4
*22
この日は日曜日でベッカライ・オノマトペは休み。ヤナドカンタロウは自宅の書斎で本を書いていた。
カンタロウの本業はもちろんパン屋で、海外の本場で修業をしてきた経歴もあった。しかしその傍ら、カンタロウはバンドを組み音楽活動をしたり、本を執筆したり、挿絵のような小さい絵を描いたりと、趣味の延長で色々と活動をしていた。しかし、ただの趣味とも言えないほどには注目をされていた。一度とある雑誌で「異色のパン屋さん」として取り上げられた事もあり、動画投稿サイトに上げた自身の楽曲も爆発的にヒットし、自らネット上に書いた小説も1つ書籍化された。
「あなた、ユウナちゃん来たよ。」
アズサが書斎の戸を開けカンタロウに伝えた。カンタロウは「すぐに行く。」と返事をした。ユウナは、初めてヤナド家宅を訪れた。金曜日にアズサと話している中で、アズサが招待したのだった。
「いらっしゃい。」と書斎から出てきたカンタロウが言うと「セアヴォース!」と元気のいい挨拶でユウナも笑顔で応対した。
「キレイにしてますね!あ、あそこがカンタロウさんのアトリエですか?」
「アトリエって言うか、書斎な。」
ユウナは興味津々に部屋中を見回した。そこにアズサがコーヒーとケーキを運んできた。それらをつつきながら3人は話し始めた。
好奇心の旺盛なユウナは色々と、普段職場では見れない姿や聞けない話等質問を繰り返した。カンタロウもアズサも、少し恥ずかしくなった。しかし、一方で娘のような存在の彼女になら、と知られる事への抵抗も少なかった。
「ユウナちゃんは彼氏おらんの?」
アズサが唐突に聞くと、ユウナはコーヒーカップを口に付けたまま目を丸くしてアズサの目を見た。コーヒーを飲みカップを置くと「いますよ。」と少し恥ずかしそうに答えた。「どんな人?」とアズサが興味津々に聞き返すと「もういいじゃないですか!」とはしゃぎながらも携帯を取り出し写真を2人に見せた。
「お2人は、子供は欲しくないんですか?」
今度はユウナが少しつっこんだ質問をして、カンタロウに「失礼やな。」と笑われた。しかしその後で、アズサが妊娠中だと説明した。
「実は今2カ月目でね。そのうちアズサも仕事を休まんといけなくなるからそん時は頼りにしてるよ。」
ユウナは不安そうに頭を抱えたが、顔は笑っていた。そしてその後、少し真剣な顔になってカンタロウに「カズル君のことなんだけど、」と切り出した。それと同時にカンタロウは何かを思い出したように立ち上がって「ちょっと待ってて」と言い残し書斎の方に戻っていった。そしてパソコンを持って戻ってきた。
「カズルの態度の事で改めてどう思いますか?って事やろ?」
カンタロウのその問い掛けにユウナは1つ頷いた。実際、カズルの接客態度に変化はなかった。加えて職場の人間にはますます心を開かなくなっているようにユウナは感じていた。カンタロウはパソコンで何やら調べた後、「これや。」と言って2人に画面を向けた。
「とりあえず、1回見てみて。」と言ってある動画を流した。「地獄のクズぼっち」の動画だった。
*23
カンタロウがとりあえず流したのは、バイトシリーズの第1回目、面接に来た日の動画だった。モザイクを掛けられてはいるものの、カンタロウ達から見れば、自分の店や事務所である事は一目瞭然だった。
「これ、、、カズル君なの、、、?」
ユウナは口元に手を当てながら、そうであって欲しくはないような口ぶりで聞いた。誰も本当のところは知らなかったが、その動画が終わると立て続けに何本か見た。見ている内に、まるでパズルのピースがはまっていくように、カズルである事の確実性が上がっていった。
「ビックリしたやろ。」とカンタロウが聞くとアズサもユウナも無言のまま頷いた。それと同時に背筋が凍るような感覚があった。
自分のお店が動画に登場したことも然る事ながら、顔を映さない“地獄のクズぼっち”という男がまるでカンヌキカズルとは別人のようにペラペラと、しかも胸の内に溜めている不満や、人間批評を語っているのである。その動画の中で話される話の登場人物の中には、それぞれに思い当たる節があったのも怖かった。
ユウナはブルブルと小さく震え始めた。あまりに衝撃的だった。普段、何を話し掛けてもそっけない返事しかしてこないカズルが、動画の中では自分のことを「美女」として利用していること、そしてコメントを見ているとその“正体不明の美女”に一定のファンがついていることなど、胸の奥底から何とも言えない気持ち悪さが込み上げてきた。
アズサも同様に、気持ち悪さに襲われていた。自分が注意した時や普段の振る舞いに対して、問題はないと思っていたのだが、動画の中で“地獄のクズぼっち”という男は、その言動に対して苦言を呈していた。動画のシリーズが進むに連れて、彼の胸の内の不満はエスカレートしているように見え、月曜日に会う事を考えるとぞっとした。
「たまたま今日、そのサイトで出てきた。“人気動画”として。そんで見てみたらなんか聞き覚えある声やなーと思って他の動画見てたら、店が出てきて。」
「月曜日、注意してください!」
ユウナは縋り付くようにお願いした。「絶対に」と何度も念を押した。
「もちろん言うつもりでいるよ。だから、2人は何にも知らないっていう顔をしててほしい。動画を見てる限り、仮に俺らが3人でその件に触れると、何をしでかすかわからんから。」
2人は賛成だった。
ユウナはその話を最後に家に帰る事になり、アズサは車で送っていく、と一緒に外に出た。カンタロウはコーヒーとケーキに使った食器の片付けにかかった。
「本当にショックです。」ユウナが言う。「本当に驚いたわね。」とアズサも共感した。
「私たちカズル君に何も悪いことしてませんよね?動画の中でめちゃくちゃ悪く言われてたじゃないですか。なんで、言いたいことあったら言ってくれればいいのに。」
ユウナはショックが収まり今度は不満が込み上げてきた。アズサは何か考えながらも「本当にね。」と頷いた。ユウナの家に着くまでの間、ユウナはずっと不満を漏らし、アズサはそれに共感する、ということの繰り返しだった。
アズサが家に帰るとカンタロウが抱き締めて迎えた。いつものことではあったが、少し力が強い気がした。アズサはそれから夕飯の支度にとりかかった。
夕方5時過ぎ、夕飯を食べた後2人はカズルの事について話した。カンタロウの仕事時間の関係で夕飯はだいたい4時くらいに食べ、カンタロウだけは8時頃に寝る生活だった。
「いやー、改めてびっくりしたわ。」と、カンタロウが始めた。」
「面接の履歴書にも確かに『趣味:映像制作』って書いてあったわ。それで、ユーチューバー?って聞いたらその時は、違うって言ってたんだけどね。」
「ユウナからもこの間相談されて、まぁアズサにももう言ってるんやろうけど、カズルの接客態度が悪いってことをね。なんかこう、あの動画を見た後だから、どういう人間性かってのがはっきりしてくるな。どうりで接客態度も良くないよな、みたいな。」
カンタロウは少し冗談ぽい表情を浮かべながら話してはいたが心中穏やかではなかった。
*24
月曜日深夜1時30分に、カンタロウは職場の工房に着き、仕事を始めた。周囲は当然暗く、1人の作業なのである意味邪魔が入らず快適だった。海外に住んでいた頃によくラジオから流れていた音楽を掻き集めて作ったプレイリストが作業中のBGMだった。
材料を量り、粉を混ぜ、生地を捏ねて成型する。醗酵室に入れ次のパンの粉を量る。発酵が済んだものから次々と焼いていく。簡単に言うとこういった工程で仕事は進んでいく。
この日、どの工程に際しても、どうしてもカズルが脳内を過った。いずれにしても本人に直接聞かなければ、考えていてもそれは憶測の域を越えないので、なるべく無駄な労力は使わないように、と、意識はしてみるがどうしても浮かんできた。
朝方5時になってアズサも出勤してきた。カンタロウと挨拶を交わすと朝6時の開店に合わせ販売の準備をすすめた。カンタロウが焼いたパンをかごに入れ並べる。小型のパンはカウンター前のショーケースへ、大型のパンはカウンター後ろの棚にいつも通り並べた。アズサの頭の中にもやはりカズルの姿が浮かんでいたが、カンタロウにその事を伝えはしなかった。
今日の1人目のお客さんは常連のシヤさんだった。今日も上品ないで立ちで来店した。
「おはよう、アズサさん。」とにこやかに挨拶をし、アズサも同じように挨拶を返した。
このシヤという婦人も若い頃に海外に住んでおり、近所で海外の味が買えるなんて、と最初の頃からずっと通い続けてくれていた。
この日も大型のパンを1つ買いアズサからそれを受け取ると、予想外の事をアズサに告げた。
「最近よく聞くんだけど、あの土曜日にいる男の子いるじゃない?大学生の。彼の評判がどうもよくないのよ。」
アズサは驚き、同時に世の中のタイミングとは実にうまくできていると感心した。
「私ら世代の仲間の言う事だからね、ほら、年代の違いってよく問題になるじゃない。だから私は、今の若い子はそうなのよって、でもあの店のパンは美味しいのよって言ってるんだけど。まぁ年寄りの言う事だからあんまり気にしなくていいと思うわよ。私はこの店好きだし。」
シヤはそう言って帰って行った。思わぬところからの情報に驚いたが『やっぱりね』と思った。ユウナも言うように、カズルの態度は接客業に置いて相応しくない。そんな噂が立つのはむしろ自然な事であった。しかしそんな話を聞いてからみると、心なしかこの日の客の出入りは少ないような気がした。
11時前になってユウナが出勤してきた。挨拶はしたもののなんとなく元気がないように見えたが、カズルの件には触れないようにという空気を崩したりはしなかった。
その後ユウナはカンタロウがいないことに気付いた。いつもは、ユウナが出勤してくる時間には休憩室でコーヒーを飲んでいるのだが、この日はその姿が無かった。
「今日、店長は?」
「今日は仕事を早く終わらせてもう一旦帰った。午後1時半くらいにまた来るって。」
カズルが出勤してからまた来るんだ、とユウナは直ぐに察して理由は聞かなかった。
ユウナは前日、送ってくれたアズサが返った後、家で恐る恐る“地獄のクズぼっち”の動画をバイトシリーズ以外も含め全て見てしまっていた。カズルが働き始める前の、大学での孤独な姿や、汚い部屋など、いよいよカンヌキカズルの素性に触れたような気がした。その触れ方が、身近にいるにも拘らず動画を通した間接的な遠回りだったのが気持ち悪く感じられた。問題はその“距離感”にあった。
距離の近い勤務時間に知れなかったことのほとんどを、インターネットを介して遠回りに知るということの不気味さはそれは物凄かった。ユウナにとっては初めてのことで、正直、事態をまだよく呑み込めていなかった。
1時前になってカズルが出勤してきた。アズサとユウナの間に暗黙の緊張が走ったが、いつも通り挨拶をした。カズルもまたいつも通り軽く会釈をするだけだった。ユウナの膝は小刻みに震えていた。
*25
