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自称行為  作者: オノマトペ
3/5

*10

 部屋を片付けたことをきっかけに、心の中に変化が起こっていたカズルは「地獄のクズぼっち」として、面白い試みを企んでいた。バイトだ。

 「クズぼっちが他人の中で働いたら、どうなるのか分からなくて面白いんじゃないか」と、カズルは考えていた。お金なら、生活に困らないくらいを動画投稿で稼ぎ始めているが、“働く”という所に価値を見出していた。とは言えこの場合は、いわゆる“不純”な動機ではあったが。


 以前のカズルには当然この積極性は無かった。自ら、人との関わりを持つような場に行く事など、少なくとも大学生活においては一度も無かった。それを産んだのは紛れもなく“綺麗な部屋”であった。


 カズルはさっそくバイトの求人を探した。そうは言っても元来他人と接するのが苦手な性分なので、コンビニの店員であるとか居酒屋の店員などはやめようと考えていた。しかし同時に、動画的な面白さを考えるとそっちの方がいいかもな、とも思っていた。


 求人誌ばかり読んでいてもよく分からなかったので、外に出てみる事にした。数カ月前まではほとんどひきこもりのような生活をしていたカズルだが、かなり活発に行動している事に自分でも驚き、またその新鮮さにいくらか落ち着かないでいた。


 この「働く」というアクションにおいて、1つのシリーズ動画に仕立て上げようと思いついたカズルは、バイト先を探す段階からカメラを回していた。マスクとイヤフォンは欠かせないものの、外でカメラに向かって喋る事に、もはや微塵も抵抗を感じていなかった。



 街に出ると、見慣れないお店が建っていた。見慣れないとは言うものの、そもそも大学と自宅間(スーパー、コンビニもこの道中)の往復以外に外出しないカズルにとってはほとんどがそうであるが、確かに新しいと分かる建物だった。

 近付いて行くと、それはパン屋だった。もっと言うとドイツパンのお店であったが、カズルには、日本のパンじゃなく海外のパンだ、という程度にしか分からなかった。


「パン屋ですね、なんか、魔女の宅急便を思い出す感じの、外国のパン屋っすね。えーっと店名は、外国語で読めないっすね、英語?英語じゃないか、えー、B、でえっ?なんかAの上に点々付いてるけど、なんて読むんだ(笑)」


 店の名前はさておき、お洒落な雰囲気のお店でカズルは興味津々になった。

 さらに近付いてみると店の扉に紙が貼ってあった。販売員の求人だった。

 カズルは中の様子もガラス越しに見た。小さいお店だが、カウンターがショーケースになっていてその中に小型の茶色いパンが並んでおり、カウンターの後ろには大きめのパンがずらっと並んでいた。見た感じ、女の人が1人カウンターに立っているだけで他にはお客さんも含めて誰もいない。


「あの、今、午前11時頃なんですけど、誰もいないっすね。まぁ、人気が無いっていうよりは、新しそうなお店なんでね、知名度が、あんまりないのかもしれないですけどね、ここだったら、あんまり人と関わらなくて済むかもしれないですね。」


 と、そんなことをカメラに向かって喋っていると、店の奥から男の人が出てきた。そして女の人と少し話をした後、こちらに向かって歩いて来た。

 扉を開け、店から出てくると「もう開いてるよ。」と一言残し、車の方に向かって行った。


「ビビった、怒られるかと思った、まぁね、店の前でカメラ回して喋ってたら、普通、注意されそうだしね。」



 カズルはいったん家に戻った。カズルの中ではほとんど、あのパン屋に応募することに決まっていた。もちろん、誰も反対はしないだろうという事は分かっていたが、カズルはこういう場面で決断を下すのが苦手だった。


「今はあんまり人もいなさそうだったけど、しばらくして人が増えてきたらコンビニの店員とかと変わらないよな。」などと、見えない先を見越して足踏みをするのが常だった。


 試しにインターネットの匿名掲示板で相談をしてみたが、誰一人まともに返事をする人はいなかった。あるいは、他人がどうこう決定できる話でもないんだろうが。ここで言う「まともな返事」というのは、カズルにとっては、同じように色々と考える人の意見であり、単純に背中を押すような言葉など要らなかった。とは言え最終決定がカズル本人であることは百も承知だった。ただ、決め手に欠けていた。そして、他にもっといい職場環境があるんじゃないかとも考えた。



 実際、誰に分かるでもない事をだらだらと考えるのはカズルの癖だった。そしてそれが故に判断が遅れるのも同じくいつもの事だった。それをカズルは「慎重な性格」だとか聞こえの良いように言うが、ただ単に決断力が無く自立できていないだけである。またカズル本人も実はその事に気付いているが目を背けている、これもまた常だった。



 2日ほど考えた挙句、カズルはそのパン屋にコンタクトを取る事に決めた。“2日ほど考えた”とは言うものの、他の候補となる職場を探したわけでもなければ、このパン屋に関する情報を集めたわけでもなく、客観的に見ればただ、ウジウジとしていたに過ぎなかった。


「それではね、今から、そのパン屋に電話をしたいと思います。」


 パン屋の名前は“BÄCKEREI ONOMATOPÖIEベッカライ・オノマトペ”だという事が分かった。表記はどうやらドイツ語だったためカズルは読めなかったが、インターネットで調べてようやく判明した。


 1回目の呼び出し音の途中で電話は案外早く取られた。女の人だった。


「はい、ベッカライ・オノマトペです。」


「あ、あの、バ、バ、バイトの、募集、のは、は、は、貼り紙を見て、で、電話したカ、カ、カンヌキという者なんですけど、」


「あ、はい、わっかりました、それでは面接の日取りなんですけど、来週の水曜日はどうでしょうか?」


「だ、大丈夫です。」


「そしたら、簡単な履歴書を持って朝10時頃に店頭までお越しください。」


 電話を切ると一気に力が抜けた。そして動画の為の一言を話した。


「というわけでね、無事、電話も済んだんでね、来週の水曜日を待ちたいと思います。」



 電話口とカメラの前ではまるで別人のカズルは、そこに正しき“ぼっちのダメ人間らしさ”を感じていたのであまり気にしていなかった。あくまでこれは彼にとって“動画の企画”であった。


*11

 翌水曜日、カズルは履歴書を持ちある程度ビシッとした服装でパン屋オノマトペに向かった。ドキドキだった。その反面、たかがバイト、という少し見下したような気持ちもあった。

 出発する前と、店に着く直前まではカメラを回していたが、さすがに面接中はカメラを回さない常識くらいは持ち合わせていたカズルはカメラをしまい、約束の10時より少し早めに店頭に着いた。

 


 扉を開けた。



「あ、いらっしゃいませ、面接の?」


「はい、、。」


「ちょうどよかったです、今主人がちょうど仕事終わりなんで、少々お待ちください呼んできますねー。」


 ずいぶんと気さくな奥さんだった。年齢はおそらく30歳手前。主人と呼んでいたのできっと夫婦でお店を営んでいるんだろう。

 そんな事をカズルが考えていると、奥から二人で出てきた。この間、遭遇した男の人だ。


「こんにちは、店長のヤナドです。では、面接するんで付いて来て下さい。」


 カズルは黙って店長のヤナドの後ろを付いて行った。店長は背が高く細身で30から40歳くらいの人だった。

 カウンターの前を通った先にある階段を上って2階へ上がっていき、事務所のような部屋に入った。大きい部屋ではなく、店長の物と思われる散らかったデスクと本棚それからソファーとテーブルがあるくらいの部屋だった。


「ソファーに腰掛けてて、コーヒー持ってくる。」


 店長はもう一度下へ降りて行った。

 1人になるとカメラに手が伸びる癖がついていたカズルは、携帯を取り出して事務所内を一通り撮ってみた。そして「これから面接です。」と一言、小声で添えた。

 ちょうど携帯をしまった直後に店長が戻ってきた。足音を全く立てずに上ってきたので少し驚いた。店長はテーブルにコーヒーを置き、自身もカズルの向かいのソファーに腰掛けた。


