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自称行為  作者: オノマトペ
5/5

おわりに

*42

 私がこの作品を書こうと思ったのは、ちょうど海外での修業を終え日本に帰って来た時だった。その当時、私は“時差ボケ”よりも言うなれば“社会差ボケ”を患っていた。そんな事を言うと、“海外かぶれ”だの“反日”だのと言われてしまいそうだが、海外びいきなどではなく純粋にこの身で感じた事のみで比べた結果である。



 海外での修業期間は10年に渡った。社会人として2年働いた後、20歳でドイツに渡航し30歳を迎える年に日本に帰ってきた。日本の社会よりもドイツの社会での生活の方が長いのだ。妻と出会ったのもドイツである。



 “社会差ボケ”と書き出したが、偉そうにアレコレと口を出すつもりもない。それこそ、反日だと思われてしまいかねないので慎重に順を追って述べていこうと思うが、まず気になったのはコミュニケーションの不自由さだ。それは私の日本語が下手になったというわけではなく、また私個人の主観のみを言いたいわけでもない。

 例えば、日本語には相手の立場によって言葉を使い分ける文化がある。相手の立場を尊重している事を表現できる手法なのであるが、それがコミュニケーションにブレーキを掛けている部分は否めない。


 中学校くらいから先輩後輩という上下関係が生まれるのは日本の教育現場である。それに対してドイツでの少年たちの間に年齢差などはまるで無い。それどころか、大人と子供の間にでさえ日本のようにはっきりとした上下関係は存在しないのだ。厳密にいえば、もちろん年上の人間を敬う風潮はあるのだが、言葉に種類が無い分、誰とでも分け隔てなく会話をしているという状況が生まれるのだ。

 「ドイツ人は議論好き」という話を何かで聞いたことがあったが、そうではなくただ誰とでも会話が出来るいたって自然な人間らしい環境で育っているだけである。


 先に挙げた“コミュニケーションの不自由さ”であるが、例えば駅員さんやコンビニの店員も過剰なまでに下手から入る。久しぶりに日本に戻った私は最初少し戸惑ってしまった。どう対応していいのかが分からなかった。そこまで低い姿勢で来られてしまうと普通に接しているだけで“上から目線”と思われてしまいかねない。


 それから上司の顔色を伺ったりしなければいけないのも窮屈そうに思えた。それも一口に言えば“文化”なのだろうが、改めて見ると悪影響が出てしまっているのも事実であるように思える。

 上司に対しても意見を言う人を特別視するところがあるが、本来それは普通の事であるべきだ。もっと言うと、誰でも意見をする事は許されるという事である。「年下のクセに生意気だ!」や「誰に口きいてんだ!」などという喧嘩言葉をドラマなどで聞いたことがあるが、上下関係という物によって簡単にそういう事を言えてしまう社会なのだと思う。

上下関係とは時に単なる“年齢による上下”ではない時もある。例えば有名人と一般人、アイドルとマネージャー、セミナーの講師と受講生、大学卒と高校卒。そういった“いくつもの上下関係”が入り組む中で、どうしても上と下を決めたくなる風潮起こってしまっている。


 年下の先輩と年上の後輩、というだけでも2つ。その中でどちらが上か下かを決める事でコミュニケーションの主導権を握る方が決定される。逆に言うと、上か下かが決まらなければコミュニケーションがスムーズに行われないのである。


 そういった入り組んだコミュニケーションシステムの中で、次第に人は疲労感やストレスを抱え始めてしまう。上司に逆らえず、そこで溜めたストレスは後輩で掃ける。その後輩はそのストレスを例えば恋人に掃ける。あるいはコンビニの店員に掃ける。すると上から貰ったストレスを下へ流していくという悪循環が生まれてしまうのだ。


 中には気が弱く上から貰ったストレスを下へ流せない人、あるいは下を見付けられずにいる人もいる。そういった人は、今度は自分の身を隠し“匿名”の環境で吐き出す事になるのだ。上も下も無い環境である。言うなればいつでも自分が上に立てる環境である。その分かりやすい例がインターネットやツイッターと言った場だ。また作品中のカズルのように、現実世界を遮断して部屋に引きこもる事も同じである。“上も下も無い環境”に逃げ込んでいるのである。