着替えを終え店頭に戻ってきたカズルはショーケースから菓子パンを1つ取ると休憩室に向かって行った。最初にユウナが教えた通りだ。カズルはもちろん教えられた通りの行動をしているので何も悪い事はしていないのだが、例外なく毎回、例えばお客さんが多く忙しい日でさえ、教えられた通りに忠実に、しかも無表情、無愛想なまま動くので、それも2人は少し気味が悪かった。しかし動画を見た彼女らにとってその不気味さはますます強く感じられた。
食べ終えると、カズルは店頭に戻ってきた。アズサとユウナの間でさえこの日は会話が弾まなかった。
しばらくしてカンタロウが戻ってきた。見せに入ると「元気か、少年。」といつもの明るい調子でカズルに声を掛けた。カズルは会釈するだけだった。カンタロウはそのまま休憩室に真っ直ぐ行き、コーヒーを2杯持って店頭の方に戻ってくると「カズル、ちょっといいか。」と声を掛け2階に上がっていった。カズルは、1つ頷いて黙ってカンタロウの後について行った。
ユウナはそこでさえもまた不気味さを感じてしまっていた。それはカズルが店長に呼ばれても、不安がる様子もなく、表情一つ変えずに付いて行ったところにあった。人間味や感情を感じないサイボーグのように、ユウナには思えてしまった。
事務室に入ると、とりあえずカンタロウはカズルに座るよう促した。テーブルにコーヒーを置き、カンタロウも向かい合うように座った。そしてにこやかな表情のまま切り出した。
「どう、最近仕事は。」
カンタロウはまずは当り障りのないような質問をした。
「大丈夫です。」と、カズルはここでも返答に困るような答えをしてきた。
「そうか、なら良かった」とカンタロウは言うと、一口コーヒーを飲み、カズルにも勧めた。そしてその後に「不満とか、あるか?」と聞いた。変に勘付かれても面倒になると思ったカンタロウは即座に、これは従業員の満足度調査で今後の店づくりの参考にする為に定期的に行っている物だと付け加えた。
「特にないです。」
カズルははっきりとした口調でそう答えた。カンタロウはそうでないことをわかっていたが「本当にないか?」と念を押してみた。それでもカズルは「特にないです。」と強い口調で言った。その言い方は、物凄く強く思っている意見を主張する時の言い方であって、この場面でその力強さは不要だろうと、考えカンタロウは少しおかしくなった。その後でカンタロウが不満の具体例、例えば対人関係とか働く時間とか、を挙げてみてもカズルは頑として「特にないです。」と言うので、ついにカンタロウは本題に入った。
「あの、カズルさ、動画撮ってインターネット上に投稿してるやろ?」
カズルの目は一層鋭く開いた。
カンタロウは当然分かっていた。ここまでひた隠しにしていたプライベートを急に指摘されたら、カンタロウ本人であったとしてもどうしていいか分からなくなるに決まっていた。カズルもまさに頭の中がパニックになっていた。
「そのサイトを見てたらな、人気の動画っていって一本出てきたんやな。何の気なしにそれを見たら、声に聞き覚えがあったからな、次の動画を見たら、完全にうちの店が出とったからな。」
カズルは斜め下を開ききった目で見つめていた。鼻息が荒くなっていた。カンタロウは切り込んだ後で重圧から解放されたような気持ちがしてコーヒーを啜った。それでも心臓はバクバクしていた。
「動画を撮る事はもちろん個人の趣味やで、最近ユーチューバーが流行っとるのも知ってるから否定はせんけど、お店を撮るのは、ましてやこの事務室の中まで撮るのはダメな事や。モザイクを入れれば許されると思ったのか知らんけど、無許可やで。知ってる人が見たら簡単に分かるで、ああいうのは。」
カンタロウは始終、口調を荒げることなく話していた。カズルの心中はますます穏やかじゃなくなっていった。動画が見られたことというよりも、自分の素性を知られたことが苦痛だった。大学でも散々マスクとイヤフォンで守ってきた“自分の世界”に侵入されたような気持ちだった。
「それからな、職場での不満とか仕事仲間の不満も漏らしとんな、動画の中で。顔を隠して名前も変えて話しとったけど、内容はそのままやったし。で、仕事を楽やと、そういう風になめているのも癪に障ったし、で、普段あんまり喋らんから、そういう子なんかと思っとったら、不満も無いんかと思っとったら、動画の中で言っとったし」
カンタロウがそこまで言った時、カズルは机の上のコーヒーを手で払い飛ばした。床にコーヒーと割れたコーヒーカップの破片が散らばった。カズルの息はうるさいくらいに激しくなっていた。
「おい、」
カンタロウが大人しく宥めようとする声さえ掻き消すようにカズルは声を荒げた。
「何勝手に見てんだよ、、、何勝手に人のプライバシー見てんだよ!」
その声は店頭の2人、それからお客さんの耳にも届いた。
カンタロウはとりあえずカズルを宥め、店頭にいるユウナに掃除道具を持ってくるように頼んだ。そしてカズルをソファーに座らせた。カズル自身も感情を爆発させてしまった事を少し後悔していた。
モップとバケツを持ってきたユウナは恐る恐る事務室内を覗いたが、ソファーに座ったカズルの後頭部しか見えず、カンタロウはまた店頭に戻るように指示した。
「感情的になると話し合いにならんから、とりあえず落ち着こう。そんで思ってることあったらもうなんでも言って。話をしよう。」
カンタロウはそう言うと、自分自身も落ち着けるように残りのコーヒーを飲み干した。
*26
カズルは再び黙ったまま座っている。カンタロウは何処から話し始めればいいか分からなかったが、改めて注意を促した。
「まぁさっきも言ったけど、まず第一に店を無断で載せるのは良くないよな?」
「モザイクかけてるんで問題無くないですか?」
カズルは大人しくも力強い口調で聞き返した。
「そういう問題じゃないやん。問題は無断ってとこやって。しかも外観だけやったらまだしも事務室内もやろ?」
カズルは鋭い目付きをしたまま口は噤んでいた。
「後、みんなへの不満も言ってたけど、そういう不満があったら直接言わないと意味ないから。」
「店長に僕の何が分かるんですか?」
カズルは膝の上に拳を作り下を向いたままこんなことを聞いた。
「なんも分からんよ。」
「何も分からない人にとやかく言われる筋合いはないんですけど。」
カンタロウはまいったなという表情を浮かべたが、少し黙って聞いてみようと思い「どう言う事だ」とだけ返事した。
「人のことに色々と口出しする前に、その人のこと分かろうとした方がいいんじゃないですか?」
「俺は分かろうとしてたつもりだったけどな。」
「つもりなだけじゃないっすか。」
「俺だけじゃないよ、アズサもユウナもみんなカズルのこと分かろうとしてたぞ。」
「そんなわけないじゃないですか。2人とももう話し掛けても来なくなりましたよ、これのどこが分かろうとしてるんすか。」
カズルの言葉に少し力が入った。
「最初の頃は話し掛けてきてたって事やろ?その時じゃない?」
「でも結局、見捨てられましたよ。」
「どうして?」
「知らないですよ、本人たちに聞いてくださいよ。」
「俺はもう知ってるよ。本当に思い当たる節ないの?」
カンタロウの問いにカズルは鼻息を荒げた。
「、、、そうですよ、僕がクズだからですよ!」
カズルはヤケになったように言い放った。顔は真っ赤だった。
「違う、そうは言ってないやん。自分のことクズやと思っとんの?」
カズルは押し黙っあと「なんでそんなこと平気で聞けるんすか?」とカンタロウに問いかけた。
「自分で言ったから、そう思ってんのかなと思って。」と、カンタロウは淡々と答えた。
「思ってますよ。」
「なんで?」
カズルは言葉に詰まった。その理由は単に、答えにくい質問というだけではなかった。
「今、カズルのこと分かろうとしてるんやで。注文通り。」
「別に分かってくれなんて頼んでないじゃないですか。」
「いや、俺は、カズルのプライベートな動画の中で店と同僚の悪口を言ってほしくないから注意したいんやけど、その為にはお前のこと分からんと注意したらダメらしいから。」
「っていうか動画見たなら、僕のクズさ分かってるでしょ。」
「分かってたら聞かないよ。」
カズルはイライラし始め頭をぐしゃぐしゃと掻き荒らしながら「もー」と1つ声をあげた。
「動画全部見たんすよね?」
「うん。」
「大学でもぼっちなんすよ!大学でもぼっち、バイト先でもぼっち、もうそういう人間なんすよ!いっつもそう、何をやっても上手くいかないクズ人間なんすよ!」
「なんでぼっちなのか考えたことある?」
「ありますよ、本当にダメ人間だからに決まってるじゃないっすか。」
「いやもっと具体的に。」
「そんなの分かるわけないじゃないですか。」
カンタロウは一呼吸ついて、少しずつ切り込んでいった。
*27
「大学入学した時からぼっちだったん?」
カズルはぶっきらぼうに「そうですよ。」と答えた。
「友達作ろう、とか思っとったやろ、最初は。みんな最初は1人やしな。」
「しましたよ。」
「どんなこと?」
その質問をされた瞬間に、カズルは言葉が出なくなった。思い返すと、“友達作りの為にした事”がすべて人に言うのが恥ずかしいような事ばかりに思えた。そして実際にそうだった。
ペンを落とす、肩をぶつける、グループの隣に座る。すべて相手主体でしか動けないような事を自分から“きっかけ”を作っただけに過ぎなかった。カズルにはそれしか出来なかった。
「声掛けるとか、自分から動いとった?」
カズルは当然、何も返せなかった。
「そういう事はしとらんやろな。」
「だから僕の何を知ってるんですか?」
図星を突かれたのでなおさらカズルは反抗的になった。
「だって面接に来た時も働き始めた最初の頃もそんな感じだったやん。こっちが話しかけても反応が鈍かったからみんな困ってたで。しかも、未だに心を開こうとせんやろ?そういう人が積極的に友達作りに奔走するなんて思えんもん。」
カズルは胸のあたりが苦しくなった。
「なんすか、みんながみんな友達作りに積極的じゃなきゃダメなんすか?」
「そうは言ってないやん。カズルが自分で、友達作る為に動いたけど結局できなかったってことを言ったから。結局、嘘なんやん。それ。」
カズルは下を向いて何も言えなかった。
「カズルは甘えてるんやって、結局。大学でもここでも、自分から動かんままで、周りの人は誰も分かってくれないとか、自分はダメ人間なんだ、だからずっと独りなんだ、とかな。分かってるようで解ってないんやって。」
「そうやって自分自身に“ダメ人間”っていうレッテルを貼ると、もう全部そのせいにしてそれ以上考えようとせんのやな。なんで友達が出来ないのか、とかもさ、結局は自分から動かずに他力本願に待ってるだけやったっていう理由がすぐ分かったのに、考えようとせんかったから。自分はダメ人間やって言ってたら楽やからな。」
カズルは依然として下を向いていた。あるいは、それ以外に何もできなかった。反論のスキがないように思えた。それからカンタロウは改めて話し始めた。