「名前は?」と、店長が突発的に聞いて来た。


「カ、カンヌキです。」


「名字だけ?」


「あ、、カンヌキ、カ、カズルです。」


 店長はニヤニヤしながらコーヒーを啜りつつ聞いていた。


「大学生?」


「はい。」


「楽しい?」


「は、ま、まぁ。」


 なんて面接とは無関係そうな私情を聞いて来るんだと、カズルは心の中で思ったあまりはっきりとした返事が出来なかった。そうでなくても、楽しくないですと本音を言ってしまうと面接に悪影響であるような気も反射的にしていた。


「あ、履歴書書いて来たんだっけ?」


 忘れていたかのように店長が聞いて来たので、カズルはハイと答えて書いて来た履歴書を渡した。店長はコーヒーを片手に履歴書を見始めた。カズルもコーヒーをすすめられたので言われるがままに飲んだ。

 そう言えば今日は久しぶりに他人に顔を曝している。それに周囲の音がよく耳に入る。そう思うと変な緊張感が増した。


「趣味、映像制作。スゲーやん、ユーチューバー?」


 カズルはその鋭い質問にドキッとした。アニメとかゲームとか書くよりマシだと思って書いたのだが、かえって失敗したと思い、そして無意識に、ユーチューバーではなくただの趣味だ、と嘘をついてしまった。店長は残念そうに笑った。

 店長は一通り履歴書に目を通し終えたようだったが、これまでに質問は趣味に関するそれだけだった。

 履歴書をテーブルに置くと改めて、どれくらい働けるのかという具体的な質問になった。カズルはいまいち、自分がどれくらい働けるのか、あるいは働きたいのかが分からなかったため、逆に店長に希望を聞いた。店長は「毎日、朝から晩まで。」と言って1人で笑っていたが、その後で週に3日入れるだけでも助かると言った。

 話し合いの結果、カズルは採用となり、月曜日、水曜日、土曜日の週3日、月曜日と水曜日は昼の1時から閉店の6時まで、土曜日は朝8時から昼の1時まで働く事に決まった。これと言って、個人的な質問もされず案外あっさりと採用が決まったので、カズルはなんとなく肩透かしをくらったような気分だった。


「じゃあ、今週の土曜日さっそく来れる?」と、店長が問うとカズルは力無い返事でハイと答えた。店長は笑っていた。



家に帰る前、興奮が冷める前にと思いカズルはお店近くの公園のベンチでカメラを回した。


「いやー、面接してきたんですけどね、無事、採用という事で、ひきこもりクズぼっちでもね、働けるという事を証明しました。いやー、思ったよりあっさりって言うか、なんか、楽勝でした。」


 一言を撮り終えると、家に帰って編集をして次の日にはその動画を投稿した。


【クズぼっち、面接に行ってみた バイトシリーズ1】


 反響は凄かった。カズルを称える声もあれば、非難をする声もあった。いずれにせよ、注目される事だけが今のカズルにとっては大事だった。

お店の外観や事務所の中の映像にはしっかりとモザイクを掛けた。カズルはそれで十分な配慮だと思っていた。自分の世界の王様であるカズルには、これ以上ない常識のある振る舞いだった。



*12

初めての出勤の日も、カズルは朝からカメラを回していた。


「おはようございます、今、まだ、朝の6時なんですけどね、初出勤なので、頑張ってきたいと思います。」


カズルはワクワクしていた。ワクワクはしていたが、単純にその“不適合さ”にどこか面白さを感じているだけに過ぎなかった。

彼の頭の中ではすでに自分自身を“孤独の化身”とでも言うように特別視している節があった。いくら被害妄想によるものとは言え、それに無自覚な彼にとってその“疎外された”と感じた経験は今や自分の人生に欠かせないものになっていた。そんな、疎外され隅に追いやられたダメ人間の大学生が“働く”というだけで、彼にとっては面白かった。

傍から見れば当然、ただの大学生のバイトに過ぎず、それはもちろん店長らにとってみてもそうであったが、カズルの世界では、それはもはや大逆転劇の序章とでも言ってしまえるほど、主人公である「地獄のクズぼっち」は特別な人間になっていた。



店に向かう間も、カズルはカメラを回して気分を高めていた。


「いやー、まぁ働くって言ったってね、そんないきなり難しい事とかやらせては来ないと思うんでね。まぁ別に、こう、環境が変わったってね、ぼっちはぼっちだと思うんで、はい、別に媚び売って色々と話そうってつもりもないんで、はい、まぁパパっと仕事を終わらせて来ようと思います。」


 カズルのアパートからベッカライ・オノマトペまでは、電車で2駅だった。電車を降りてから5分と歩かないうちに着くことが出来るので、移動はわりと楽だった。



 お店に到着し中を覗くと、2人のお客さんが来ていた。

 カズルはそーっと扉を開けた。


「おはよう。」


 奥さんがカウンター越しに挨拶をしてきてくれたが、カズルは会釈する程度だった。


「2階の事務所で着替えてからまた降りてきて。」と言って、奥さんはカズルに制服と思われる服を渡した。

 カズルは言われるがまま事務所へ行った。


 店長はいなかった。仕事を始める8時まであと15分あったのであまり急がずに着替えた。渡されたのはポロシャツタイプの制服と前掛けのみでズボンは無かった。カズルは上を着替え、前掛けを腰に回し後ろで紐を括った。姿見があったので動画に納めておいた。

 少し事務所内を見回すと、面接に来た時は気付かなかったが壁に、額に入れられた賞状のような物と写真を見付けた。賞状は外国語で書いてあって読めなかったが、写真を見るとおそらく若い頃の店長が、外国人と一緒に写っていた。


「海外で勉強してたっぽいな。」と思い、カズルはまた賞状に目を向けると店長の名前はローマ字表記だったので読み取れた。


「KANTARO YANADO、ヤナドカンタロウか。」


 さらに見回すと本棚の横の壁に名前が2つ掲げられていた。


「ヤナドカンタロウ、ヤナドアズサ。やっぱりあの2人は夫婦だったんだな。」


 と、カズルの背後に人の気配がして振り返ると、案の定店長がいた。足音を立てずに上ってくるのはこの人の特徴だった。


「おはよう、少年。」


 店長の元気の良い挨拶の余韻にさえ掻き消されそうな声で挨拶を返した。


「なんか面白いもの見付けた?」


 店長が冗談ぽく聞いて来たのを聞ききる前にカズルは下へ降りて行った。


 カズルが下へ降りた時には、お客さんはいなくなっていた。カズルは奥さんのアズサと目が合った。


「アズサです。名前は?」


「カ、カンヌキです。」


「下の名前は?」


「カズルです?」


 中学、高校、大学と名字でしか呼ばれてこなかったカズルは、ヤナド夫妻が揃って下の名前を聞いて来たことに違和感を感じた。さらに「カズルは大学生?」といきなり呼び捨てで質問してきたのにはさすがに驚いた。

 

そういえばさっきの店長も「少年」と呼んで来たり、アズサさんも呼び捨てだし。と、カズルはなぜか少し不安になった。


それはそうとカズルはアズサの質問にハイとだけ答えた。するとアズサは面接の時のカンタロウ同様に「楽しいか?」と聞いてきた。カズルはまた曖昧な返事を返したが、そもそもの話カズルはこの質問が苦手だった。一般常識的に考えての“楽しい”なのか、個人の主観で考えての“楽しい”なのかがカズルにはよくわからないからだ。


「楽しくないの?」と、アズサが追い打ちをかけるように聞くが、カズルは「いや、、」と言うだけでそれ以上口を噤んでしまった。アズサは「どっちやねん」と言って笑った。

そこにカンタロウも降りてきた。そしてカズルに向かって「緊張しなくていいよ。」と声を掛け彼もまた笑った。よく笑う夫婦だなとカズルは思っていた。そして自分の中に少し苦手意識を芽生えさせ始めてしまった。


