作品として評価されます。受賞することになりました。作者に言わせると、この受賞が、ボタンの掛け違いの始まりだったようです。


 ――純文学思考の作者が、エンタメ小説を書く。


 苦労が始まりました。作者の作品に対する思いや哲学が、読者に伝わらないのです。そこに編集者とのすれ違いが拍車をかけました。小説を書くのは作者ですが、商品として体裁を整えるのは出版社です。出版社は、商売として本を販売します。売れなければ、作者にお金を払うことが出来ません。売れる方向で作者に校正を求めます。しかし、作者には、作品に込める思いがあります。ここにジレンマが生まれました。


 初めの頃は、編集者の指示に従い校正を進めますが、時には反抗します。そうして生まれた作品は、編集者や作者の意図に反して、売れたり売れなかったりします。作者なりに力を注いだ作品が売れなくて、中途半端に世に生み出された作品が売れたりします。作者と出版社と読者。この三者関係のすれ違いを面白く読ませていただきました。


 そのすれ違いを生む原因について、作者は共感という言葉を持ち出しました。

 ――共感。

 この取り扱いが難しい。


 純文学思考の作者は、自分が理想とする思いや哲学を結晶化しようとします。しかし、先鋭過ぎてその思いが読者に伝わりません。読者は、物語を読むとき共感を求めます。ここに、作者と読者との乖離がありました。理想と現実です。


 この乖離は、僕も常々感じていることです。多くの読者は、何を求めて小説を読んでいるのでしょうか?


 なろう系に象徴される物語のテーマは、「全能感」だと思います。他人には無い圧倒的な何かを持つ主人公が、異世界で無双します。読むと、自分が超人になったようで気持ちが良い。敵を簡単にやっつけます。異性からはモテてまくって、エンジョイライフを満喫します。ここに、虐げられるような重いシーンを用意すると、途端に読者が減ります。読者は、共感が出来ないからです。


 また、「共感」を得るためには丁寧に説明をする必要があります。作者からすれば、無理に説明しなくても分かるだろうと思うことも、説明しなければいけないのです。ラストのシーンでも、無理に語らずに終わらした方が美しいのに、読者はそれを許しません。作者に対して、その後どうなったんだと、説明を求めます。


 なろう系の題名は、非常に長いのが特徴です。その物語が、どのような話なのかを簡潔に説明した方が、読者は安心して読むことが出来るからです。また投稿小説は、作品の説明が用意されているのですが、人気作品はあらすじが延々と述べられていたりします。僕は、そんなあらすじを読みたくはありません。読んだら、新鮮な気持ちで読むことが出来ないからです。しかし、今は書いた方が良いのです。


 正直言いまして、そうした感覚は馴染めない。僕が小説を読む目的とは違うからです。僕が本格的に本を読んだのは、小学5年生の時です。最初の一冊は、江戸川乱歩の「怪奇四十面相」でした。ハラハラドキドキです。主人公である、小林少年になりきり、一緒に冒険しました。四十面相と知恵比べが楽しかった。少年向けの推理小説を卒業すると、ファンタージー小説やSFに興味を持つようになります。


 高校生になると、それまでに読んでいたファンタジーやSFが面白く感じなくなりました。所謂、文学作品に傾倒していきます。芥川龍之介や太宰治、吉川英治や宮本輝にハマりました。


 ――人生って何だろう。

 ――生きるって何だろう。


 そんな答えを求めて本を読んでいたように思います。ですから、僕が創造する物語はテーマが少し重くなりがちです。なるべくエンタメ路線に振るようにはしているのですが、人によっては、それが面白くなかったりします。


 趣味で小説を書き、ネット世界で紹介していますが、僕の作品は多くの方に共感を得る作品ではありません。時に、何のために書いているのだろうと悩むことがあります。しかし、自分が面白いと思う世界を創造することが、大事だなと思いました。本業にしてしまうと、売れるために書かなければいけない。それは違うなと、改めて思いました。


 僕の作品を読んで面白いと思ってくれた方がいる。それだけで、嬉しい。

 ありがとうございました。

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