「まぁこれでカズルの事は分かったわ。友達作りに消極的な人やと、それはそれで別にいいし、性格やし。ただ、本題に戻るけど、だからと言って動画を通してうちの店の不満やらなんやらを言うのは、大目に見れる部分ではないからな。せめて、不満があったら直接言ってくれ。」
カズルは少し顔を上げて話し始めたが、目線は下を向いていた。
「僕、コミュ障なんすよ。人と話すの苦手なんすよ、そういう人だっているでしょ。」
「うん、いると思う。」
「そういう人にも、不満があったら直接言えって強要するんすか?」
「強要って、、、。」と、カンタロウは思わずふっと呆れて笑ってしまった。
「強要じゃないっすか、喋るの苦手な人に喋れって言ってるんすよ。」
「それ以外に不満を伝えたり、コミュニケーションを取る方法があるんやったら喋らんでもいいよ。」
カズルはピタッと止まった。
「いいよ少し考えて、時間はあるから。円滑にコミュニケーションを取れて、不満とかを伝えられる方法やで。ちなみにこっちは誰も手話は出来んからそれ以外でな。」
当然、カズルには何も思いつかなかった。手紙とか、ホワイトボードを使うとかは頭に浮かんだが、受け入れられない事は言われなくても分かっていた。
「これは、仕事なんやな。で、俺の職場なんやな。俺は、楽しい職場環境で、みんなストレスフリーで、ノビノビと仕事が出来る環境になったら良いなと思ってるんやな。」
カンタロウはカズルが何も答えられないことくらい予測済みだったので、少し待ってから話し始めた。
「同じ環境で1日8時間とか、それが週に何日とか、嫌でも他の従業員と一緒におらなあかんのよ。で、そうなったら、仲良く出来るに越したことはないやん。そりゃべたべたに仲良くなくても、コミュニケーションくらい取れた方がいいやん。で、そっちの方が絶対仕事の効率も上がるやん。」
カンタロウにも熱が入ってきた。
「個人単位で考えてもな、例えばカズルの中に不満が溜まったら、苦しいやん。無い方がいいやん。しかもなんか、ユウナが年下のくせにタメグチで喋ってくるとか、もうそんなん言ったらいいやん。」
そこでカズルがついに口を出して来た。
「そんなん言ったらそれこそ環境悪くなるじゃないですか。怒られるかもしれないし、嫌われるかもしれないし。」
そこまで言うとカズルの声は少しずつ震え始めた。
「じゃあ聞くけど、結局どうなったの?お前がそれを我慢しとって、ユウナは敬語になった?環境とか関係性は良くなった?」
カズルは黙っている。
「結局、最初に自分でも言ってたけどユウナも離れていったように感じとったんやろ?それも動画のネタになって嬉しかったんか知らんけど、言ってることと逆の結果になってるやん。」
カズルの目が潤み始めて来た。自分の中で、目を背けて来たあれこれが一気に波のように押し寄せてくるような感覚だった。
「お前は、自分を守ってるだけなんやって。そうやって言うと正しいように聞こえるけどな、裏を返せば“自分のことしか考えてない”んやて。自分が傷つかないってことを基準に物事考えとるんやて。だから、人に何も言えないんやて。」
「相手が触れられたくない部分に触れてしまうくらいなら、自分の中で解決してしまった方が楽だから。そうやろ?」
カズルは何も返事できなかったが、潤んだ目から涙が頬を伝うのが分かった。
「まぁ一気に色々と言ってしまって頭がパニックになってるやろうから、今日はいったんもう帰っていいぞ。でも、動画はカズルの趣味やで続けてても構わんけど、うちの店の事はもう金輪際触れるなよ。」
カンタロウはカズルの肩に手を添えながら、事務室の出口へ促した。店を出ていくカズルを、アズサとユウナは少し驚きながらもただ見送った。幸いその時、お客さんはいなかった。
*28
家に着いたカズルの頭は未だにぼーっとしていた。家までの道のりの中で電車を降りる駅も1つ間違えた。
家に着くと、床の上のゴミ袋を足で掻き分けながらベッドまで行きそのまま倒れ込んだ。動画のネタとしてはかなりの反響が期待できたが、カズルはまったくそう言う事を考えられない頭になっていた。
カンタロウも言ったように、一度に一気に色々な事を言われたカズルは、今まで味わったことのない感覚に、何処から考えればいいのかも分からなくなって、白いモヤのような物が頭の中に充満しているような感じだった。
何より大きい元凶は、動画を見られたことに他ならなかった。自分の素性を知られてしまったという絶望に似た感覚と、その中で職場の事を話していたのがバレた事。厳密に言うと“バレた”という感じではなかった。というのもカズルはそもそも隠れて不満を言ってやろうという陰口のような思惑があったわけではなく、単純に“面白い動画”という目的の為だけに無意識にやっていた。つまり、非難を受けそうな事をしているという自覚も無ければ、故意でもなかったのだ。
言うなれば、カズルの中では現実の世界と動画の世界は別物と考えていた。現実を切り取った動画の世界ではなく、あくまで動画の世界は単体で動いていた。そこが、カンタロウによって繋がってしまったのがカズルにとっては衝撃的だった。まさに“世界滅亡”のように感じられた。
さらにその素性について言及されたのも初めての事だった。あるいは、それほど他人に素性を知られたことがそもそも初めてだった。カズルが過去に目を背けて来た事を、カンタロウに次々と掘り出され、理解が追いつくわけがなかった。
カズルは考えた。何を考えているかもわからなかったが考えた。ゲームもアニメもしようという気持ちにならなかった。考えている内に眠くなった。時刻は昼の3時前。カズルは気付かないうちに眠りについた。
次の水曜日。1時になってもカズルは出勤してこなかった。ユウナは、3時に再出勤してきたカンタロウに説明したが、カンタロウはすでにそうなることは想定していたらしかった。本来、アズサとユウナで十分回せていた販売員の仕事だったため、それほどの影響はなかったがそれでもやはりユウナはあまりいい気分ではなかった。カンタロウのそれよりも、である。
カンタロウはひとまずユウナを休憩に行かせたが、それまでの間、カズルの事にそれ以上踏み込む事は無かった。
ユウナはカズルの事をやはり良くは思っていなかった。この日、無断欠勤したこともそうだがそれ以前、あるいはカズルが初出勤してきた日からすでに良い印象を抱いていなかった。それもそのはずで、ユウナとカズルは正反対のような性格をしていた。ユウナは無意識のうちにそれを感じていた。
ユウナはいわゆる“社交的”な性格をしていた。アズサもカンタロウもその部分は評価していたし、お客さん達も十分に分かっていた。その為に“看板娘”として気に入られていた。いつでも笑顔で、いつでも朗らかで、明るい女の子だった。これだけ書いてもカズルとの違いは明確だ。
休憩中、ユウナはカズルの事を考えていた。考えながら心の中に不満を溜めていた。その顔にはいつもの笑顔はなく、眉間に皺を寄せていた。
「ユウナ、ちょっといい?」
カンタロウが名前を呼びながら休憩室に来た瞬間、ユウナの表情は笑顔になり元気よく返事をし振り向いた。
*29
カンタロウの話は、カズルがいつまた来るか分からないからしばらくはユウナ1人で午後の販売を頼む、というものだった。ユウナにとってはカズルが加わる以前の状態に戻るだけだったので問題ないということをカンタロウに伝えた。その日ユウナは、カズルがいた時よりは少し遅い時間に家路についた。
ユウナは一人暮らしの部屋に帰り着くと、ベッドの上にドカッと腰掛けた。そしてそのまま後ろに倒れた。どうも、カズルが働き始めてから調子が悪かった。肉体的にと言うよりは精神的な疲労が増えていた。携帯を開くと恋人から『会える?』という連絡が入っていたが、とてもそんな気になれなかったユウナは返信すらしなかった。お腹も空いているような空いていないような具合だった。
ユウナがカズルの事をこれほど受け入れられないのには理由があった。
高校1年生の時、ユウナはクラスでいじめに遭っていた。容姿にそれほど目立った特徴も無かったユウナがターゲットになった理由は生まれ持った性格の部分だった。掻い摘んで言うと“自分の思った事を素直に言う”といういたって健全な、しかし社会的に見た時に“空気が読めない”とレッテルを貼られてしまうそれだった。
中学校まではそれでも通っていたのだが、高校生になったとたんに通用しなくなった。中学校まで仲良くしていた生徒たちも次第に離れて行ってしまった。
ユウナ自身、なかなかすぐにはその異変に気付けなかった。ユウナとしては当然、今まで通りの自分で過ごしているつもりであったし事実としてそうだった。本当に変わったのは周囲の方だった。その変化はいたって普通の事だったのかもしれない。多感な時期でもあり、また大人になっていく大事な時期でもあった。大人になるという過程の中で“空気を読む”というスキルを身に付ける事が必要になっていた。ユウナにはそれが分からなかった。
例えば授業中。ユウナは積極的に手を挙げて発言をするタイプだった。それは中学校までと変わらなかったが、周囲の生徒は自ら手を挙げる事はほとんどなくなっていた。その“やる気”は恥ずかしいものとした共通認識が生まれていた。それを感じ取れなかったユウナだけが授業中に積極的であった。ユウナは1人「みんなも分かってるんだったら言えばいいのに。」と思いながら過ごしていた。
ところがある日、“ユウナは先生に対して媚を売っている”という見方が広まった。それは生意気だとも思われ、また“自信家”とも思われた。ここで言う“自信家”とは当然決してポジティブな意味合いではなかった。それがユウナの耳に届いたのはずっと後になってからであったが、態度の変化にはユウナも気付いた。
ユウナは別に媚を売っていたわけでも自信家だったわけでもなく、ただ授業に参加していただけに過ぎなかった。授業に参加している以上は、自分が答えられる問題があれば答える。ただそれだけの事だった。“やる気を恥ずかしがる”周囲から浮いてしまうのは当然の事だった。
それから部活動でもユウナは良く思われなくなっていた。というのも、バレー部に所属していたユウナは1年生の秋からレギュラーに名を連ね始めていた。決して人数不足などでは無く、3年生、2年生でもレギュラーから漏れる生徒は沢山いた。要は、ユウナはその先輩達よりも技術が優れていると監督が判断していたのだ。それを先輩や同学年生が面白く思うはずもなく、嫌がらせを受けるようになった。ユウナは性格上、その納得できない嫌がらせに対して「なんでそんなことするんですか」と向かっていく姿勢でいたのもまた良くなかった。傍から見れば単なる“嫉妬”であり、あまりに格好の悪い先輩達の仕打ちであるが、先輩も高校生であり、なかなか高校生にそれを冷静に判断する能力は無かった。
ユウナは1度、顧問の先生に相談を持ち掛けた。
「先輩達が嫌がらせしてくるんですけど何とかしてください!」
顧問の先生は、“証拠がない”の一点張りだった。