カンタロウはまた奥に入っていき、カウンターにはアズサとカズルが残った。カズルがアズサから、奥には工房と休憩室があるという事を教わって以降、2人の間には少し沈黙が続いた。アズサはぼんやりと外を眺めているようだった。それに対してカズルは頭の中で「気まずいからなんか話しかけてくれよ」とアズサに念を送っていた。


当然、と言ってしまうがカズルは受け身の姿勢でいた。自分から話し掛けるという事は出来なかった。出来ない、というのは地位の低い者のプライドとも言えるかもしれない。アズサとカズルの間に流れる沈黙もカズルは嫌だった。アズサはと言うと、特に何も感じていなかった。


しばらくしてお客さんが来た。カズルが50歳くらいだろうかと考えているのと同時にアズサは「いらっしゃいませ」とその婦人をもてなした。


「あら、新しい人が入ったのね。」

 

 婦人はすごくおっとりとした喋り方で、カズルの方を見ながらアズサに話し掛けた。カズルは伏し目がちに、ぼんやりと1m先斜め下を見ているようだった。


「そうなんです、今日からバイトで。大学生で週に3日入ってもらうんですよ。」


 やたらと“個人情報”をべらべらと話す人だな、とカズルは隣で聞いてて思った。週に何日働くとか、大学生だとかということさえカズルにとっては個人情報に感じられた。


 大型のパンを受け取ると婦人は帰って行った。どこか上品な雰囲気をまとった人だった。


「あの人、シヤさんって言って常連第一号なんやで。」と、アズサはカズルに嬉しそうに伝えた。

「ちょうどカズルが働く月水土曜日に毎週来るの。まぁ時間は合わないかもしれんけど。」



 それからまた少し二人の間に沈黙が続いた後、アズサはカズルに大型のパンの包み方を教えることにした。


「今日は初日だし、とりあえず雰囲気だけ掴んで貰えればいいと思ってたんやけど、時間がありそうだからね。」と、また笑いながらカウンターの後ろの棚から大型のパンを1つ手に取ってシンプルな包装紙の上に乗せた。なんだか固そうなパンだなと、カズルが思いながら見ているとあっという間に包み上がった。カズルはその手順をまるで見ていなかった。


「どう、出来そう?」


「、、はい。」


 なぜか出来るという返事をしてしまった。

 アズサがパンと包装紙をカズルの前に差し出してみたが、彼はただパンを見つめたまま動かなかった。アズサは最初だからと、文字通り手を取りながら教えた。カズルの表情は何色でもなかった。




*13

 包み方を教えている途中でお客さんが来た。今度はおじいさんだった。


「おはよう、マユタさん。いい天気ですね。」と、アズサは気さくに挨拶をし、マユタと呼ばれるおじいさんも笑顔で応じた。

マユタは大型のパンを半分に切った分を注文した。アズサはちょうどいいと思い、カズルにそのパンを包むのをやらせた。たかがパンを包むだけとはいえ実践が大事だ、とアズサはマユタに少し時間を貰えるよう頼んだ。マユタは当然だ、と笑顔で承諾した。


カズルは過剰なまでのプレッシャーを感じていた。目の前に出されたパンを見て手が震えていた。ついさっき覚えたはずなのに動こうとしないカズルを見て、アズサは諦めパンを自分の前に戻し手際よく包んだ。


「彼、今日からなんですよ。」


 アズサはカズルをフォローするようなことを申し訳なさそうな笑顔と共にマユタに伝えながら会計を済ませた。マユタはいつでも笑顔だった。


「どうしたの?さっき出来てたやん。」


 そうアズサが笑いながら優しく声を掛けてもカズルは黙って一点を見つめたまま動かなかった。

 すると奥からカンタロウが出てきて「少年!」とカズルを呼んだ。カズルは聞こえなかったのか、アズサに肩を叩かれてようやく気付いた。


「奥の工房と休憩室のこと教えるから来て。」


 カズルはカンタロウの後ろを歩いて付いて行った。目線は常に斜め下を向いていた。アズサは少し困ったような顔で時計を見上げた。



休憩室は店頭から奥に入ってすぐ、工房との間に位置していた。

「ここが休憩室。冷蔵庫とか電子レンジとかコーヒーメーカーとか基本的には何を使ってもいいからね。」


 工房へは休憩室を通って行く形になった。

「かっこいいやろ、ここ。Meine Backstubeやで、ドイツ語で言ったら。」


 カンタロウは手を拡げて嬉しそうに工房全体を紹介した。カズルは依然として静かなままだ。

 主なところで、工房には大きい作業台が2つ向かい合わせに置かれ、その向こうに2種類のオーブンと醗酵室が置かれていた。2つの生地を捏ねる機械は作業台のこちら側の壁際に置かれておりその横に小麦粉等の袋がずらっと並んでいた。工房の入口から見て右奥には冷蔵庫と冷凍庫が並んでいた。もちろんどれも家庭用とは比べ物にならないくらい大きいサイズだった。その他必要な物が壁に掛けられていたり、作業台の下に納められていたりした。その1つ1つをカンタロウは細かく、自慢げにカズルに説明した。


「まぁ、カズルは基本的には販売員やで工房内で働く事はないと思うけど、万が一の場合には手伝ってもらったりもあるからな。」と、カンタロウは補足説明をしてからカズルをまた店頭の方に行くように指示をした。

 カンタロウはもうほとんど仕事を終え、あとは少し片付けが残っている程度だった。



「どうだった、工房は?」


 アズサも嬉しそうにカズルに質問をした。カズルは伏し目がちのままで「あ、すごかったです。」と単調に答えた。アズサはそれで満足そうな顔をした。


 それからは何人かのお客さんが来たが、カズルはアズサの隣で立って見ているだけだった。そもそもアズサはそうするつもりではいたのでこれといって問題はなかった。アズサは来るお客さんの中でも顔見知りの関係の人には漏れなくカズルの説明をした。カズルは逃げたくなった。



 時刻は10時になり、アズサはカズルに休憩するように指示をした。カズルとしては、ほとんど何もしていないので体力的にまだ休憩は必要とは思えなかったが、アズサが「そういう決まりだ。」と言われ、それに従い休憩室へ向かった。






*14

 休憩室にはテーブルが1つと椅子が4脚あった。カズルはどの椅子に座っていいのかを気にして立ち尽くしていると、少し慌てたようにアズサが入ってきた。


「そうそう、店頭に並んでる物ならどれでも食べていいからね。え、どうしたの、そんなところに立って。」


 同時に2つの情報が入ってきたので少し迷ったが、カズルは質問に答えた。


「あ、いや、どこ、座っていいのかとか聞いてなかったんで。」


 アズサは少し唖然とした後「どこでもいいよ」と笑いながら言い、最後にもう一度、店頭の物を食べていいという事を伝えて戻っていった。


 カズルは少しの空腹感はあったが、店頭まで取りに行く事を考えたら面倒臭くなり食べなくていいやと思った。そしてとりあえず目の前の椅子に腰掛けた。コーヒーメーカーからはコーヒーの匂いが漂って来ていた。



 “ようやく”1人になることが出来たカズルは今日のここまでを考えていた。アズサのこと、カンタロウのこと、働くということ、そして自分のこと。

 まずアズサについては、自分とは合わないタイプだと感じていた。自分の素性を知られることを極端に恐れていたカズルは、いきなり知らない婦人にアズサが自分のことをぺらぺらと喋った瞬間に信用してはいけないと壁を構築した。それに加えて、最初から呼び捨てで呼ばれたことも引っかかっていた。

それからパンの包み方を教わった時、そしてお客さんの前で自分が出来なかった時、休憩を始めてすぐに自分が立っていた時、そのどれもがカズルにとってはあまり良いものではなかった。