 こうして“逃げる”という表現を使うのはマイナスイメージを私個人が抱いているからに過ぎないが、本来、人間関係において“上も下も無い環境”というのは正しい姿であるというのが持論だ。

 それではなぜそれが“逃げ”なのかと言うと、“上も下も有る現実”を受け入れられていないからである。本来の姿と現実の世界で、当然誤差は生じるものだ。そこに向き合う前の段階から目を背けてしまうのが逃げなのだ。

 


 今、日本社会にはびこる大人のイメージは実に暗いものだ。そんな黒紫の暗雲が立ち込めているような社会に意気揚々と純真無垢な少年少女が飛び込んでいきたくなる方が不自然である。そんな若者が、インターネットやアニメ、ゲーム、そういった“非現実世界”の中で自分の地位を確立させたくなる衝動はまさに窮屈な社会へのリアクションである。

 今日ではセクハラのみならず、パワハラなどという言葉まであるが、そもそもコミュニケーションが不自由でなければ起こらない問題であると私は思う。飲み会に行きたくなければ断ればいい、断られたら諦めるべきだ。自己主張をする自由だ。


 “上も下も無い空想”に逃げ込む人もいれば、“上も下も有る現実”に取り込まれざるを得ない人も大勢いる。その窮屈なストレスの流通から少しでも身を守ろうとするのはいたって普通の思考だ。社会の中であれ、“個”であれば“上も下も無い”のと一緒なのである。他人事に干渉しないのは、自分が干渉されたくないからである。干渉されてしまうと自分を知られてしまい、自分が知られてしまう事は“意見”であり目立ってしまうのである。この“下を貪欲に探す社会のモンスター”にとっては恰好の獲物なのである。つまり他人に干渉しないのは自己防衛なのである。


 しかし自己防衛に迷走していると、“個”である事に甘えてしまうのだ。人の事を考えるという事を忘れ、冷酷人間が誕生してしまうのだ。

ある一定の年齢からは社会の中に取り込まれ働き始めるが、そこでも自分が傷付かないように他との接触に消極的になり、ただ単にお金の為に動いているならサイボーグと変わらないのだ。それこそAIに取って代わられる準備は整っているのだ。


「人と話さなくても生きていける」のは事実だが正解ではない。コミュニケーションの不自由さが故に不具合が生じている現場はここで挙げた例以外にもたくさんあると思う。私はそんな事を10年のドイツ生活を経て今の日本に感じ、この度稚拙な文章ながら作品としてここに残した。


こんな意見を持っている私も“コミュニケーション不自由社会”から見たらただのはみ出し者に過ぎない。そういった事を日本に帰って来てから痛烈に感じた。パン屋を開いてはみたものの、客も最初は野次馬精神に駆られて大勢来てくれたが、噂によると私のいわゆる“フレンドリー”な接客が鼻についたそうだ。皆、必要以上のコミュニケーションは望んでいないらしい。そんな事がインターネットで拡散されれば次第に身も蓋もない噂まで飛び出し、いつの間にか店をたたむ事を決心していた。これを私の遺書としてここに残す。




柳戸 寒太郎













【あらすじ】

主人公のカンヌキカズルは大学生活に大きな希望を抱いていた。ところがいざ始まってみると、友達も出来ずにいわゆる「ぼっち」としての生活が続いた。そんなカズルの救いはゲームやアニメでありひきこもり気味にはなったが、ユーチューバーとしての活動に目を付ける。その動画が大ヒットし図に乗るカズルは、”動画の為に”バイトを始める。そこで店長のカンタロウ、その妻アズサ、従業員のユウナに出会うが、そこではすでに「ボッチ大学生」として出来上がっていたカズルは端から仲良くなるつもりもなかった。仕事の不満やその他、非常識な行いを動画を通してやってしまう。それがカンタロウに見つかり、注意を受ける。そこでカズルの心境に大きな変化が訪れる。ちょうどその頃に、元気のいい看板娘従業員ユウナもネット上で職場の不満を言っている姿を偶然にもカズルが発見してしまう。それをユウナは指摘されると、どうしていいか分からずにカズルを殺してしまう。

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