「もしも先生がその現場を見付けた時はすぐに注意するから、とりあえず、お前はうちのチームの有望株なんだから、今は練習に頑張りなさい。そうすれば結果は必ずついて来るから。」
核心を突いていそうでいない曖昧な正しさを含んだそんな返答が常だった。ユウナはもう頼れないと思ったが、他に頼るところもなかった。しょうがなかった。
クラス内だけでなく、部活内でもいじめはエスカレートしていった。ユウナもはっきりと“いじめられている”と自覚できるところまで来ていた。そうなると、それまでの積極性や対抗心を燃やし続けるのが難しかった。
授業中では大人しくなった。そうすると、その大人しくなった変化に今度は噂が飛び交った。部活内では練習中の故意の体当たりであったり、雑用仕事の必要以上の押し付け、そういうものが露骨に行われるようになってきた。試合中にユウナがスパイクを決めても、歓声が沸き上がらないのは実に異様な光景だった。
高校生が知っている世界は狭い。それは海外旅行などという話ではなく、例えば行動範囲や人間関係などは限られたものだ。
実家と学校の往復、部活動による他校との出会い、中にはバイトをする人もいるだろうが、メインとなる場は学校という囲まれた世界である。そしてそこにも“社会”が作られ、その中での経験がほとんどである。そしてその社会からはそう簡単には逃げられないのである。
今の時代、インターネットを開けば情報は十二分に溢れ返っているので、“自分の見ている世界は広い”と考えがちになってしまうが、知識と体験ではまるで違う物であり、自分を作り上げる物には体験に基づくものが多い。そういった意味で、高校生の世界は狭いのだ。
そういった狭い世界、浅い考えで物事を判断していかなければいけないので、間違いが起こりやすいのもいたって自然である。それを各個人単位で、各自模索し確立していく事が出来るのであればいいのだ。各自の“体験”に基づき、少しずつ善悪の基準を自分なりに作っていけばいいのだが、“学校という密閉された社会”を平穏に保たざるを得ないが故に集団行動をとらなければならない。そしてそれが大正義とでもいうかのように誰も疑わないのだ。当然そこではみ出すものは悪である。
9割の生徒が真面目に積極的に授業を受けていたならユウナはいじめになど合わなかったが、9割の生徒が不真面目なそのクラスでユウナが悪になるのはいたって当然だった。そしてそのからくりをユウナ自身がその当時気付くのは至難の業である。それでも感じた僅かな違和感を先生に伝えたものの、先生は何の手も打ってはくれなかった。彼は彼で、生徒よりも守りたいものがあるからである。“先生”というのはあくまで職業上の肩書であり、そこに自然発生的な効力など何一つなかったのである。
ユウナはそれでも耐え抜き卒業を迎えた。毎日のように泣いた日もあったが、親にそれを言うことも出来なかった。
*30
そういった過去の“体験”に基づき作られたユウナの目に、カズルの行動は“甘え”に思えてしまい、“過去の自分”がカズルの行動を認められなかった。
ユウナはその嫌な過去を糧に、“他人には本当の自分を出さずに相手に気に入られるような自分で振る舞おう”と決めていた。ユウナがカンタロウやアズサ、お客さんに対していつでも明るく朗らかなのはそのためだった。
『自分が我慢して明るく振る舞えば嫌われることはない』
そういう意識の毎日だった。ユウナはそれで十分だった。高校を卒業してから働いているベッカライ・オノマトペで出会ったアズサやカンタロウにも嫌われないように振る舞って来た。すなわち、その2人に対して“本当の自分を見せている”という感覚も意識的に無かった。そこに後ろめたさというものも一切感じていなかった。
しかし、我慢をしている部分というのはたとえ僅かであっても時折ユウナを責める時があった。アズサやカンタロウの態度に対して、お店のやり方に対して、100%自分の意見と同じということが無いのは知っているのでそこでの誤差は生じるが、それは決して不満というものではない、と、ユウナは自分に言い聞かせていた。あるいは、無理に明るく振る舞っているような日は自分にも嫌気がさし、また酷く疲れた。
高校卒業とほぼ同時に出来た彼氏がユウナにはいた。ヒトムという男だ。ヒトムはその後進学し、大学に通っている。それほど遠い距離に住んでいるわけではないので、ユウナは彼と週に2,3日は会っている。彼がいるので、ユウナは仕事で無理をして溜まっているストレスを彼のもとで発散しているのかと思えばそうではなかった。ユウナは、彼に対しても本当の自分を出せずにいた。
ユウナは横になっているうちに眠ってしまっていたらしく、目を覚ました時にはすでに夜中の11時だった。変な時間に眠ってしまった事を後悔しながら携帯を開くと、そのヒトムからの連絡が来ている事を思い出した。気持ちも幾分か落ち着いていたユウナは返信をし、週末に会う約束をした。
土曜日の夕方、ユウナはヒトムの家に行った。その週、結局カズルは一度も職場に姿を現す事が無く、ユウナはやはりまた心のどこかでモヤモヤとしていたが、ヒトムが玄関を開ける時には上手に笑顔を作っていた。
「お邪魔します!」と、元気よく挨拶をするとヒトムに思い切り抱き付いた。ヒトムは少し後ろに倒れそうになりながらもユウナを受け止めると、部屋の中に入っていった。
「学校はどう?」
ユウナが嬉々として聞いたのに対してヒトムは「普通。」と素っ気なく返した。それでもユウナは続けて色々と質問した。
「なんか楽しいことあった?」
「授業はどう?」
「ちゃんとご飯食べてる?」
そのどれにもヒトムはユウナよりもずっと低い調子で返事をした。別に面倒臭いとか、ユウナの事が鬱陶しいとかそういうことではなく、ヒトムは大学の文化祭で自分のサークルで行う催し物の案を練る係になっていたので頭がそれでいっぱいなだけであった。
しかし理由はどうであれ、ユウナにとってそれは面白くなかった。それに、その素っ気なさに、あろうことかカズルの事を思い出して少し嫌な気持ちになった。
そんな事を考えたついでに、カズルの事を話してみようと思った。本来、カズルの話などプライベートでしたくなかったが、それよりもヒトムの興味を自分に向けたかった。その為なら話題は何でもよかった。
「そう言えば、この間、新しい人が職場に入ってきたって話したじゃん?」
「あー、してた。」
ユウナはカズルが入って来た時に一度、その話をしていた。
「その人がね、変な人で、なんかユーチューバーみたいなことしてるらしいんだけど、」
「うん。」
「その動画の中で自分のこと“ぼっち”って言ってるような人なんだけど、うちの店とか私の事まで動画の中で喋ってたの、ひどいよね!」
「そうだねー。」
ユウナはそこまで説明してから、携帯を取り出してその動画をヒトムに見せた。
「見てこれ、『クズぼっち大学生の1日に密着』だって。変だよね。」
オープニングの挨拶が終わったくらいにようやくヒトムはその視線を手元のノートからユウナの携帯の画面に向けた。
「あれ、これ俺の大学だ。」
ユウナは驚いて、声をなくしたままヒトムの横顔を見た。ヒトムはじっと動画を見ながら、確認をするように「やっぱり」「やっぱり」と繰り返した。
「本当に?」ユウナが聞く。
「うん、この教室もそうだし、あ、ほら、この学食は間違いなくうちだ。」
ユウナは何となく楽しくなってきた。ヒトムが自分の提供した話題に食い付いて来たからだった。嬉しくなって「この人、学校で見たことある?」と聞いた。
「あ、そういえば1回学食で1人で喋りながらご飯食べてる人いた。俺が入ったばっかりの頃で学食にみんなで行ったら、あーいたいた、この人か。」
ヒトムが思い出したその日は、カズルが学食から生配信をしたその日だった。
「へー視聴回数すごいな。」と、ヒトムは少し笑ってからまたノートに向かい始めた。
*31
ユウナとしては、ヒトムのその反応が物足りなかった。もっと食い付き、もっと興味を持ち、ひいては職場でどうだとか、悪口を言ってた事についても言及してくるものだと思っていた。
『それだけ?』と、心で考えたが、自分から話を続ける事にした。
「学校ではどうなのこの人?」
「どうって別に、その人俺より上の学年だし、学食で1回見たくらいで全然知らないよ。」
「職場ではね、すっごい静かで、動画を見て知ったんだけど腹黒くて裏で何言ってるかわからないんだよ!思ってることあったら言えばいいのにって思う!」
「ふーん、まぁ色んな人がいるからね。」
ヒトムのその素っ気なさに、ユウナは自分の中で何か線が切れたような感覚があった後に声を荒げた。
「ねぇなんなのその態度!私、ウザい?帰ってほしいなら言えば?」
ユウナは携帯を伏せヒトムが広げたノートの脇にバンと手を置いた。
「どうした、急に。」
「急にじゃないでしょ!そっちのせいでしょ!私が頑張って話してるのに素っ気ない反応ばっかりでどういうつもりなの?」
「別に話は聞いてたじゃん。どうすればいいんだよ。」
「それくらい自分で考えてよ!私、仕事場の対人関係のストレスとかいっぱい抱えながらそれでもヒトムの前では笑顔でいようって決めて、頑張ってるのにさぁ、なんでそんな冷たい態度なの?」
ユウナはついに泣き出してしまった。
「そんなこと言われても、分かるわけないだろ。俺だって今文化祭の案練るので頭いっぱいなんだよ。」
ヒトムのその声はユウナの耳には届かなかった。
「ユウナ、こっちの都合も考えてくれよ。」
「なんなの、じゃあ私が自分のことしか考えてないって言いたいの?」
ヒトムはそれを否定しながら、今日はもう帰るように促した。ユウナは勿論抵抗したが、長いやりとりの末、ユウナは帰って行った。
ヒトムはこれまで見たことのないユウナの姿に戸惑いを隠せなかった。ひとまず、ユウナの携帯に謝罪のメッセージを送り、机の前に座り作業を続けようとした。ところがユウナの態度や言葉が頭に引っかかってどうにも集中できなかった。
ユウナが「自分のことしか考えてない」と言うのは正直ヒトムも思うところだった。職場でストレスを抱えている事や我慢して明るく振る舞っている事など、ヒトムを含め誰も気付けるはずがなかった。それはユウナの中だけの話であるから。
ユウナは、『自分が我慢して明るく振る舞えば嫌われることはない』ということを強く意識している分、他人にもそれを分かってもらえるものだと心のどこかで思っていた。文字にするとあまりに理不尽で不可解で、どうしてその思考になるのかと思えてしまうが、当の本人に気付けるものではなく、ユウナのみならず誰にも起こりうることである。
ユウナは結局、その“自分を守るためにしている我慢”を、“他人を傷つける武器”へと変換してしまったのだ。まるで、いざ自分が不利な立場になった時のために力を溜めているようであった。
*32
家に帰り少し冷静になったユウナだったが、考えの自分勝手さには気付けていなかった。あくまでも悪いのはヒトムであり、自分は被害者だった。何となく、誰も自分のことなど分かってくれないという気持ちになった。