『今までパンなんて包んだことないのにいきなり目の前で1回見せられただけで出来るわけないだろ。なんでそれが分からないんだ。それに、僕がやり方を覚えたからと言ってお客さんが来たら普通、そんな覚えたての新人に任せないだろ。相手はお客さんだろ。待たせたら悪いだろ。』


『あの人は人の気持ちを全然考えていない。さっきの休憩の時だってそうだ。ただ休憩室で休憩しろって言っただけで、休憩中にどう過ごしたらいいか一切教えてくれなかった。それでいて「なんで立ってるの?」なんておかしいだろ。お前が教えなかったからだろ。』


『休憩中にパンを食べていいってのも、「どれでも」なんて言われ方してもわかるわけないだろ。今日が僕の初出勤で、右も左も分からないっていう当たり前の事をあいつは分かっていない。指導者失格だろ。』


 カズルの勝手な不満は留まるところを知らなかった。


『あのカンタロウって人もなー、店長のくせになんかフワついてるし、なんだあのいきなりの「少年」呼ばわり。あんな言い方されていい気分なわけないだろ、もっと考えろよ。工房なんて自慢されても知らねぇし、第一、僕が使うわけじゃないのに余計な知識押し付けてくるなよ。こっちは販売員として覚える事があるんだよ。』


『こっちは働く気で来てるのに、立って見てるだけでいいってなんだよ。』



「おい、少年。」


 カズルは急に呼ばれて振り向くと、私服に着替えたカンタロウが近付いて来た。カズルの目には頭の中に渦巻く怒りの気持ちが堂々と溢れていた。


「今日はとりあえずアズサの指示に従って動いてくれてたらいいからね。まぁ特に忙しくもならんやろうし、緊張はせんように。じゃあな、また月曜日。」


 そう言うとカンタロウはカズルの方をポンポンと叩いて帰って行った。


 いよいよ本格的にアズサと2人になると思うと、溜め息しか出なかった。


 30分の休憩時間が終わり、店頭に戻るとアズサが笑顔で出迎えた。


「お腹空いてないの?」

 

『いちいちうるせえよ。』とカズルは心の中で舌打ちをし、斜め下を見ながら「はい。」と力なく答えた。



*15

 ベッカライ・オノマトペは、土曜日は昼で店を閉めるのでカズルとアズサも1時前にはそれぞれ家路についた。

 最寄りの駅までの5分の道のりの間にある公園にカズルは立ち寄った。コマーシャルの影響があったのかわからないが、自動販売機で缶コーヒーを買いベンチに腰掛けた。


 「あーっ」と1つ大きな溜め息を漏らし携帯のカメラを起動させた。


「はいどーも、地獄のクズぼっちです。いやー今日はですね、初出勤だったんですけど、本当にストレスがね、ハハ、いや普段ね、こんなにストレス溜めないんですよ、自分。でも今日はね、やっぱ働くってね、ストレスなんですよ、単純に、うん。」


「いやもしかしたら、普通の健全な大学生ならね、とかパリピとかだったらね、たぶんこんなにストレス溜めてないかもしれないっす。自分が本当に駄目なクズぼっち、もう人間のクズでぼっちなんでね、たぶん人よりストレス溜めてね、こうやって愚痴るっていうね、ハハ。」


「まぁ、でも仕事の内容的にはね、自分でも全然出来そうな感じで、いや、なんか、客が来たら注文聞いて、お金貰って、渡す、っていう、まぁどこでもそうか(笑)それだけなんでね、まぁ人間関係とか無視して、お金の為にって割り切っちゃえばね、楽勝な感じの仕事っす。まぁとりあえず今日は、帰って、ビールでストレス発散していこうと思います。」



 カメラが回ればカズルは王様気分だった。そのカメラの向こうには自分を支持してくれる“仲間”や“ファン”がいる事を分かっているからだ。それにしてもまるで別人だ。



 しかし不満の尽きない人間だ。こうしてみるとよくわかるが、カズルは実に他力本願な男であった。また、高い自尊心を持った男であった。

 

 帰り道のコンビニでポテトチップスと缶チューハイを買って帰った。

 しかし家に着いたところでまだ昼の2時前である。お酒を飲んでストレス発散をする前に、動画の編集作業にかかった。


【クズぼっち 初労働でストレス爆発!? バイトシリーズ2】


 こんな大袈裟なタイトルを付けるのは、もちろん注目をひくためだ。実際のところ、カズルはただカメラに向かって愚痴をこぼしただけに過ぎず、その低いストレス耐性を“クズぼっち”というフィルターを通して世の中に知らせているだけの動画だった。



 この日のカズルはまさしく“王様”であった。他人と関わる事を避け続け、自分の世界の中でのみ生きてきた男はやはりそこでの常識を“外交”の時に躊躇もせずに当てはめようとしてしまうのだ。

 そんな王様が、初対面の人間に「少年」だとか呼び捨てで「カズル」などと呼ばれたのでは、我慢が出来ないのも頷ける。さらに、自分で自分自身のことを「他人とのコミュニケーションを取るのが下手」だと自負してしまっている男なので、コミュニケーションに関しても受け身である。自分から質問するなどと言う考えはそもそも持ち合わせていないのだ。

分からないことがあったら足りない頭で考える。答えが出るか、助けが来るまでじっと考えて待つのだ。

仕事において最低限必要なコミュニケーション能力のない自分を差し置いて、そんな未発表の自分の特性を見抜けない周囲の大人に不満を抱くのがカズルだった。当然、質問もせずにじっと考えていたら周りはどんどん動いていくので自動的に置いてきぼりをくらうことになる。それも不満の一要素だ。そうして責任は“自分を置いていった人”にあると、心から思っていた。



編集を終え投稿しゲームやアニメに没頭して気付けば夜の9時になっていた。冷蔵庫を開けて、買っておいた缶チューハイを思い出した。ストレス発散の為に買ってはみたものの、カズルの内側には不満も何も無く、缶チューハイを飲みたいという欲さえ失せていた。

夕飯代わりにポテトチップスをつまみながら、動画やツイッターへのコメントに目を通す。

いつものように賛否両論あるが、やはり擁護の声が多かった。そしてまたカズルは気分を良くした。










*16

 月曜日、カズルは午前中に授業を受け、午後1時からのバイトだった。大学からもさほど遠くなく、その日も12時15分頃に学校を出て45分にはバイト先に到着した。カウンターの向こうにアズサではない人をカズルは見付けて、急に変な緊張感が沸いて来た。同じ制服を着ているので従業員だということはすぐに分かった。


 カズルが入ると大きくて元気のいい「いらっしゃいませー」という高い声が飛んできた。見るとすらっとした若い女がアズサと一緒にカウンターの向こうで笑っていた。カズルは勝手に笑われたような気がしてあまりいい気分になれなかった。


「カズル、この子、同僚のユウナちゃんね。この子もうこの店のことなんでも知ってるから頼りなね。」

「ちょっとまだ全然ですよー。」


 アズサと少しじゃれた後、ユウナはカズルの前まで来て「よろしく。」と手を差し出して来た。カズルは「どーも。」と言って手を軽く握り返し2階へ着替えに行った。


 ヒノジリユウナは高校を卒業した後、すぐにベッカライ・オノマトペで働き始めた。バイトとして入ったが、ヤナド夫妻はすでに正従業員として扱っている。カズルより1歳年下だが、カズルより数カ月先輩だった。



 カズルが着替えを終えて下へ降りてくると、アズサが帰り支度をし始めていた。カズルがそっちをぼーっと見ながら立っていると、ユウナが「アズサさんはもう帰る時間だから閉店まで私たち2人で働かなきゃいけないの。」と教えてくれた。どうやら、アズサは朝5時に来て開店準備をするところから1時半までの8時間、ユウナが10時半から片付けを含む7時までの8時間という交代制を取っているらしかった。またカンタロウは深夜2時から10時半までの8時間は工房で働き、午後に一度様子を見に来るらしかった。


『また初対面の人と一から働くのかよ。』と、胸の内で呟いたカズルはとりあえず前回同様、カウンターのこちら側に立っていた。


「あ、そうそう、カズル、もしお昼まだだったらどれでも好きなの食べてね。コーヒーもあるし。」


 カズルはまた「どれでも」と選択権を投げられたので心の中で溜め息をつきながら「はい。」と返事をした。するとユウナが「ここのサンドイッチでも、この辺の甘い菓子パンでも、基本的にはなんでもいいんだよ。」と笑顔を添えて補足した。さらに「私の個人的なオススメはこのフルヒトタッシェかなー。」とカズルにとってありがたい助言までしてくれた。


「ユウナちゃん、フルヒトタッシェじゃなくて“Fruchttasche”やで。」

「いいじゃないですか、私ドイツ語出来ないですもん。」


 アズサはユウナの発音を指摘し笑いあった後、手を振って店を出て行った。


「ちなみにフルヒトタッシェっていうのはドイツ語で、まぁ、直訳するとちょっと違うんだけど、フルーツの、、、パイ?みたいな(笑)とりあえずもしよかったら食べてみてね、美味しいから。」

 

 ユウナの説明を聞いてカズルは「じゃあ、」とだけ言った。


「今食べる?」と察したユウナが聞くので、カズルは返事をして1つ取ってもらった。


「休憩室で食べてきていいよー。コーヒーも淹れたばっかりだからねー。」


 そう言うとユウナはにこっと微笑んだ。カズルはその笑顔も含め、一度もユウナの目を見れないまま休憩室に向かった。



 カズルは食べ終えると店頭に戻ってきた。そして接客を終えたユウナにボソッと「ごちそうさまでした。」と言った。


「ううん、本当にいつでも食べていいんだからね。食べ過ぎたらダメだけど。」と、ユウナはまたにこっと笑った。


 カズルの中でユウナの印象は良かった。比較対象がアズサというのもあったかもしれないが、この日の最初のやり取りでかなり的確に気持ちを察する事の出来る人だ、とカズルは高い評価をした。


「カズル君だっけ、この間の土曜日から始めたんでしょ?」


「はい。」


「一通り教えて貰った?」


「いや、パンの包み方、その、お、大きいパンを包むやり方だけ、」


「レジとかは?」


「まだっす。」


「じゃあこっち来て、教えてあげる。」


 ユウナはレジの前にカズルを呼んだ。いつも通りの無表情のままカズルは言われるがままに近付いた。

 ユウナはとても丁寧に教えた。レジの機械の仕組みだけでなく、お客さんが来た時の振る舞い方であったり、さらにはパンの包み方まで改めて教えた。途中、実際にお客さんが来た時には完全にサポートをしながら実践的に教えた。カズルの中のユウナの評価はどんどんと上がっていった。

 ついにカズルが1人で接客をし終えた時には手を叩いて褒めたりなんかもした。


「もう完璧じゃん!これで私も安心して休憩できるね。」と言ってまたにこっと笑った。カズルはそれでも彼女の目を見る事はなく、また表情も無いままだった。



 あくまで“働きに”来ているカズルにとって、ましてや自称“クズぼっち”のカズルにとって、職場の人間関係など感心の対象ではなかった。ユウナの評価は高いとは言え、正直、仕事さえ教えてくれれば、この人を子供扱いするような態度はどうも好きにはなれなかった。例え笑顔を向けられようが、褒められようが、ユウナをはじめとする従業員、おまけにお客さんまでカズルの眼中にはなかった。しかも、内容は覚えたとはいえその労働態度はとても褒められたものではなかった。無愛想とか悪態とかではなく、言うなればそれは“無”であった。無気力な無表情な、言葉を荒げれば、生きているかどうかさえ疑いかねないほどに活気が無かった。同僚のユウナやヤナド夫妻が対応に困るなどという問題以前に、お客さんの視点に立った時に、当然それでは良くない。アズサもユウナも、すでにその点に関しては気になっていたが、本人はまるで気付いていなかった。あるいは、気付いていながらも、問題はないと判断していた。



*17

 3時になってカンタロウが店に戻ってきた。


「あ、カンタロウさん、セアヴォース!」


「Servus、どう調子は?」


「問題ないですよ!あ、カズル君ももう仕事覚えましたよ、私教えるの上手なんで!」


 Servus/セアヴォースとはドイツ語におけるハローのような挨拶で、ユウナはそれを気に入って使っていた。ユウナはカンタロウに対しても懐っこく接していて、それを見てカズルは、軽そうだ、などと思っていた。


 一度、事務所に上がったカンタロウが下へ戻ってくるとカズルとユウナを休憩に送り、自身が代わりに店頭に立った。接客の合間に、売り上げの計算やその他事務的な仕事も進めるのが日常だった。この事務仕事に関しては、妻のアズサと協力して行っていた。



 休憩室に入って、ユウナはマグカップを棚から下ろし、カズルにも飲むかどうか聞いた。カズルは断った。カズルは、ユウナの下に平伏したくないなどというだけの気持ちから、コーヒーを断った。当然、ユウナにはカズルがコーヒーを苦手としているように見えた。


 ユウナとカズルは揃って、フルヒトタッシェをお皿に取ってきた。「他のもいいんだからね。」というユウナの気遣いに対しても反射的に反発心が働き「いや、これが食べたいんで。」などと、この店に来て一番強い口調で言い放った。


「カズル君って大学行ってるんでしょ?楽しい?」


 ユウナにとっては、強い口調で言われたことなどなんでもなかった。


「いや、別に。」


 カズルは素っ気なく答えた。それから少し沈黙があった後、ユウナが恐る恐る「1年生?」と聞いた。カズルはまた素っ気なく、しかし今度は少し強めに「いや、2年目ですけど。」と言った。ユウナはそれを聞いて驚いて、椅子ごと少し後ろに下がった。


「え、ごめん、同い年かと思ってた!私、高卒で今年から働き始めたんだけど、カズル君も大学一年生で同い年かと思ってたごめん!」


 カズルはそれを言われても無表情のままだった。


「、、、怒った?え、だからカズル君は私に対して敬語使ったり遠慮したりしなくていいからね?」


 ユウナは恐る恐る、なんとかフォローを試みたが、カズルは何処かを見たまま「はい。」と敬語で返事をした。そして「今さら敬語に変えるのも変だからこのままため口でもいい?」というユウナの問いにも「はい。」とだけ答えた。



 休憩中、それ以降会話が続かなかった。カズルは当然黙ったままどこか一点を見つめていたし、ユウナもなんとなく話し掛けづらくなってしまった。しかし、休憩終了に際して「よし、あと少し頑張ろう!」とその沈黙を打ち破るように、大きく伸びをしながら言った。


 店頭に戻ると、カンタロウが接客をちょうど終えお客さんを見送るところだった。


「店長、ただいま戻りました!」


 ユウナは敬礼をしながら笑顔でカンタロウに休憩が終わったことを伝えた。ユウナは本当に人懐っこく、また直感で、他人の喜ぶ接し方というものを心得ているようだった。ヤナド夫妻もユウナの事をとても気に入っていたし、お客さん達からの人気も高く、いわゆる看板娘だった。


 ただ、カズルだけは、その“輝き”を良く思っていなかった。ましてや年下だということが分かった以上、なおさらそのキラキラした態度が気に入らなかった。



 休憩の後も片付けまで、カズルとユウナの2人で仕事を終わらせた。その間、当然何度もカズルはお客さんの相手をしたが、態度は依然として無気力だった。無理に気を遣っていたわけではないが、ユウナは胸の内ではその態度に気付いていながら、注意をするのは控えた。