冷蔵庫からビールを出してポテトチップスの袋を開けた。近くのスーパーは年齢確認が甘く、未成年のユウナもそこでビールを買えた。頻繁に飲むわけではないが、これも1つのストレス発散法だった。
何となく開いた携帯にヒトムからの謝罪のメッセージを見付け、開封もせずに携帯を閉じた。
ユウナはテレビを持っているがあまり見なかった。その代わりにインターネットで動画を見たりすることが多かった。流行りのユーチューバーがその日に上げた動画を毎日チャックしていた。
ユウナは高校卒業後から“前向きに生きよう”と心掛けていた。自分の辛い過去の経験を振り払うかのように、またもう2度と同じ様な目に合わないように自分の中の負の感情を極力捨てるように努めた。それは、他人に対して明るく振る舞うのとも同じことであり、つまりは時々ストレスとなってユウナ自身を襲っていた。
そういう時にお酒を飲む癖がついていた。お酒を飲み、フワフワとした気持ちになると忘れられるような気がしていた。無論、ヒトムと盃を交わした事など無く、あくまで自分1人の時間だった。見せられない部分だという自覚があったからだ。
またお酒を飲むと気が大きくなるのも事実で、胸の内に溜まった不満等を1人の部屋でまるで誰かに話すかのように喋ったりもしていた。そうすると幾らか気が紛れた。それもまた、聞かれてはいけない部分だと自覚があった。
他人に嫌われないように愛想よく振る舞い溜まるストレス。ユウナが抱えるそのストレスは、カズルやヒトムだけでなくアズサやカンタロウにまで感じていた。
普段仕事をするうえでは何の支障もないのだが、ユウナはそもそもその2人とは性格が合わないなと感じていた。
というのも、ユウナは見ての通り自分に負担をかけてまで気を遣い無理して愛想よく振る舞い場を穏やかに保とうと努めるのに対し、ヤナド夫妻は割と思った事を躊躇なく意見し、時には場を凍らせたり口喧嘩をしたりする性分で、ユウナにはそれが大人げない子供じみたワガママさに感じられていた。それはまさにユウナが高校時代に周囲の生徒から思われていたそれと同じだった。
カンタロウとアズサが、仕事の事で意見をぶつけ合っているのをユウナは見ていられなかった。単なる夫婦喧嘩にしか思えず、居た堪れなくなっていつも割って入るのだ。それも、両者を傷つけてしまわないように極めて慎重に言葉と態度を選びながら。当の夫婦間には決して夫婦喧嘩の自覚は無く、ただの話し合いに過ぎないのだが、主張が強い分、傍から見るとそう見えるのだ。
またある時は、ユウナにもその感じで接してくる時がある。ユウナが何気なく提供した話題で、深くつっこまれたり意見を求められたり。そして大体の場合、ユウナはこれと言った意見も持ちあわせておらず。あえなく愛想笑いでその場を凌ぐしかなかった。
ユウナはいつでも人の顔色を伺いながら生きていた。そうでないと孤立し責められることを高校時代に学んだからだ。それなのに、こうして出会った大人がまるで子供のように自己を主張しているのがどうにも受け入れられなかった。それならなぜ、自分が高校時代にいじめにあったのか、その辻褄が合わずにいた。
もちろんユウナはそれを2人に告げる事は無かったが、それで溜まるストレスもあったので家で発散する必要があった。ユウナはそれが“大人”であると信じていた。
月曜日になり、ユウナはいつも通りの屈託のない笑顔で出勤した。
*33
カズルはカンタロウに言われたことを受け1、2日は悩んでいたが、すでにそこから一歩踏み出していた。自分自身を全否定されたように感じ、それをすべて受け入れる事にしていた。その方が“地獄のクズぼっち”にとって居心地が良かった。『何をやっても上手くいかないダメ人間』だと自ら貼ったレッテルがいよいよ現実の物になり寧ろ満足していた。
そう、カズルはカンタロウの思惑とは真逆の方向に進んでいた。
自分自身をダメだと決めつける事で活動範囲、生息地帯をぎゅっと狭めてしまっていた。それ自体、昔と変わらないがさらに拍車がかかっていた。
仕事に行かなくなった最初の水曜日、カズルは自らの動画投稿チャンネルでライブ配信を行った。カンタロウ達が見ているかもしれない、という不安はその時にはまるでなかった。その日のテーマは当然、カンタロウと話をした件とそれにまつわるエトセトラだった。
「どーも、地獄のクズぼっちです。いやー、バイトシリーズ、あったじゃないですか、ねぇ。その企画なんですけど、緊急中止になりました、はは。」
「実は、一昨日ですね、働いてたパン屋の店長に呼ばれてですねぇ、色々と言われたんですけど、まず、何ってねぇ、このチャンネルバレてたんすよね、はは、観てますかー店長ー。」
「顔はずっと見せずに動画撮ってきたんすけど、声とか、内容とか、あと、店の外観みたいなの載せたじゃないっすか、あれでバレたらしいんすよね、まぁどうやってこの動画見つけ出したか知りませんけど。」
「で、口論になってですね、まぁ、色々と言われたんすよ、注意をね、受けたんですよ。まぁ、うるせぇと思いながら聞いてて、今日は帰れって言われたんでね、その日は帰って、で、今日出勤日だったんですけどね、無断欠勤しました!いぇい!」
誰もいない部屋の中にカズルの乾いた拍手が響く。
「いや、もう、本当にね、最後までクソな職場でしたよ、はは。ただでさえね、人間と関われないような僕みたいなダメ人間がね、あんなクソみたいな職場に入った時点で間違いだったんすよ。なんか、メンバーも変な人ばっかりだったしね。」
「まず店長がね、とにかく変な人で、面接の時から敬語使わないし、こっちは働いてやるよって面接に来てるのにね、敬語も使わないし、あと最後もそうだったんですけど、めっちゃヅケヅケと個人に干渉してくるんすよ、めっちゃ鬱陶しかったっすからね。」
「あと、その奥さんがね、まぁババアですよ、そのババアも同じくらい踏み込んでくるし、っていうかその夫婦がめっちゃ子供なんすよ、本当に。出会っていきなり呼び捨てだったしね、こっちはお前の子供じゃねぇんだっつーのって感じですよ。」
「で、あと生意気ブス女っすね。うわ、この動画見られたら俺人生終わりだな、はは。そのブス女は本当にひどくて年下のクセにタメグチだしね、偉そうにしてるし、もうあんな奴に彼氏とかいたらたぶんバカですよそいつ。」
カズルはビールを片手に不満を並べた。確実に冷静ではなかった。インターネットに上がるということは、世界各国の人が見る可能性があるという危険をすでに無視していた。さらに言えばお店の従業員やお客さんの目につく事ももうどうでもよかった。
「いやーもう、本当に辞めてよかったと思います、辞めたって言うか無断っすけどね、はは。やっぱ僕にはね、1人でいるのが似合ってるんすよ。部屋に引きこもってゲームして、動画撮って、単位取れるだけ授業行って、誰とも喋らずにそれでいいんすよ。人間ね、色んな人がいるから、やっぱね、好きなことして生きていくのが一番なんすよ。っていうか本来そうあるべきなんすよ。」
そう持論を述べてる間、カズルは酔いが回ったのか色々な事を思い出した。
大学入学に心を躍らせていた事。
新居に入って新生活にワクワクしていた事。
友達が欲しくてきっかけ作りに迷走した事。
幼少期から大学まで世話してくれた両親の事。
そしてそんな親からの電話を切ってしまった日の事。それ以来連絡も取っていない事。
カズルの目は涙で滲み始めた。思い出すほどに今の自分が情けなくてしょうがなかった。あの日のワクワクしていた気持ちや両親への感謝の気持ちはもうどこかに忘れて来たと思っていた。でもまだ心の片隅に残っていた。奥にしまい過ぎて忘れてしまっていただけだった。
カズルは声を詰まらせながら、無理やりに最後の挨拶をし動画配信を終わりにした。カメラが止まると一気に涙があふれだして来た。
店長が言った事は何一つ間違っていなかった。
そして自分のしてきた事の一切が間違っていた。
しかし後悔した時にはもう遅かった。カズルが上げてきた動画の人気もいまだに衰えていなかった。顔は出していなかったのに、カンタロウ達にはバレてしまっている。戻れる場所がない。
カズルは自分が“地獄のクズぼっち”ではなく“カンヌキカズル”であるということを急激に痛烈に感じた。そう思うのとほぼ同時に、引き戻せないことを悟った。しかしこのまま“地獄のクズぼっち”として進む覚悟も勇気もなかった。
さっき撮った動画ではお店の悪口も言った。膿を出し切った。そのおかげでお店にももう2度と戻れないような気もしていた。
母親の電話を唐突に切った。それ以来連絡を取れないあの感覚と一緒だった。
すべての取り返しがつかないような気がして、いよいよ行き止まりに辿り着いたような気がした。
「もうだめだ。」
カズルは震えた声で呟いた。それは“カンヌキカズル”の声だった。どうすることも出来ずに、インターネット上の“仲間”の中に飛び込もうと動画サイトを開いた。そこにさえ、居心地の悪さを感じ始めていた。
*34
カズルはほぼ無心でインターネット上を飛び回った。目的も宛も何も無く、ただただ時間を過ごした。いまだに潤んだままの目では画面も見ずらかった。
ゲーム実況、ぼっち投稿、有名ユーチューバー、その他沢山の動画をひたすらスクロールしていたが何も目に留まらなかった。ツイッターでもそうだった。何を読む気にもならなかった。
唯一目に留まったのは、ツイッターで自分に届いていた1件のダイレクトメッセージだった。見てみると、「美人女性配信者」がいるから見てみてほしい!もし気に入ったらコラボとか見てみたい!というファンからのメッセージと、おそらくその“美人配信者”の動画と思われるURLだった。カズルは言われるがままにリンクに飛んだ。
『HINO-YOU』という名前で活動している人だった。大きいマスクをしていて顔がよく分からないが確かに綺麗そうだとカズルは思った。どうやら不定期に雑談ライブをしているらしく、ダイレクトメッセージで教えられるだけあって今人気沸騰中らしかった。カズルは再生ボタンをクリックした。
「こんばんわーHINO-YOUだよー、みんな元気―??」
この手の若い女は言葉のわりにテンションが低く目も笑っていない、とカズルは自分なりの寸評をしながらぼーっと見ていた。
「最近なんかー、職場になんかウザいやつが来てー、バイトでね。そいつがもうめっちゃ暗いの!もうねー見てるだけでこっちもテンション下がるんだけどさー。」
カズルは何となく仲間を見付けた気になった。もちろん、このHINO-YOUとかいう女に非難されているバイトの方にだ。
「話しかけても反応薄いし、たぶんひきこもりとかなんじゃないのって感じ。別に無理して出てこなくていいっつーのって思った、はは。」
女はそこまで自分のことを話した後、書き込まれたコメントを見ながらそれに対応し始めた。何となく耳につく声だなとカズルは少しその女の声を耳障りに感じていた。