 最後に店を出る時に、「じゃあね。」と言ったユウナに対して、カズルは無表情でここでも「はい。」と言っただけであった。

 ユウナと別れた後、カズルは公園に行き携帯のカメラを起動させた。


「はいどーも、地獄のクズぼっちです。2日目の勤務が終わったとこなんですけど、ちょっとしんどいっすね、へへ。ま、今日、午前中が授業だったんでね、その後に、職場に直で来て、いや本当は1回家に帰りたかったんですけどね、家に帰ってアニメとかで癒されたかったんですけどね、まぁ、そのまま来て、今が、夜の7時ですね。しんどかった。」


「でね、タイトルでもあるように、年下のね、女の子と知り合って、今日午後はずっと2人っきりでしたからね。ぼっちの僕がね、まさかこんなところで、女の子と、しかもけっこう可愛いと思います、まぁ僕のタイプではないんですけどね、知り合うとは、、って感じですよ。」


「まぁでもちょっとね、歳下なのにめっちゃタメグチなんすよ、その子。その辺のね、上下関係っつーか、最低限のね、人として最低レベルのマナーはないなって思いましたけど、ハハ。ま、別に僕は好きじゃないんで、全然興味ないんすけど、まぁこれから2人で働く事が多いと思うんでね、僕の動画を見てくれてるぼっち仲間の人たちには悪いけど、ハハ。」



 カズルは恥ずかしげも無く、その動画に【クズぼっち 美女と仲良くなる!? バイトシリーズ3】というタイトルを付けて投稿した。コメント欄には、嫉妬の声や応援の声がありカズルは鼻が高かった。


 伝え方次第で、事実はどうにでもなるのだ。ユウナの問い掛けに「はい。」と返事をするだけで、それを“会話”と名付ける事も可能だ。そのカラクリはカズルの体にすでに十分染み込んでいた。











*18

 翌日の火曜日はカズルはバイトではなかった。大学に行った後はまっすぐ家に帰りゲームとアニメに没頭した。カズルにとってその生活はいたって普通であったはずなのだが、バイトが始まってから動画による報告とバイトそのものに気を取られているうちに、なんだが懐かしささえ感じていた。パソコンの前の椅子に腰掛けているカズルの後ろには、少しずつゴミが溜まり始めていた。


 バイトを始めたことによる生活の変化はその“時間配分”くらいなもので、学校では相変わらずマスクとイヤフォンで他人を寄せ付けない格好をしているし、動画でも顔を出していないのでファンに囲まれて困るなんてことも無い。インターネット上の匿名の世界で有名なだけで、現実世界ではただの大学生であった。



「昨日はどうだった?」


 カズルが休みのベッカライ・オノマトペで、アズサがユウナに質問をした。普段から飛び交う質問ではあるが、この日アズサが意図していたのは当然“カズルについて”のことだった。


「問題ありませんでしたよ!カズル君も仕事教えたら、覚えるの早くて接客もしてくれましたし。」


 ユウナが答える。続けて冗談っぽく「なんで私より年上って教えてくれなかったんですかー。」と笑いながらアズサに詰め寄った。アズサはそもそも年齢による上下関係を気にしていなかった。それでユウナにも特に言う必要もないと思っていた。もっと言うと、そう言う事すら思ってもいなかった。


「彼、、、無気力よね。」と、少ししてから唐突にアズサが笑顔で言った。ユウナも「まぁ確かに。」と同意せざるを得なかった。そしてアズサはユウナに、先週の土曜日の話を説明した。パンを包めなかったのは置いておいて、休憩になって机の前に立ち尽くしていたカズルに、アズサは少しの不気味さを感じていたのである。それでユウナがどう感じているのかを聞きたかった。


「普通ね、まぁ私基準の普通になっちゃうけど、」と、前置きをしたところでお客さんが来たのでいったん話をやめて接客に移った。ユウナもアズサも1人ずつ応対してテキパキとこなした。


2人のお客さんが帰るとアズサは続けた。


「普通、休憩室で休憩って言われてそこに椅子とテーブルがあったら、とりあえず腰掛けない?それが彼、立ち尽くしたまま「どこに座っていいのか指示されてないから分からない」って言ってきてさぁ。ビックリしちゃったもん。どこでもいいやん!って(笑)」


 アズサは喋る時に表情とジェスチャーをよく使う人だった。そして最後に「今の若い世代はそういうもんなの?」とユウナに聞いた。ユウナはそういうタイプではないということを知りながらもヒントが欲しかった。


「、、、遠慮、とかじゃないですか?分からないですけど。」


 ユウナは唯一思い付いた“可能性”を言ってみてから、自分との休憩の時の事も思い出して付け加えた。


「そういえば、私と休憩した時にコーヒー飲む?って聞いたけど断ってたのも、もしかしたら、、、遠慮だったのかなー。」


「でも、休憩の時になんて、何に遠慮するの?忙しい仕事中とかだったら、話しかけるの遠慮するとか分かるけど。」


「私には分かりません。」とユウナが笑って答えて、結局その話はそこで終わった。



 少ししてから今度はユウナが先に口を開いた。


「でもそれより気になったのは、接客態度、というか、お客さんの前でも無愛想だったんで、それはちょっと気になりましたね。」


「あー、想像つく。」


 ユウナの話にアズサも大きく頷いた。

 お客さんに対して愛想よく振る舞うのは接客業の基本であると、アズサもユウナも、教わらずとも心得ていた。だからこそ、自然と愛想よく振る舞うという思考にならないカズルが理解できなかったし、また接客業をする人間として良くないよなという共通認識が生まれた。


 かといって2人とも「カズルを即刻クビにしよう」などと乱暴な発想にはならなかったので、しばらく様子を見ながらゆっくりと教えていくという方針に固めた。


「プライドはでも高そうやんね。素直に注意聞いてくれるかな。」とアズサが冗談めかして言うのでユウナも笑った。アズサの胸の内では結構重要視されている部分だった。

「話し掛けられるのも、嫌そうーな感じもしますしね。」と、ユウナも付け加えるように言った。



そこにカンタロウが工房の方からコーヒーを片手に出てきた。


「店長、終わりですか?」


 いつものような元気な声でユウナが聞き、そのついでにコーヒーが目に入ったのでカンタロウに「コーヒー以外の飲み物も置かないとダメですね!紅茶とかコーラとか。」と提案してみた。ユウナは、カズルはコーヒーが苦手だと思っていたのでそんな提案をした。


「なんで?」


「この間の休憩の時、カズル君にコーヒー勧めたんですけどいらないって言ってたんで、たぶん苦手なのかなーと。」


「面接の時は飲んでたけどね。」


 ユウナはアズサと顔を見合わせた。思っている事は一緒だった。


「コーヒーメーカーだけでいいやろ。あとは各自持参せい!」と言ったカンタロウは笑いながら2階へ上がっていった。

残った2人は、少しずつカズルの素性に迫ろうと決めた。






*19

 水曜日、お昼の12時半、アズサとユウナはカズルを待った。2人の中では少しワクワクに似た気持ちであったが、この気持ちが大きくなりすぎるとかえってよくない事も2人は分かっていた。

 カズルの素性を暴く、と言うと聞こえは良くないが、その目的はあくまで“メンバーとして迎え入れる為”に他ならなかった。その為に、心を開き合い、結果として居心地の良いお店にする、というのはカンタロウの目標でもあった。そしてまたその方が純粋に楽しいとも思っていた。決して、カズルの本性を暴いて“叩こう”などという思惑は無かった。



 しばらくして、カズルがお店に到着し、扉を開けて入ってきた。最初に挨拶をしたのはユウナでそれに続いてアズサ、カズルは軽く会釈して真っ直ぐ2階へ上がっていった。3日目ともなれば、カズルの態度も堂々としたものになっていっていた。


 着替えて来たカズルにアズサが「授業どうだった?」と聞いた。カズルは「まぁ普通でした。」と答えた。返事をする声は、最初に比べて大きくなったが、声の調子は相変わらず単調であった。


 「普通だ」と答えられると、アズサはその続きに困ってしまった。アズサとしては「普通って何?」と冗談で聞き返したくなるのだが、カズルはそういうタイプではないことを2人はさすがにもう解っている。そうすると「へーそっかー普通だったんだー。」などという返ししか思いつかなかったが、それではあまりに空っぽだとアズサは思った。


「サークルとかやってるの?」と、いいタイミングでユウナがカズルに聞いた。カズルは「別に。」と答えた。

「そうなんだ、趣味とかある?」と、ユウナは立て続けに聞いた。

カズルの頭の中にはアニメやゲーム、それから動画投稿と、いくつか返答の候補は挙がったものの、本当のことを言うのが面倒臭く感じられた。というのも、今日は明らかに2人が自分に向かって共通の何かを企んでいる、というのをカズルは感じ取っていたからだった。あまりに最初から積極的に話しかけてくるので、カズルとしても警戒心を最大にしてしまっていた。それでカズルはまた「別に。」と答えた。


 カズルは心の中で、察しが悪い人たちだなと思っていた。カズルはその警戒心と名付けた嫌悪感を全身から溢れ出しているつもりでいた。いつもよりも無愛想を決め込み、鋭い目付きと力ない返事、そういう仕草で感じ取って、必要以上に近付いてくるなよ、とカズルは胸の内で考えていた。それでもユウナたちは話を続けた。


「趣味とかないの?好きな事でいいんだよ?」というユウナの問いに、ついにはカズルは露骨に溜め息をついた。ユウナは、少ししつこかったねと謝って、アズサの方を向き2人で違う話をし始めた。カズルは1人少し離れた所で斜め下を見つめながら立っていた。


お客さんが来た。サネハリさんという、定期的にパンを買いに来るお喋り好きの中年女性だった。アズサとは仲が良く、時々パンも買わずにただ話をしに来ることもあった。ユウナから見てその2人の関係は素敵に思えた。


「サネハリさん、こんにちは。いい天気やね。」


「本当に、もう暑くて困っちゃって、も、汗止まんなくって、はーアズちゃんのお店に今日は涼みに来ました。」


 サネハリはいつもこうして冗談を言う人でもあった。他にお客さんがいようといまいと関係なく冗談を言うので、一気に場の雰囲気が和んだりもする。


「涼みに来るのは30秒で1000円やで。」


「パン買った方が安く済むじゃないのー、じゃあロッゲンミッシュブロートを半分ちょうだい。」


 こういうやりとりもユウナは好きで隣でニコニコしながら聞いていた。カズルは依然として無表情だった。カズルにはどこが面白いのか理解できなかった。冗談の構成は理解できたが面白いとは感じなかった。それで表情一つ変えなかった。楽しい雰囲気に誘われて笑う事どころか、愛想笑いさえ出来ない人間だった。



「あれ、新人さん?」


 サネハリがカズルに気付きアズサに質問した。アズサは他のお客さんにした時と同様にカズルの大まかな説明をした。


「うちの息子も大学なのよ、でも全然外でなくて、ずっとゲームしてんだか何してんだか知らないけど、偉いじゃないの、こうやって働いて。」


 サネハリがそう褒める言葉を聞いてカズルは『僕の何を知っているんだ』と少し苛立ち始めていた。


「いいわね、こんな美人2人と仕事出来て、こんないい職場他にないわよ。」と、サネハリがカズルの方を向いて冗談めいて言ったが、カズルは伏し目がちのままだった。それを見たサネハリはカズルに「パン屋の店員はもっとにこやかじゃないと、この2人みたいに、」と言ったところでカズルは急に目を開けサネハリの方を見た。それはサネハリから見たら睨まれているようにしか思えなかった。また、カズルとしてもそのつもりだった。


「ちょっと私喋り過ぎでうるさいって思われちゃってるみたいだから帰るわね、また来るね。」


 サネハリは視線をアズサの方に戻しつつそんな挨拶をして、笑顔で手を振りながら店を後にした。少し不穏な空気が流れた。


 アズサはさすがに注意が必要だと思った。


「カズル、今のはダメやで。サネハリさんも言ってたけど、まぁ、ニコニコしてなくてもいいけど愛想よく振る舞わんと、今みたいにお客さんの気分を害しちゃうから。」


 アズサはなるべく柔らかい口調で説明した。カズルはそれを聞いているのかどうかさえ分からないほど無反応だった。ただ、心の中では当然怒りが沸いていた。


『色んな性格の人間がいる中で、みんながみんな明るい性格なわけないだろ。こっちはコミュ障なんだよ、ぼっちなんだよ、そういう人間への理解が足りなさすぎだろ。初対面のあんなババアにあんなこと言われたら誰でも腹立つだろ。』


 カズルは怒りを腹の底で煮えたぎらせたままで、外には一滴も漏らさなかった。ここで文句を言えば、さらに怒られ、最悪これ以上働けなくなり動画の企画も終わってしまう、とカズルは考えていた。謝る事すら忘れていた。







*20

 アズサが帰った後、ユウナはカズルの事を気に掛けていた。それが故により一層、声を掛けるのが難しくなっていた。とは言え、ユウナにも、カズルがどういった事を考えているのか、どういった事を感じているのかは見抜ける気がしなかった。外見上は、いつもと同じ。ただその通常時がそもそも分からなかったので、アズサとユウナは少しでも知りたいと声を掛けたのだが、それさえカズルの“通常の状態”を崩せなかった。いつも斜め下を向き、じっと何かを見つめているような表情。感情の有無さえ疑ってしまうほど、周囲の状況に無頓着。ユウナとはまるで違う人間だったので、対応に困った。それでもユウナは、とりあえず低い姿勢から近付いてみた。


「アズサさん、いい人だから、別に怒ってるわけじゃないと思うから、まぁ私が言うのもおかしいけど、許してあげてね。」


 カズルは引き続き黙ったままだった。顔も上げなかったので、聞こえているかどうかも分からなかった。ユウナはそれからアズサの話が間違っているわけではないことも付け加えた。


「まぁでも、アズサさんの言ってた事って、本当に、大事な事だから、ね。」


 カズルは黙っていた。


「、、、聞いてる?」とユウナが恐る恐るカズルに聞くと、当たり前だと嘲笑するように降格を少し上げ「聞いてますよ。」と強めの口調で言い放った。ユウナは「あ、ごめんそれならいいんだけど。」と返事をして時計に目をやった。カンタロウが来るまであと1時間ほどある。ユウナ自身、だんだんと息苦しさを感じ始めてしまった。



ユウナも少しずつ顔見知りのお客さんが増えて来ていた。そういうお客さん達と話す時間が楽しい分、カズルと2人でいる時の沈黙が際立った。その時カズルはというと、接客する際、それでもむすっとしたままだった。ユウナは気になったが、これ以上何も指摘しないことが得策だと思った。



3時を少し過ぎた頃、カンタロウは店に来た。ユウナといつもの挨拶を交わすと、カンタロウは2人を休憩に行かせた。カズルは直ぐに休憩室に向かって行ったが、ユウナはカンタロウのそばに少し残ってこう切り出した。


「あんまりこんなこと言いたくないんですけど、カズル君の態度が、どうしても気になっちゃって、、。私に対してとかは無愛想でもいいんですけど、お客さんに対してもそういう態度なので、、あんまりよくないと思うんですよ、、、。」


 ユウナは触れてはいけない箇所に触れてしまったような、申し訳なさそうな顔でカンタロウに相談をした。この時点ではまだカズル本人には聞かれないようにと、声を最小限までひそめた。


 カンタロウは案外あっさりと「そうやな。」と、深刻そうな顔もひとつせずあごをさすりながら答えた。そして「アズサもなんか言ってたわ。」と続けた。


「まぁ、面接の時から消極的な少年やなと思ってたし、愛想は無いなーとは思ってた。まだ働いて3日目って事もあるかもしれんし、とりあえずは様子を見ててあげよう。ちょっと一緒に仕事するのが気まずいかもしれんけど、それは我慢してくれ。」