コメントで質問されてる内容は「胸何カップ?」「彼氏いる?」「何歳?」というような内容で、インターネット上でよく見る下品な輩の仕業だと、カズルは軽蔑した。その女は適当にはぐらかしながら質問を選んで答えていた。カズルは唯一、彼女が18歳だという事を知った。
「今働いてるとこ?うん、給料安いよ。まぁ個人経営のお店だしね。でもその人数が少ないからよそよりは働きやすいかなーって思ってる。人間関係のイザコザとか面倒臭いし。まぁあるっちゃあるけどね。」
喋り方というよりも声がカズルには耳障りだと気付いた。
「あ、でも逆に人数少ないからいつも同じ人とだし、それはちょっと飽きる!話題とかもそうだし、で、なんかたぶんその他の従業員、まぁ店長とその奥さんなんだけど、」
「ん?」カズルは不思議に思った。このHINO-YOUとかいう女の話は、自分が働いてたベッカライ・オノマトペの環境に物凄く似ている。
「その2人とたぶん元の性格から合わないんだと思う。いっつもニコニコして愛想振り撒いてるから気に入ってもらえてるっぽいけど、めっちゃストレス(笑)」
彼女は18歳だし、この声も。
「なんか意見言い合って夫婦喧嘩みたいになるのは100歩譲っていいとして、同じテンションで私のとこに来るときあるから本当面倒くさーってなる(笑)熱すぎてウザいからね。」
それによく見るとこの目元も髪型も。
「しかもそこにこれから暗いオタクみたいな奴も加わるからね、マジしんどそーって思ってる。」
ヒノジリユウナだ。
カズルはあまりの衝撃にさっきまでの涙も全て一気に乾いたようだった。
*35
「おはよう、シヤさん!いい天気ですね!」
「おはよう、ユウナちゃん。本当にね。今日は孫が家に来るから、この甘いケーキを半分包んでくださる?」
「クグロフですね、喜んで!」
ユウナは屈託のない笑顔で常連のシヤに応対した。シヤが続けて孫について思わずあれこれと喋ってしまうのもユウナが聞き上手である証拠だ。
「楽しんでくださいね!」
ユウナがそう言って笑顔で見送るとシヤも上品な笑顔で振り向いて帰って行った。
今日は土曜日で、ユウナはアズサと隔週で入っている。今日はユウナの番だった。土曜日の仕事は、閉店時間が早い分いつもより短いのでユウナは割と好きだった。工房にはカンタロウが働いているが、作業自体はもう終盤だ。
カンタロウが店頭の方に出てくると、おもむろにユウナに向かって「しんどくない?」と聞いた。カズルが来なくなってアズサと2人で毎日働いているユウナを気遣ったものだった。
「大丈夫ですよ!私、この仕事大好きですから!」
「そうか、なら良かったけど、無理が祟るようなら早めに言ってね。」
カンタロウはそう言い残しまた工房の方に向かって行った。それを見送った後もユウナは笑顔を絶やさなかった。それが彼女のチャームポイントであったわけだけども。
しばらくして店頭にマスクをした若い男の姿を見付けた。男は恐る恐る店内に入ってきた。
「、、、カズル、、、くん?」
「はい。」
その男はカズルだった。初めて無断欠勤した日から約2週間が経っていた。ユウナは驚いて、急いで工房のカンタロウのもとに走っていった。
「カンタロウさん!カズル君!カズル君が来ました!」
カンタロウは片付けをしている手を止め、ユウナに連れられるようにして店頭の方に出て行った。
「おー少年!元気だったか?」
カンタロウの調子は以前と変わらなかった。カズルの雰囲気も以前とさほど変わらなかったが突然カズルからカンタロウに向けて「話があるんですけど。」と切り出した。そして2人は2階の事務所に上がっていった。
それを見送ったユウナは、辞表の提出だろうと思っていた。が、実際はそうではなかった。
「この間は、すいませんでした。」
ユウナの憶測とは裏腹に、カズルの第一声はカンタロウへの謝罪だった。もちろん、動画にまつわる事と無断欠勤の件だ。カンタロウも驚いた表情を浮かべたが、ひとまずカズルの肩を軽くたたき顔を上げるように促した。
「いや、まさかこうして謝りに戻ってきてくれるとは思わんかったなー。いや、嬉しい、嬉しい。」
カンタロウのその発言に、カズルもどんな顔をしていいのか分からなかった。
「それと、出来るならでいいんですけど、もう1回、ここで働かせてもらえませんか?」
カンタロウも予想だにしないその発言に笑顔になった。
「もちろん!いや助かるよ、アズサもユウナも。」
カンタロウは満足そうにもう一度カズルの肩を叩いた。
カズルは、最後にライブ配信をしたあの日に、自分自身変わる事を決心していた。それまで目を背けてきた自分の弱い部分をカンタロウに刺激された影響が大きかった。
自分でも薄々勘付いていた所を突かれたので、まさに目が覚めたような感覚だった。ところが動き方が分からなかったカズルは、もう一度ベッカライ・オノマトペに来たのであった。
カンタロウは、ユウナとアズサにそれぞれ伝えた。2人とも喜んだ。“人が生まれ変わる瞬間”を見れたような気分だった。
その日、カズルはそれで家に帰り、深く深呼吸をすると母親の電話番号にダイヤルした。
呼び出し音が鳴る。1回、2回、、。カズルは自分の心臓がバクバクと鳴っているのが手に取るように分かった。
4回目で呼び出し音は途絶え、懐かしい声がした。
「カズル?もしもし、どうしたの?」
カズルは声に詰まってしまった。それから何を話せばいいのかもわからず、母親が質問をしてきてくれることを願った。
「全然喋らないじゃないの、元気にしてる?」
カズルは2回頷いた後、細い声で「うん。」と答えた。
「大学の勉強はどう?」
「もうウチを出てから2年以上経つわね。あっという間ね。」
「彼女とか、いるんじゃないの?」
電話を無理やり切ったあの日と同じ質問がこの日は嬉しかった。カズルは全ての質問に、“うん”と“ううん”の簡単な返事ではあったが丁寧に答えた。それからバイトをしている事も伝えた。母親の安心したような声を聞き電話を切った後、カズルは今度は思いっきり泣いた。
*36
とりあえずは以前と同じシフトで働くことになったカズルは、週明けの月曜日に出勤してきた。心なしか以前よりも元気よく見えるカズルは「おつかれさまです。」と小さい声ながら会釈だけでなく挨拶をした。ユウナもアズサも挨拶を返した。その2人が笑顔になっているのは見なくても分かったカズルは恥ずかしくなり、顔も見ずに2階へ上がっていった。アズサとユウナは顔を見合わせてもう一度にこっと笑った。
着替えを終えて降りて来たカズルを今度はカンタロウが迎えた。
「おつかれさまです。」
今度も先に挨拶をしたのはカズルだった。カンタロウはなるべく自然に振る舞いたくて以前同様に「おつかれちゃん、少年!」と返したが、その表情はやはりどこか嬉しそうだった。
「カズルが戻ってきてくれたから助かるわ。」
アズサが言う。カズルは頭を下げた。以前のカズルなら“また呼び捨てかよ”と思ってしまいそうなところであったが、カズルはとてもそんな事を思えなかった。腰が低くなったとか、王様気分じゃなくなったとかというよりも、罪の意識がそうさせていた。
いくつも繰り返した“取り返しのつかない事”はカズルの中で“罪”として残っているために、とても他人の上に偉そうな態度はとれないという考えに変わっていた。
それからすぐにアズサは職場を後にした。去り際に今度はユウナが「午後は任せてください!」とアズサに言ったが、これはカズルを頼りにしているという意味も込めたものだった。それを聞いたアズサもまた嬉しそうな顔だった。
ベッカライ・オノマトペにユウナとカズルだけになった。ユウナ自身、カズルの動画内で自分のことを言われていた経験を忘れる事はとても出来なかったが、カンタロウもアズサも快く迎え入れたカズルを1人だけ拒否することも出来なかった。頭の中で気持ちを整理するには静寂が必要だったので、2人の間にはしばらく沈黙が続いた。
そこにお客さんが来たので、ユウナはカズルに応対するよう頼んだ。カズルは「はい。」と返事をして接客に回った。その姿に以前からの変化を見つけ出すには難しくなかった。声の大きさや表情など、気になる不足点を挙げればまだまだあるが、俯く事無くちゃんとお客さんの目を見ている姿勢にユウナは大袈裟かもしれないが感動を覚えた。
お客さんがさらに増えたので、2人で応対している時も、ユウナはそのカズルの“機能性”を痛感し喜んだ。確実に以前のカズルとは違うと感じたユウナは、仕事中は自分の気持ちを切り替えて新しい目でカズルを見ようと思った。
カンタロウが出勤してきて、2人は休憩に入った。初めてカズルが出勤してきたあの日を彷彿とさせた。カズルは依然としてフルヒトタッシェを選び休憩室の椅子に腰掛けた。せっかくの機会にちゃんと話してみようと決心したユウナはこの日もまた「コーヒーいる?」と聞いてみた。カズルは今度は「はい。」と答えた。ユウナはコーヒーを淹れてカズルの前に笑顔で差し出した。
この時、カズルの頭の中では先日見た配信者HINO-YOUが浮かんでいた。そしてユウナを目で追いながら“その2人”を重ねて照らし合わせていた。
「カズル君が戻ってきてくれて助かる!」
ユウナもアズサが言った事と同じような事を言った。カズルは「ありがとうございます。」と返した。その返事も以前では考えられなかった事だ、とユウナは思っていた。
カズルには、ユウナが腹の底で何を考えているのかが読み取れなかった。今こうして笑顔で自分に接してくれているのも、“偽りの姿”であるとしか考えられなかった。思い切って配信者としての活動を尋ねてみようかとも過ったが、まずは、HINO-YOUの次の配信を待とうと思った。その為に、“HINO-YOUが動画内で話題に出来そうな事”を何か提供できないかと考え始めた。
*37
「趣味とかありますか?」
沈黙を破ってそう聞いたのはカズルだった。ユウナはマグカップの上から唯一見えてる両目を丸くしながら、口の中のコーヒーを喉に押しやってから笑顔になった。
「趣味かー、なんだろうなー。」
嬉しそうに見える表情で斜めを上を向きながら考えているユウナをカズルは冷静な目で見ていた。きっとユウナの頭の中にはHINO-YOUとしての動画配信が浮かんでいるだろう、とカズルが考えていると予想に反して「お菓子作りとか好きだなー。」と答え、即座にカズルにも聞き返して来た。カズルは答えにくかったが、自己変革の風に押されて「アニメ見たり、ゲームしたり、ですかね。」と答え、引き攣った笑いで空になったお皿に視線を落とした。
「アニメってどんなのが好きなの?私はほとんど知らないから、ついて行けないかもしれないけど。」
ユウナがさらに追及してきてカズルは驚いた。驚いたが、自分の好きなモノの話に無意識のうちに前傾姿勢になっていた。頭の中に好きなアニメのキャラクターやシーンが浮かぶと次から次へと言葉になった。インターネット上以外で人に面と向かってこれだけ話す自分にも驚いたがそれがちょうどいい興奮にもなってカズルは夢中になって話していた。ユウナは笑顔でその様子を見ながら聞いていたが、カズルの目にはもはやユウナの姿さえ見えていなかった。
少ししてカズルは自らハッと我に返って急に恥ずかしくなった。「すいません、」と最後に呟くとユウナは気にしないでと言うように笑顔で手を振った。
「すごい好きなんだね。いいなーそれだけ熱く語れるものって私にはないかも。」
ユウナは羨ましがるように答えた。カズルはそれも恥ずかしかった。が、嬉しくもあった。
他人に自分の話をする、ということにカズルはあまり良い印象を持っていなかった。特にカズルの趣味や性格は一般的に否定される事の多いものばかりで、そんな話をすれば自分も否定されるのではないかという思いがいつでもあった。それでも吐き出したい喜びなどの感情はカズルにもあるわけで、そんな時に役に立っていたのがインターネットなどの匿名制度だった。“匿名”という仮の姿さえあれば、仮に非難を浴びても受けるのはその仮の姿なので、好きな事を発言できると思っていた。そのカズルにとって都合のいいシステムを多用するうちに、気付けばそのシステムに飲み込まれてしまっており、“匿名じゃなければ発言できない”という結果をもたらされてしまっていた。なおさら傷付きやすい体になってしまっていた。
ところがこの日、ユウナの反応はそれまでに予想していた“対話”のそれとは真逆だった。匿名ではなく生身の人間として喋っていた分、ユウナのリアクションにもどこか温かみを感じた。カズルはまた1つ、自分に足りなかったものを見付けた気がした。
それもあってか、休憩後の仕事は“楽しかった”。カズルが仕事に対して“楽しい”と感じるなどとは本人さえも思ってもみなかった。心なしか周囲もよく見えるようになった。これはつまり俯いていた顔が上に上がっている証拠だと気付いた。改めて色んなパンがある事や色んなお客さんが来ている事に気付いた。あまりに新しい感覚だった。
仕事中、ユウナとそれから沢山話をした。沢山と言っても、以前のカズルと比較しての話であってたかが知れているが、それはユウナも感じる所だった。
「大学に好きな子とかいないの?」
「いや、別に。」
文字にすると何も変わって居なく思えるが、ユウナがそんな事を聞ける事自体も変化であるし、またカズルの表情も違っていた。
「、、、いるんですか?彼氏。」
カズルも恐る恐る聞いてみた。最初に比べてそれほど慎重ではなかったが、やはりプライベートな質問は苦手だった。カズル自身、干渉される事を恐れていたからだ。
前記したようにカズルは自分の趣味や性格に“社会的後ろめたさ”を感じていたために、知られてしまったら非難されるのではないかという不安があった。それが故に、干渉される事も嫌っていたのだ。そうすると他人にも干渉せずに“いてあげよう”と思った。あるいは干渉したら干渉されるというやりとりを避ける為だったかもしれない。つまりは自己防衛である。傷付く事を極端に恐れたカズルは他人に干渉する事を避け、干渉される事も嫌い、安全な場所を探して辿り着いたインターネットの世界の中で、さらに匿名の鎧で自分の身を頑丈に守っていたのだ。そして守り過ぎた故に、他人と関わる事を諦めたのだ。
ユウナと話しながら、カズルはその鎧を少しずつ脱ぎ始めていた。
「んー今はいないかなー。」
ユウナはそう答えると、ちょうど入ってきたお客さんに元気よく挨拶をしその話はそこで途絶えた。それでもそのやりとりはカズルにとっては大きな第一歩だった。
仕事を終え、家に着いたカズルはどこか浮足立っている様子だった。なんとなく今日の事を誰かに伝えたくなった。そうした時に、伝えられる人が誰もいないという事に改めて気付いた。考えを改めたからと言ってすぐに状況が変わるわけはなく、ただカズルはそれをもう寂しがることも無かった。
インターネット上とは言え、匿名とは言え、今の段階で自分がこの気持ちを吐露できる場所はゼロではなかった。ただ、動画にしようと言う考えにはもうならなかった。
とりあえず“仲間”の待つツイッターにでも呟こうと、パソコンの電源を入れると画面にはHINO-YOUの配信動画が一時停止の状態でカズルを待ち受けた。急に背筋に汗を感じた。心臓もバクバクと働き始めた。
カズルは一旦、そのページを消しツイッターを開いた。“地獄のクズぼっち”というアカウント名はもう変えようと思った。
*38
動画のページを消したものの、しばらくしてまた頭の中に過ってしまったのは夜の9時過ぎだった。
この日の帰宅後にパソコンの画面に映ったHINO-YOUを見て、カズルはこの間見た彼女の配信の内容を一遍に思い出してしまっていた。そしてその内容はあまりに今日話していたユウナからは想像のつかないものだった。事実としてまだはっきりとHINO-YOUとユウナが同一人物だと決定したわけではない、とカズルは自分に言い聞かせるが気になる物は気になった。
しばらく考えた後、思い切って彼女のチャンネルを開く事を決心した。どうしても嫌な想像がめぐってしまうのは、この日の仕事中、カズルがユウナに心を開きかけていたからに過ぎなかった。
ちょうど趣味の話をする前までは、カズルもユウナの事を疑ってかかるつもりでいたがいつの間にかそんな事も忘れ、会話をする喜びを覚え始めていたからだ。
「HINO-YOU」と四角い枠に書き込み検索ボタンをクリックした。心臓はドキドキしていた。出てきたページでは現在進行形の“ライブ配信”があった。カズルは躊躇ったがここまできて引き返せなかった。その配信をクリックした。
彼女はやはりマスク姿で話をしていた。見ると10分前くらいから配信が始まったらしくまだ序盤で、好きな食べ物の話や初見さんへの挨拶等でにぎわっている程度だった。カズルも全身に変な寒気のような物をまといながら、また怖いもの見たさで戻る事は出来なかった。
性的なイジリに笑いながら答えているHINO-YOUも、そもそも言葉遣いに見る違和感もカズルは鳩尾に紫色の空気を抱えながら見ていた。今まで味わったことのない気持ち悪さだった。
視聴者のうちの1人が「上司のセクハラ」という言葉を使って質問をしてから、仕事の話の方へ進んでいった。カズルは耳をそばだてて食い入るように見直した。鳩尾の気持ち悪さは喉元まで押し上がってきていた。
「セクハラ?そういうのは無いよ、あ、でも聞いて!前に言ったっけな、暗いオタクみたいな奴が前にバイトでいて、なんか動画の中で、店の文句とか言って、店長に怒られて、怒られたって言うか注意しただけらしいんだけど、それから無断でずっと来なかった奴がさー、また働き始めてさー」
カズルの中の曖昧だった不安が疑いのない事実として画面を通して心臓に突き付けられた。内容があまりに自分の身の回りの環境と一致しているし、彼女は僕の事を言っている。
「やっぱり無理ーって思った!(笑)なんかさー、店長たちも大歓迎ムードなの!それも理解できないんだけど、そしたらこっちだって合わせなきゃダメじゃん?で、午後になって2人での仕事だからさー、めっちゃ気遣ったもん、話すのに。」
カズルは何か口から吐き出しそうな気がして口を押えたが、腹の底からいくつもいくつも押し上がってくるようだった。鳥肌を立てながら震えているのに、額からは汗が流れていた。
「話してたらやっぱりオタクだったし、超ウケる!しかも自分の趣味について話し始めてからもう前のめりになっててさー、目もガーって開きだして、声も大きくなって、めっちゃ早口で喋んの!気持ち悪ーと思って!(笑)」
カズルは鼻息も荒くなった所で口に手を当てて呼吸の邪魔をしている事を思い出し手を離した。その手で動画を消そうかとも思ったが手は動かなかった。
「普段もそれくらい元気よく喋れよって思ったし!お客さん相手にも。前のそいつを知ってるから、アタシがね?前のそいつを知ってる分、なんか表情を明るくしようと頑張ってんのか知らないけど、すっごい引き攣った笑顔で接客してて、むしろ逃げちゃうよって思いながら見てた、超ウケたからね(笑)」
カズルは目の前の現実を受け入れられなかった。彼女が何か喋る度に、その話の主人公が自分である事を明確にされていく感覚だった。怖かった。カズルは怖かったが逃げることも出来なかった。あるいは見ておかなければいけないと心のどこかで無意識に思っていたのかもしれない。
「まぁまたなんかあったら話のネタになるからいいけど、本当に職場の人には恵まれないなーって思う(笑)彼氏いるの?って聞かれたから『いない』って答えといたし、いるけど(笑)なんか落とすの簡単そうだと思って!(笑)まぁいるって言ってもこの間ケンカしたし、あ、そうそうその彼氏とそのボッチ君が同じ学校らしいから、なんかその辺も面白くなりそう!とか思ってる(笑)」
カズルの心が痛んだのは絶望というものに近かった。まさに自己変革の第一歩を踏み出したその時に、踏み込んだ足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚だった。せっかく踏み出した一歩であった。
カズルはついに気付いていた。“ぼっち”という言葉に価値があっただけで自分自身はただの大学生に過ぎないと。特別な存在などではないのだと。そうして心を入れ替えようと決心した。人を信じられないと決めつける前に、自分が人を信じようとしているのかに目を向ける事を覚えた。自分だけの世界から外の世界へ飛び出していく事を少しずつ学んでいこうと、そういう事を決めた直後の絶望である。人を信じられるようにと意識改革を起こした直後の裏切りである。
カズルはいよいよ理解が出来なくなった。世の中の仕組みを、社会での生き方を。自分の世界に籠っていては良くないが、外に一歩出た途端に傷を負った。これを上手く熟してしまうのが大人だとすると、とても今の自分には出来そうにないと頭を抱え、そのまま眠りについた。嫌な夢を見た。
*39
1日空けてカズルは午後1時に出勤した。自己変革を期に、大学に行く事も意識的に増やしていたカズルであったがこの日と前日は休んだ。HINO-YOUに受けた絶望をぬぐいきれなかった。
この日、本当はバイトに顔を出すのも怖かった。原因は言わずもがなである。しかし、その事実の正否を掴むにもやはり本人にしか分からないという結論に至った。そしてそれもまた“外交”とは切っても切り離せないものだという覚悟もあった。
「セアヴォース、カズル君!」
ユウナの挨拶が響き、それにつられてアズサも笑顔になっている。いわゆる“ムードメーカー”としての役割を十分に果たしているが、その心の奥では不満を持っている事がカズルには見えてしまうようで、静かな挨拶だけ返して2階に上がっていった。その姿は自己変革前と変わらないじゃないかと、カズルは自分に言い聞かせた。しかしこの時の原因は自分に無く、ユウナ、ひいてはHINO-YOUであることはカズルにも冷静に判断が付いた。
「元気?」
誰よりも最初にカズルに声を掛けたのはユウナだった。カズルは鳥肌が立ったが、悟られてしまうのも怖かったので「はい。」と答えた。心なしか声は震えているように思えた。