 カンタロウの余裕のある表情や態度に、ユウナは少しホッとした。それから休憩室に向かった。休憩室に着くとカズルはパンくずだけが残ったお皿を前にして携帯をかまっていたが、ユウナが来た途端ポケットにしまってしまった。


 ユウナがまた「コーヒー、いる?」と聞くと、カズルは「いりません。」と素っ気なく返事をしたので、ユウナはそっとしておこうとも思ったがその前に「、、、遠慮はしなくていいからね。」とだけ付け加えておいた。



 様子を見よう、という提案には期待と不安が入り混じっていた。様子を見ている間に、お客さん達が嫌な思いをして店から離れて行ってしまう、という最悪の事態を想像したユウナは、そのイメージを掻き消すように頭を掻いた。

 カズルの頭の中は、今日アズサから注意を受けたことを、どうしたら動画として面白いか、ということでいっぱいだった。カンヌキカズルで“ある前に”彼はちゃんと地獄のクズぼっちだった。






*21

 店長のヤナドカンタロウが「様子を見よう」と提案してから約2カ月が経った。時期は夏真っ盛りで、カズルも夏季休暇の間は毎日来ることになっていた。カンタロウが「毎日入れるか?」と聞いた時も、カズルは「はい。」と文句一つ言わず承諾していたので、見かけのわりにやる気があるな、と思っていた。


 そして様子を見ている途中経過としてこれと言った外観上の変化はなく、それはつまりカズル自身愛想がよくなったわけでもなかった。カズルに注意を払う分なかなか声を掛けづらくなってしまったアズサとユウナは、2人でいる事が多かった。カズルよりは当然長い付き合いだということもあるが、構図としては2対1になっていた。

 とは言っても2人はカズルの事を嫌っているわけではなかった。むしろ、カズルに配慮した上での判断である。“配慮”と言っても、カズル自身が考えや不満を意見することはなく、表情も単調なので2人ともカズルにどう接していいのかが分からなかった故である。


 当然、カズルを理解しようと何度か歩み寄ったが、カズルはそれに呼応しなかった。それどころか、溜め息をついたり鋭く睨みつけたり無視をしたりということがあったりしたので、必要以上に近付かないとアズサもユウナも気を付けた。



 一方カズルは、この2か月間も定期的に職場の状況をネタにした動画を上げていた。気付けば大学生活を動画にする事もなくなり「バイトシリーズ」がずっと続いていた。それでもそのシリーズは大人気だった。

 社会からはみ出した“ぼっち”の人間が、自ら“社会の中”に飛び込んで奮闘している記録は同じく“ぼっち”である多くの若者の心をつかみ勇気を与えた。1週間に1度の動画投稿を心待ちにしている人は、最初の動画の時から比べても爆発的に増えていた。



 ユウナとアズサの思惑もまた、カズルには正しく伝わっていなかった。

『カズルに近付こうとする本人は良い反応をしないから、必要以上に距離を縮めない』と2人は思っているが、カズルはそれを単に『嫌われている』と解釈していた。その為、カズルのアズサとユウナに対する不信感は日に日に高まっていった。しかしカズルにとって、いや、言うなれば“地獄のクズぼっちにとって”それはかえって好都合だった。


【クズぼっち 酔っ払い近況報告 バイトシリーズ14】という動画の中でカズルはこんな話をしていた。


「いやー、やっぱり職場でも、ぼっちですよ。そもそも、基本の、空気、みたいなのが全然違うんすよね、他の従業員と。こっちはね、コミュ障なわけです。ただでさえ話しかけたりするのが苦手なのにね、あんな露骨に距離置かれたら、もう、無理っすよ。」


「最初のうちはね、向こうからめっちゃ話しかけてきたんっすよ、もうしつこいくらい、でも、気付いたら、その女2人とも、めっちゃ態度変わって全然話しかけてこなくなったんすよ、めっちゃ露骨でしたからね。」


「そうしたら、こっちはもう、近寄れないじゃないっすか、その女が何考えてるか分からないし。本当ね、美人だからってね、他人のこと考えられなかったらマジくそだと思いますね、僕が言うのもなんですけど。」


「僕みたいなクズぼっちが、適合しないように社会は出来てるんすよ、って思うっすね。大学でも、バイト先でも、結局、孤立するように出来てるんすよ。」


「まぁでもおかげでね、変な上下関係とかに悩まされなくて済むし、やっぱ1人の方が快適っすね、改めて思いますね。仕事しに行ってるんだから、実際、同僚とかどっちでもよくないっすか?仲良くする必要ってないっすよ、自分の時間割かれるリスクもあるし。」



 カズルは自分の短所に甘えているだけだった。“自分は他人と接するのが苦手なぼっちだ”と決めつける事で、ほとんどの事をその性質の所為に出来る。努力を忘れてしまっていた。あるいは今まで一度もしたことが無かった。アズサ達がカズルから距離を置いたのは事実だが、“嫌われている”というのは事実無根のカズルの被害妄想にすぎない。“自分は人と関わるのが苦手なダメ人間”なんだと頭の中で決めつけてしまっている分、自分にある問題の全てを、あるいは自分自身の全てをその“曖昧な性質”に丸投げしてしまっているのだ。


『“自分は人と関わるのが苦手なダメ人間”だから、大学でも職場でも嫌われる。』

『“自分は人と関わるのが苦手なダメ人間”だから、孤立する。』

『“自分は人と関わるのが苦手なダメ人間”だから、誰も助けてくれない。』

『“自分は人と関わるのが苦手なダメ人間”だから、仕事だけに集中するしかない。』


 カズルの本音はこうだが、まさに甘えだ。


『普通、大学や職場では好かれて当然。』

『普通、仲間に囲まれて当然。』

『普通、手助けされて当然。』

『普通、同僚と楽しく働ける職場環境で当然。』


 カズルの本音を裏返せばこういう事だった。しかしこれもまた“勝手な決めつけ”に過ぎなかった。社会とは本来こうあるべきだという“理想”と、実際の自分を取り巻く“現実”。“理想”は手の届かないほど高く掲げ、“現実”は必要以上にへりくだる。そうすることで、理路整然とした“限界点”を作ることが出来た。理想と現実のギャップに悩まされる、という経験談が世の中には沢山溢れ返っているが、その“反省”を活かし悩まされないようにと考えた社会は、理想と現実のギャップを手の届かない距離まで広げることで、最初から不可能な状況を作るようになった。カズルは、気付かないうちにそういう人間になっていた。


 出る杭は打たれる、という言葉の通りに社会は組織されているが、“打たれること”への恐怖心が人一倍大きいカズルは、目立たないように生きてきた。その際、自分自身を遜り周囲の人間を立てる位置が最も安全だということを学んだ。すると、そうではない人の事が異様に目についた。自身を持ち堂々としている人、派手に目立つ人、遠慮せずに何でも言えてしまう人、そういう類の人が嫌になっていった。

 『こっちが下手に出れば、いい気になりやがって。』と、自分で勝手に下手に出たにも拘らず不満を溜めるような人間になっていた。

 カズルは、自分ではそういった自分勝手で傲慢な態度はとらないようにと心掛け、意見を言いたい時は匿名で、あるいは顔を隠して自分の身を守った。すなわち“地獄のクズぼっち”としての姿でしか、意見を言えなくなってしまっていた。その“異常さ”にカズルは当然気付いていなかった。



 動画投稿をするインターネット上の世界では、カズルは顔と名前を伏せた仮の姿である。そしてその姿でいる自分には数多くの、顔と名前を伏せた支持者が付いていた。一方、現実世界の顔も名前も隠せない環境では、支持者どころか心を開ける人もいなかった。

 カズルがインターネット上で“王様気分”になれるのも、“匿名”という防具があるからであり、その防具で身を守れてさえいれば“出る杭”になる事も可能だった。逆に言えば、防具の無い状態では自分自身で殻を閉じて身を守るしかなかった。“打たれない”為には。



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