「昨日は大丈夫だった?」
アズサがユウナに聞く。ユウナは笑顔で「はい!」と答えた後にカズルの方を見て首を少し傾けた。
「昨日、2人で色々と話して楽しかったんですよ!それから仕事もはかどって!」
ユウナはアズサとカズルの顔を交互に見ながら嬉しそうに説明し、最後にカズルの方を見てまた笑顔で首を傾けた。「カズル君と喋る時間取れるのは私の特権ですからね!」などとも言い始めた。カズルは鳥肌と震えが止まらなかった。アズサは安心したような表情でそれを見ていた。
「それならよかった。」
アズサがぼそっと言った。それからユウナに向かって
「あんまりカズルと仲良くしすぎて彼氏に嫉妬されんようにね?」と冗談交じりに言った。
一瞬ユウナの顔がこわばったのをカズルは見逃さなかった。ユウナはその冗談に笑う事しか出来なかった。そしてアズサに早く帰り支度をするように急かした。
アズサにとってユウナがいてくれる事は大いに助かっていた。仕事の面でもそうだが、年齢の近いカズルと積極的にコミュニケーションを取るのは、ユウナの方がアズサよりずっと上手だと思っていたからだ。
カズルが再開してからまだまともに一緒に働いていないアズサの中にはどうしてもまだ不安があったが、こうしてユウナから話を聞くといくらか安心した。それというのも、ユウナへの信頼の表れでもあった。
少ししてからアズサは帰って行った。ユウナはもう一度「元気だった?」とカズルに聞いて来た。カズルにはそれが、まるで配信動画を見た事を知っているかのようでまたそれの口封じのための一言に思えて怖かった。ここで、変な事を言ってはいけないというプレッシャーを何処からともなく感じていた。
「午前中は大学行ってた?」
カズルは今日は行っていないという事を伝えた。
「そっか、え、なんか好きな子とかいないの?」
ユウナはまた同じことを聞いてきた。カズルは丁寧にそれにも「いません。」と答えたがその直後に「これこの間聞いたね!」と恥ずかしそうに笑った。
「じゃあさ、好きなタイプとかっている?」
「その質問は、苦手なんですよね。」
カズルが震える声で答える。この間見た動画の「簡単に落とせそう」という発言も思い出して、ユウナが何を考えているのかが分からなくなった。
「例えばさー、可愛い系か綺麗系か、とか。料理出来る人、とか。」
ユウナは笑顔でどんどん聞いて来た。
「料理は、出来た方がいいと思います。僕が、出来ないんで。」
カズルが弱弱しくそう答えると、「私得意だよ、料理!」と急に手を挙げて言ってきたので思わずカズルはたじろいでしまった。そして「そうなんですか。」とだけ返すと、ユウナはさらに得意料理についても説明してきた。まるで先日、趣味のアニメについて語っていたカズルのような勢いがあった。
この日は料理の話で持ちきりだった。休憩時間にもその後の仕事中も、料理に関する話で盛り上がっていた。と言っても盛り上がっていたのはほとんどユウナだけで、カズルは心の中の防具を頑丈に構え慎重に会話に参加した。
仕事を終えて帰り際、ユウナは店を出た後に前を歩くカズルの手を握った。
「今日、うちに来る?」
カズルは驚きと恐怖で困惑した。
「ご飯作ってあげる。」
カズルより背の低いユウナは上目遣いのようにカズルの顔を見上げながら誘った。いつの間にかユウナは両手でカズルの腕を取り、ぴったりと体を寄せてきていた。
「でも、彼氏いるんじゃないんですか?」
ユウナの表情が一瞬陰ったのも、カズルはまた見逃さなかった。
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「この間いないって言ったじゃん。」
ユウナは焦ってそう言った。この間話した時に「彼氏はいない」と伝えていたユウナはカズルがなぜそんな事を言ったのか分かっていないようだった。まずカズルは、アズサの話を出した。
「今日、アズサさん、彼氏に嫉妬されないようにとか言ってませんでしたっけ?」
カズルのその質問にバツが悪そうな表情を浮かべたユウナは「あれは前の話で今はいない」と訂正した。
「そういうことなんですか。」とカズルがぼそっと答えると、ユウナは安心したような笑顔でまたカズルの腕を引っ張り始めた。そして引き続き家に来るように誘った。
「HINO-YOUって、ユウナさんですか?」
その時ほど、“時が止まった”という表現が当てはまる時間は歴史上どこを探しても無かったに違いない。風も雑踏も鳥の声も全て無くなったようにユウナには感じられた。
ユウナは否定するとか、笑ってごまかすとか、そういう選択肢すら頭の中に浮かばなかった。そしてカズルの腕を振り払う事も出来なかった。ただただその無音の中で、何が起こったのかを冷静に見付けようと探して見ていた。
「たまたま、見たんですけど、もしかしてと思って。」
確信が無かったカズルも少しずつ慎重に聞き出すつもりだったが、すでに答えは出ているようなものだった。ユウナがあまりに露骨な反応を見せたために、カズルも次に打つ手が分からなかった。とりあえずユウナの反応を待つしかなかった。
ユウナは依然として頭の中がぐるぐると回っている。マスクもしてHINO-YOUという別の名前で活動している姿を知られた事を受け入れられなかった。それはまるでカズルのあの時と同じだった。
自分もカズルとほとんど同じ様な事をしておきながら、散々カズルの行動を責めたのには自己防衛の意識が働いていたのだろう。自分も同じように見つかってしまう可能性を察知し、その対極まで自分を持って行ったのだ。特にカンタロウに悟られてはいつ自分の動画が見つかってしまうか分からない。ところが最初に見付けたのはカズルだった。“同業者”のはずだったカズルだった。
ユウナは頭が真っ白になったままでどうしたらいいのかまったくもって分からなかった。
否定をしても無駄な事。
肯定をしても、胸を張れるような内容ではない事も動画の中とお店での自分がまるで違う事も今目の前にいる男には全部知られていると思うとそれも出来ないと思えた。
抵抗も出来ず、認めるにしても内容が悪かった。無関係な第三者ではなく、“被害者”本人に捕まってしまっている。
「、、、家に来て、、、。全部、話す、、、。」
さっきまでの勢いが嘘のように、ユウナの体は重くなり声は細くなった。カズルは承諾した。もはや見破り攻撃しようなどという考えはなく、単純な知的好奇心だった。自分を散々否定した人の実態を知りたかった。
ユウナの家まではお店から電車で10分程だったが、ユウナにとってこれほどこの道のりが長く感じられたことなど無かった。2人は一切の口を閉じ切り、それでもなぜかユウナはカズルの腕を掴んだままだった。
心の底で、カズルに頼っていた。あまりに身勝手な行動だったがユウナはそうでもしていないと倒れてしまう気がしていた。
*41
ユウナの部屋は、思いのほか女性らしくなく、言うなれば殺風景だった。ソファーとテーブルがある狭い部屋に立派なカメラは立っていた。これで固定撮影をしているユウナをカズルは無意識に想像してしまって一瞬体がぶるっと震えた。
ユウナはひとまずトイレに入り、カズルをソファーに座っているように促した。
なんとも異様な空気だった。そしてなんとも異様な関係性でもあった。
社会的な面から見ると2人はただの仕事仲間である。ところが、目に見えない部分での繋がり方はあまりに複雑だった。
カズルは、年下のくせにでいつも元気なユウナをそもそもよく思っていなかった。信用が置けない人だと思っていた。そしてそれは態度にも出ていた。ユウナに対して一際消極的な態度を取っていた。しかし、本人の前ではそこまでで、カメラの前で不満を吐露した。それが本人の目に入ってしまった。その後、信用を置きかけたが再度崩されてしまった。
ユウナは、カズルの暗い性格をそもそも嫌っていた。しかし本人前、店長たちの前ではそんな素振りを一切見せることなく接していた。ところが、そうして堪えている分ストレスはたまり、ユウナもカメラの前で不満を漏らしていた。そして動画を通してカズルに伝わってしまった。
今こうして面と向かって同じ部屋にいる時、2人が言葉に詰まるのも納得だ。いわば、見せまいと隠していた部分を間接的に自分の知らないところで見られてしまっていたのだ。しかしその原因となった動画を世の中に発信していたのもまた彼ら本人だった。
自分の蒔いた種から咲いた花が持つ毒を浴びた彼らは、その解毒の方法を知らなかった。きっと“地獄のクズぼっち”と“HINO-YOU”として対峙したならもっと思った事を話し合えただろう。しかし今、この部屋の中に入るのは、“カンヌキカズル”と“ヒノジリユウナ”という2人の生身の人間なのである。自分の世界では王様だった2人が現実世界で出会ってしまった時、彼らは“自分”という物を強く意識せざるを得なかった。“ぼっち”という装飾アイテムと、“配信者”という肩書を取り除けば、どちらもただの人間であり、それどころか、他人の前では自分を我慢し“本当の自分”を出す事の出来ない寂しい人間なのである。
トイレから出てキッチンに立つユウナの目には涙が滲んでいた。しかし、何に対しての涙であるのかは分からなかった。後悔にも似ているが、カズルへの恨み、そして我慢して作り上げた“自分の姿”の崩壊の悔しさにも思えた。
高校でいじめられた経験を活かし、社会で生き抜くための姿を作り上げるために隠した部分が見つかってしまった。これではまた高校時代のようにいじめられてしまう。“本当の自分”を見せる事の怖さにまた苦しめられてしまう。ユウナは怖くなった。そして震えた手で仕事用のベルトを鞄から取り出した。
カズルはソファーの上で恐怖におびえていた。信じ始めた人の本性に出会い、そこに干渉した先に何があるのか、想像もつかなかった。じっとしている以外になかった。一点に視線を集中させなるべく余計な事は考えないようにした。どんな話がされても、自分に誠実に対応しようと思った。そんな“人間”らしい事は初めてだった。インターネット上ではなく実際に目の前に起こった問題を解決できるのも現実世界に生きるもののみだと痛感した。干渉することも干渉されることも怖かった。怖かったがそうするしかなかった。急に身の回りの大人たちが強く見えた。膝の上に手を乗せている。手が震えているのか膝が震えているのか分からなかった。その時だった。
何か少し硬めの何かが首にかかった感触がありそれが締まってくる。カズルはその首元に手を掛けたが力が入らない。頭は真っ白、何が起こっているのかを冷静に見極めることも出来ずに意識が遠のいていく事だけは分かった。
ユウナのその時の表情は、カメラの中でも職場でも見せることのない、憎悪と困惑と後悔と恐怖の混ざった酷い顔だった。
「最近、またカズルが来なくなったけど、なんか知ってる?」
カンタロウが問いかけると「試験とか、近いんじゃないですか?」と、いつもと変わらぬ明るさでユウナが元気よく答えた。
何の混じりけもない綺麗な青空の下で。